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私もまた、言葉に救われている。

まだまだ私は言葉を舐めていた。乾いた土に雨水がぐんぐん染み込んでいくように、私の心は言葉のあたたかさに満ちていく。

たかが人間の、意思疎通を図るために生み出された言葉。単なる言語。なのに私たちはどうして、そこに言葉を超えた意味を見出し、心に広げていけるのだろう。


こうして文章を公開するようになって、3年が経つ。3年もいると素晴らしい出会いもあれば、まあ苦々しい別れだってあった。だけどこんなに続けることができたのは何よりも、出会いに恵まれていたおかげだと思う。

ただ公開するだけなら、その文章はただの壁打ちだ。そうでなくいられるのは読者がいるからであり、だからこそ文章を公開する意味がある。
非常に恵まれたことに、私には私の文章を読んでくれる人、さらには感想までくれる人たちがいる。交わされる言葉のラリーに、いつだって私は励まされてきた。

先日ついにnoteの世界から飛び出して、4冊の本を作り、文学フリマにも出店した。データとしてのみ存在していた文章を現実の本にした、という事実は、ある意味私の創作活動の集大成だったと思う。

我が分身たちを手に取ってくれた皆さま、本当にありがとうございます。それぞれの本に感想が届きつつあってとても嬉しいので、ほんの一部だけですがご紹介させてください。(とはいえ勝手に紹介しているので、ご迷惑であれば言ってください……!)


本を読むのが苦手とのことなのに、既刊も新刊も一番乗りで買ってくれたYukiさん。
読みやすさは昔から何よりも意識していることだから、私の本がこうして文章の入口にしてもらえるのなら、こんなにも報われることはない。ありがたいです。


そして私の本をコンプリートしてくださっている大麦こむぎさんは、その都度本のご感想をくれる。恋愛短編集のご感想には、私もそうそう!!と全力で頷いてしまった。どっちつかずの関係、ずるいひと、好きなんです。
そしてこむぎさんが新たな環境1年生になるタイミングで1年生エッセイ集を読んでいただけたこと、なんだか素敵なご縁を感じる。


それからレオンさんは、今までnoteに公開してきた私の小説たちを、全て遡って読んでくれた。

居場所なんて文字通り「場所」じゃなくてもいいんだと思えた。私が抱えている悩みを過大評価も過小評価もせずに適切な重さで捉えるきっかけにさせてくれる場所がここにあった。

どれだけ前進しようが、どれだけ後退しようが、ここに戻ってきていいよという安心感がある。

上記記事より引用

もはやこの言葉こそが、私の居場所となった。

あまり自分の小説を持ち上げるのもどうかと思うけれど、『少女よ、星になれ』はnoteで読んでくれた人にも、加筆した書籍版を買ってくれた人にも、体感として熱い反応をくれる方が多い気がする。私の小説よりも素敵な感想をいくつもいただいているので、全てご紹介できないのが惜しい。


こうして私のもとに届いた言葉たちを、私は何度も何度も読み返す。お恥ずかしながら決して大袈裟ではなく、本当に、いちいちスクショしたりブックマークしたりしては定期的に拝んでしまう。そのたびに、心が生命力に満ち溢れてくる。我ながら気持ち悪いけれど、紹介した記事を読んでもらえたらこの気持ちも多少はわかっていただけるはず。

恐れ多いことに、私の文章を読んで救われた、と言ってくれる人がいる。だけど私の方こそ、あなたのその言葉に救われて、励まされて、なんなら生きる力まで与えられている。これだって、嘘みたいな本心だ。

自分を救うために書いた物語が、誰かの心を救っている。自分の楽しさのままに書いたものが、誰かの共感を呼び、楽しませる。こんなにも美しい言葉の巡りがあるだろうか。


ここまで書いてきて、結局私は読者自慢がしたかっただけなのではと思う。別に本を買えとも全部読めとも言いたいわけではなく、ただ「この世にはこんなにも素晴らしい読者(兼作者)がいるんだよ!!見て!!!」と高らかに叫びたかっただけなのだ。私はフォロワーが好きだ。好きすぎるのだ。もちろん、ここに名前を挙げなかった方々も。

最高の読者の方々に恵まれた私は、これからもみんなに、みんなの言葉に生かされていく。そしていつか折れそうになったとき、私は再び、与えられた言葉たちに救いを求めに行くはずだ。
やさしい言葉は巡り巡って、全ての人間を救うことだってできるかもしれない。そう思えるこの世は、まだまだ捨てたもんじゃない。


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