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【小説】長い本

男は長い本を読んでいる。
計り知れないほど分厚い本だ。

来る日も来る日も男はページを捲り、
文字の上に視線を走らせ、またページを捲る。

朝の布団の上で、食事のテーブルで、電車の座席で、水面がきらめく河原で、喫茶店で、日曜日の公園で、
男はひたすら本を読む。

昼間には窓辺から差し込む光を頼りに文字を追い、
暗く冷たい夜には手元に小さな明かりを灯す。
そうして男は一日中、本を読んでいた。


男はいつから本を読んでいるのか、とんと覚えていない。
気がついたときには本を読んでいて、どれだけの間続けているのかもわからない。
本を読むことは男の日常で、生活で、生きることそのものだ。

一向に終わる兆しがなくても、男は本を読み続ける。
誰かはそれを苦行だと言い、他の誰かは極楽だと言った。
誰に何を言われようとも、男は本を読むことだけはやめなかった。


昔はもっと、艶やかで張りのある本だった。
しかし今はもう、先に読んだページは破れ、どこかのページは抜け落ち、
表紙はすり切れてタイトルも読めなくなっている。
それでもこの先の物語はきちんと読めるのだ。
だから男は、いつまでも本を読み続けていられる。


男がいよいよ本を読むのに疲れてきた頃、本は終盤にさしかかっていた。
無機質で真っ白な病室のベッドの上で、男はかろうじて身を起こし、本を読んでいた。
本のページは残り少ない。
一息つきたいところをどうにか奮い立たせて、男は本を読み続ける。

そのページには、最初の頃とは比べものにならないほど、
ほんのわずかな文字しか綴られていなかった。
いよいよクライマックスだというのに。
男はふと目を閉じる。

すると、窓の外から鳥のさえずり、風のささやき、子供たちの歌声が聞こえてくる。
男はそのとき、初めて本以外の世界に目を向けた。
窓から差し込む明るい日差しは、暗がりの読書に慣れた男の目には眩しかった。
外の世界は、こんなにも光に満ちあふれていたのか。

それと同時に、深く皺が刻まれ、血管の浮き出た自らの手にも気がついた。
自分はいつの間に、こんなに年老いてしまったのだろうか。
ただ夢中で本を読んでいただけなのに。


男は再び本に目を落とした。
これが最後のページだ。
そのページには、この世界の美しさ、明るさ、そして儚さがいきいきと綴られていた。
男はそれだけで充分だと思った。

そしてにこやかな微笑を浮かべ、長い長い眠りについたのだった。


計り知れないほど長くて分厚い本。
それは男の人生だった。


(1001字)

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