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【小説】熱のたからばこ(1/5)

あらすじ

毎晩のようにネットで知り合った「スコくん」と欲を満たし、時に人肌を求めて夜の街へと繰り出す葉月。ある夜、かつて恋人同士だった一花の死を、彼女の夫・濱谷に知らされる。別れてからもよき友人だったはずの一花に、葉月は結婚の報告すらされていなかった。
葉月は濱谷とともに、一花の暮らした東京の街、生まれ育った滋賀の湖を訪れ、彼女のルーツを辿っていく。
男と女、女と女、男と男。絡まりあう欲と執着の狭間で、葉月が向き合っていくものたちとは。


 みんなそうだ、みんなそう。「こんなに自分のことを受け入れてくれる人はいなかった」って、みんな言う。孵ったばかりの雛が最初に目にした相手じゃないんだから、と思う。その証拠に、彼らはそのうち私が特別な存在でもなんでもないことに気づき、親鳥のようになんでも許してくれる私に甘え、つけ上がり、そして跡を濁さず消えていく。彼女も、その中の一人だった。

 彼女が亡くなったと知らされた夜、私は一人ベッドの上で自身を慰めていた。電話の向こうの声は彼女の夫だと言った。知らない、人だった。
「夫、とおっしゃいましたよね」
「はい」
「あの子、結婚してたんですか?」
 彼女が死んだという現実味のない事実よりも、そちらの方が私にとって重要だった。男は面倒くさそうに「そうですよ」と返す。その声色が余計に、彼女とこの男の結婚というものがいかに自然で当たり前の事実なのかを突きつけてくるようで、胸が詰まる。最初はいたずら電話かと思ったが、どうやら嘘ではなさそうな雰囲気だ。文字通り自らを慰めていたというのに、つい先ほどまで熱を持っていた下腹部までもが切なく萎む。

「知らなかったんですけど、私」
「あなたにだけは死んだことを、死んでも伝えるなと言われました。だから、連絡しました」
 結婚の報せすらなかったことに触れず、淡々とした口調でどこかずれたことを言ってくる。
「とんだ畜生じゃないですか」
 いろんな意味を込めて吐き捨ててやった。彼女の夫、だが彼女は死んだので夫だった男は、電話の向こうで初めて薄く笑った。いや、もしかしたらただの息継ぎだったのかもしれない。

「葬儀はこちらで済ませてあるので、あなたに何かをしていただく必要はありません。ひとまずこれにてご報告とさせていただきます」
「あ、待って」
 通話を切ろうとする声を引き留めてから、小さく後悔する。引き留めてどうするんだ。ただ、このまま話を終わらせてはいけないと思った。終わらせてしまったら、二度とこの男と話せなくなる。脅迫じみた焦燥感が、私を追い立てていた。

 私が誰よりも彼女に近いはずだった。この私が彼女に知らされなかった、彼女の夫。彼女が最期に選んだ男。男がどんな人物なのか、私は知らなければならない。なぜか、そんな気がしてならなかった。
「あの、私、最後に彼女に会いに行きたいんです。連れて行ってくれませんか」
 たったそれだけの一言で、口の中がすっかり乾ききった。自分が何を言っているのか、自分でもわからなかった。半ばうわの空の状態のまま手短に日取りと待ち合わせ場所だけを告げられたような気がするが、そのときの男の口調や声色も含めて、私はよく覚えていない。そして通話は一方的に切れた。ベッドの上で下着も履かずに、いつの間にか正座したまま私はしばらく動けなくなっていた。全身が、乾ききっていた。

 明日の通話ができなくなったと言うと、スコくんはなんでよお、と情けない声を上げた。
「仕方ないじゃん。急に次の日朝から予定が入ったからさ、悠長に電話してられんのよ」
「じゃあ早めに切り上げればいいからさあ、電話しようよ。おれ、ハナちゃんがいないと夜寂しくて死んじゃう」
「昨日彼女とお泊まりするからって私のことほっといたくせによく言うよ。かわいい彼女とよろしくしときな」
 私が文句を言うと、彼は照れくさそうにへへっへへっと笑った。照れてんじゃないわよこの幸せ者っ、と追い討ちをかける。

