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【小説】無音の音

 カシュ、とプルタブを開ける音が響き、こっこっこっ、と小気味よい音を立てながら喉仏が上下する。今夜は暑い。暑いくせに窓を閉めきって、エアコンもつけずに僕らは黙々と缶ビールに口をつける。

 空間が無音になる瞬間、音はないはずなのに、耳の奥ではみぃんと音が鳴っている。この無音の音が無性に好きで、嫌いだ。皺ひとつない空気が僕らの隙間を満たす。

 僕だって、別に好き好んでお通夜みたいな顔をしながらアルコールを摂取しているわけではない。事の発端は絶対にこいつ、薫のせいだ。深夜に突然コンビニの袋を引っ提げてやってきた薫は、人の家でひとしきり騒いだ挙句隣人から怒りの壁ドンをくらった。もちろん隣人は僕の隣人であって、こいつの隣人ではない。だというのにお叱りを受けるのは家主である僕だ。どうにも腑に落ちない。隣人の怒りと僕の不愉快を察した薫はようやくそこで黙りこみ、そして今に至る。

 どうやら薫は大事な彼女に振られたらしかった。そんなの僕にとっては知ったこっちゃないし、僕なんかに慰めを求めてきた時点でこいつは救われないと思った。小学生の頃から家が近所で中高大と同じ環境で過ごしてきた腐れ縁のような関係、だと僕は思っているのだが、こいつのほうは僕のことをやけに肯定的に見ているらしい。何かあるたびにこいつが一番に頼るのは僕で、僕がそれをどんなに拒んだところで無駄だった。絶大な信頼を置かれるというのは悪い気はしない。ところがこいつはなぜだかいつも、今みたいに僕や僕の周りの人々を巻き込んでいく。その尻拭いをするのも僕の役目だ。昔からそれが気に食わなかった。

 近所迷惑になるからと閉めきった窓の向こうの空気が恋しい。これだけ静かに過ごすならいっそのこと開け放ってもいいような気がするのだが、開けたところでビールの爽快な冷たさは戻ってこないし、重苦しいこの空気が晴れることはないだろう。だからといってエアコンをつけるのも、なんだか野暮ったくてつまらないものに感じられた。


 僕が僕である限り、世界の中心はどうしたって僕になってしまう。そのことに気づかされるから僕は音のない空間が苦手で、そのくせこの無音に酔いしれたくなる。そして僕は酔いしれる僕自身に吐き気を催すのだ。缶を軽く傾けてやると、生ぬるくなった不味い炭酸水が僕をのったりと侵食していく。その隣には、苦々しく表情を歪ませながら僕と同じように液体を飲み込んでいく薫がいた。

 異様だ、と思った。僕らはいつだって異様だった。地味で冴えない、女の気配が微塵もないひねくれた僕。彼女を取っ替え引っ替えする脳内お花畑な薫。僕らが一緒にいると、それぞれの友人たちが怪訝な顔で僕らを眺めた。大抵僕の友人は薫のことを嫌っていたし、おそらく薫の友人も僕の存在が煙たくて仕方なかっただろう。僕らはそれくらい、全く別の次元に生きるはずの人間同士だった。それなのに今こうして、空間を共有しながらおんなじ表情を浮かべて酒を飲んでいる。

「ねえ洋ちゃん、俺さあ、もう女の子相手にしないほうがいいのかなあ」
 不気味なほどに重たい空気をあっさりと破り、薫は缶ビールの残りを一気に呷った。酒に弱いくせして、こいつは無理をして酒を飲みすぎてしまうことがしばしばある。
「女の子を喜ばせるの、飽きちゃった。反応なんて簡単に想像がついちゃうしさ、あの子たち自分が可愛くて仕方ないんだもん」

 俺、次の相手は洋ちゃんでもいいよ。
 アルコールのせいか真っ赤になった顔をこちらに向けて、薫はにへらと笑ってみせた。普段の笑顔とは似ても似つかないほど、不器用で不細工な笑顔だった。

「……ふざけんなよ」
「えっ」
「お前、それ本気で言ってんの?」
 薫の瞳に不細工な僕の顔が映る。明らかに戸惑いの表情を見せるアホ面。そう、こいつはアホなんだ、昔から底抜けのアホなんだよ。

「や、やだなあ。冗談だよ洋ちゃん。だからさ、怒らないで」
「冗談? へえ、そうなんだ」
 どさっと激しく布の擦れる音と、痛々しく軋むベッドの音。ベッドに深く腰掛けていた薫はあっという間に僕の影の下になる。薫が手にしていた空き缶が、乾いた音を立てて床に転がった。

「僕『でも』いいってなんだよ……。僕『が』いいって言えよ、なあ」

 束の間、空間に訪れた無音の時間。鼓膜のさらに奥の方であの音が響く。ああ、こんな時に我に返っちゃいけないのに。絡まる視線に、というよりもその音に耐えきれず逸らした顔は、即座に伸ばされた薫の両手によって阻まれた。そのまま体ごと薫の胸元に吸い込まれる。

「ばかだなあ、洋ちゃん。ほんとにばかだわ」
「お前に言われたくねえよ、ばか」

 こいつに甘えていたのは、縋っていたのは僕のほうだ。薫が僕の後ろをついてくるのをいいことに、自分の感情に見て見ぬ振りをしていられた。どんなに周りから後ろ指をさされても、自分や周りの人間がこいつの身勝手に巻き込まれても、僕はこいつから離れなかった。離れられなかった。鼻腔をくすぐる薫の首筋の香りは、幼い頃のそれと何も変わっていなかった。

 僕がいる限りここは紛れもなく僕の世界で、その世界を唯一彩るのは昔から薫しかいなかった。薫がいるだけで、僕は世界の中心で孤独を味わうことはない。

「洋ちゃん大好き! ずーっと好き!!」
 無駄によく通る声が空間を支配した途端、すぐ側の壁が一発ドン、と大きな音を響かせたのだった。


おわり



あとがき

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