 スコくんは通話アプリで出会った、いわゆる夜の話し相手だ。今は大学生で、スコティッシュフォールドを飼っているから名前をスコにしたという。それにスコスコって言えば今どきの愛情表現ぽくてかわいいでしょ、というのが彼なりのチャームポイントらしい。私も通話アプリで登録していたハナという名前でそのまま呼ばれている。彼とは会ったこともなければ顔も知らないけれど、ほとんど毎晩のように通話をしては互いの欲を発散させている。相性は、けっこういい方だと思う。現にスコくんは、晴れて彼女ができたというのに私との夜の通話をやめようとしない。彼女相手となるとそういうことになかなか踏み込めないところが、またウブでかわいらしいのだけれど。

「あの子はそういうのしてくれないもん。ハナちゃんじゃなきゃやだ」
 こうして求められることに、快感や優越感とともにやるせなさが伴ってくるようになったのはいつからだろう。彼もきっと、このままエスカレートして勝手に冷めて、いつか私に見切りをつけるんだ。そんな諦めの気持ちが求められれば求められるほど強くなり、私は心の底から相手にのめり込めなくなる。いつからか染みついていた、悪い癖だ。

「私だって昨日我慢して一人でしたんだから。あなたも同じ気持ちを味わいなさい」
「うえー、歳上お姉さんこわいー。っていうか一人でしたんだ。……ねえ、どうだった?」
 途中で思いがけない連絡が来てそれどころじゃなくなった、とはとても言えなかった。適当に思いついた感想を並べると、スコくんの息が少しずつ荒くなっていく。私の嘘の羅列にも自然と熱が入り、結局そのまま、いつものように互いを慰めあう流れになっていた。


 平日朝10時台の新幹線は、自由席でも比較的空いている。出張へ向かうサラリーマンがほとんどを占め、あとは子連れの親子や一人客をちらほら見かける程度だ。こんな時間に女一人で新幹線に乗っていると訳ありに見えないだろうか、という心配は杞憂だった。案外私と同じように、様々な事情で新幹線に乗る人たちがいるのだろう。今日は例の電話から3日後の水曜日だ。突然の有給申請には手こずったけれど、男に指定された日取りが平日だったので仕方ない。

 流れる景色をぼんやりと眺めているうちに、最後に彼女に会いに行った日も同じ景色が通り過ぎていたことを思い出す。
 結婚から最も程遠い女だ、と思っていた。それでいて結婚に最も近いのも彼女であろうと、私はどこかで気づいていた。そのことにずっと目を向けてこなかったのは、私だ。
 彼女は同性愛者だった。しかし彼女は求められさえすれば性別関係なく付き合えたので、私と付き合う前もその後も、普通の男と付き合ったり別れたりを繰り返していたらしい。同性で付き合ったのは結局、彼女の人生では私だけ、のはずだ。最近の彼女の恋愛模様は知らないけれど、たぶん、彼女は二度と女とは付き合っていないと思う。
 恋人として別れてからも、彼女との友人関係は続いていた。彼女に会った最後の日はいつのことだったか。計算してみると、もう2年も前のことだ。そりゃあ私の知らない間に結婚しててもおかしくないよな、と妙に納得する。2年前の夏の日、私たちは何をして、何を話したのだろう。

 梅田の改札を出るとすぐに、彼女が待っているのが見えた。夏真っ盛りの梅田の地下では、冷房の風が人の熱気に負けていた。じっとりと滲む汗をハンカチでひと拭いしてから、彼女のもとへと駆け寄る。
「はーちゃん、久しぶり」
 彼女が笑うと、その場の雰囲気ごと華やかになる。おとぎ話でしか聞かないような表現だが、彼女といるとそれが現実にあることを実感した。この日の彼女は、特に上機嫌に見えた。
「どうしたの、また彼氏でもできたの」
「へへ、ばれた? 今度の人はすごく可愛がってくれるよ」
 嬉しいとき、楽しいとき、そして悲しいときですら彼女は笑顔を絶やさない。彼女が振りまく笑顔は周囲に魔法をかけ、そして時に毒薬にもなった。何人の男が彼女の笑顔に見初められ、やがて散っていったことだろう。彼女は常に求められて生きている。私との間にあった特別な感情も、とっくに忘れてしまっているのだろう。

 私たちは大阪の大学で出会い、4年間を共に過ごした。卒業して私が地元に帰り、彼女が上京してからも私たちはきまって梅田で待ち合わせ、関西近辺を遊び歩くことにしていた。それはたまたま私たちの住む場所のちょうどいい中間地点が大阪だったのもあるし、馴染みの場所で会うことで私たちの空気が取り戻せると信じていたのもある。私たちは会うたびに学生時代に戻ったかのような気分で、当時からある場所を懐かしみ消えていく景色を惜しんだ。
 駅中を連れ立って歩きだすと、彼女はいかにも自然な流れで私の右腕に自分の左腕を絡めた。別れてからも、未だに彼女は何かとスキンシップをとりがちだ。無意識なのか意図的なのかはさておき、私はそのたびに小さな不快感を覚える。それは微々たる感覚ではあるものの、私が彼女を性的に女として見ることができなくなった証だと思う。いや、他の恋愛対象でない女性に同じようにされても、私は同じ感覚になるだろうか。たぶんならない。これはかつて女と女という関係性であったからこその感覚、なのだと思う。私が同性で付き合ったことがあるのは彼女だけだし、きっとこの先も彼女以外には現れない。だからひょっとしたらこれは、ある意味でまだ彼女を女として見ている根拠になるのかもしれない。どちらにせよこの不快感は、私にとっての安心材料になるのだった。もう私は、彼女とかつての関係になりたいわけではないのだと。どこか後ろめたい自己満足が、背筋を這い上がっていった。
 どんなに距離が近くても周りに特別違和感を与えないのは、女同士の特権だ。私は若干の不快感を抱きながらも、拒絶する気はなかった。彼女は私の腕に絡みついたまま地下のショッピングモール内を歩き、目についた店についてここ美味しそうだのこの服がかわいいだのとコメントして回る。大学時代に散々彼女と歩いたから、いくら複雑でも好きな店の位置くらいは覚えている。そんな慣れきった場所でも常に新鮮なものを追いかけることのできる彼女が、きらきらして見えた。

 私たちは大学近くにできた話題のカフェに赴き、ついでに懐かしのキャンパスを散歩した。キャンパス内をぐるっと巡り、西門から出ればかつて私たちの過ごしたアパートがある。しかし私たちは何度キャンパスを訪れようとも、あえてそこにだけは一度も足を向けなかった。あの場所には、私たちの甘い記憶と苦い思い出が絡まって、解けないままになっている。当時の記憶は過去に置き去りにした落とし物のようなもので、今の私たちには必要ないものだ。少なくとも私は、そう思っていた。だから彼女と恋をしていた頃の思い出は全部、鍵をかけてあのアパートごと封印してある。それよりも今、かつてとは違うフラットな気持ちで彼女と関われることの方が大事だった。

「ねえ、久しぶりにアパート行ってみない?」
 ところが突然彼女にそう言われたのには驚いた。けれど一方で、それ以上の感情は湧いてこなかった。そんなもんかという気持ちで、いいんじゃない、と私は答えた。断ったわけでもないのに彼女はなぜか、不服そうな顔をした。
 私たちのいたアパートは相変わらずボロボロで、壁が薄そうで、純粋に懐かしいと思った。あんなに避けてきたのが嘘みたいに呆気ない、かつての我が家との再会だった。
「はーちゃんは、ここに来てもなんとも思わなくなったんだね」
「なんとも思わないなんてことはないけど。懐かしいよ」
 思えば、この日の彼女はおかしかった。私の言葉などまるで聞いていないかのように、アパートの壁から目を離さずに呟く。無理だわ、あたしには。小さくて低い声が、私にはそう聞こえた。
「はーちゃんって、何をしたら怒って、泣いてくれたんだっけ」
 彼女の言葉の意図がわからなかった。私にどうしてほしいのか、何を言うのが彼女にとっての正解なのか、そんなことばかり考えていた。そのうち考えるのも、無駄な気がしてきた。

 帰り際、改札口で私を見送りつつ彼女は言った。
「あたし、はーちゃんのこと、ずっとここにしまっておくから。だから、忘れても大丈夫だよ」
 ああ、彼女はいよいよ本当に巣立つのか、と思った。水たまりに波紋が広がるような、小さくて確かな感情だった。それっきり、彼女から連絡が来ることも、彼女に会うこともなくなった。結局この日が、彼女に会った最後の日となった。

 彼女が結婚を知らせなかったこと、そして死ぬことを伝えなかったこと。あれは私への当てつけだったのだろうか。車内のアナウンスが新幹線の到着を告げる。私は乗り換えの準備をするため、席を立った。


▷第2話

▷第3話

▷第4話

▷第5話

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。