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【小説】熱のたからばこ(4/5)

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▼全5話をまとめたマガジンです。(完結)


 彼女の実家は、琵琶湖の畔にあった。琵琶湖を見たことがない私たちは、せっかくだからと彼女の実家を訪問する前に湖岸へとやってきた。
「すごい、ほんとに向こう岸が見えない」
 それに海の匂いもしないんだ、とつぶやくと、「さすが、海辺生まれにはわかるんだ」と濱谷さんが笑う。
「だって海だったら、こんなに近いと潮くさくてたまらないですもん」
「言われてみれば確かに、潮くささってもっと別ものですよね」
「濱谷さんは? 水辺の近くに住んだことはないの?」
「僕は大阪生まれですけど内陸の街だったし、大阪湾なんて汚くてわざわざ行きませんから。大人になって東京で暮らしてからも、海に行ったことはなかったなあ」

 湖も、海ほどではないが波が引いては寄せてくる。さらさら、ちゃぷ、その平和な音は川でも海でも聞けないしとやかな響きを含んでいた。向こう岸は見えないけれど、こちらにほど近い距離に小さな島がぽっかりと浮かんでいる。ここが彼女の育った湖なのか、と不意に妙な実感が湧いた。
 彼女は自分の故郷の話をしない人だった。どうやら実家とは折り合いが悪かったらしく、大学時代も滋賀と大阪の距離だったのに、帰省したという話を聞いたことがない。私が帰省した際に彼女にお土産を渡すたび、「ごめんね、私はなんにも持って帰れるものがないから」と首をすくめていた。私はなんとも思っていなかったが、むしろ彼女に気を遣うべきなのは私だったのかもしれない。
 穏やかで、それでいて留まるところを知らない曇り空を見上げながら、ふと一つの感情が湧き上がった。彼女の生まれ育った街を、もっと見てみたい。それはとても自然な感情だった。そしてきっと濱谷さんも同じ気持ちだと、妙な確信を持った。
「ねえ、近くの街も少し歩いてみませんか」
 私が提案すると、濱谷さんは快く頷いてくれた。湖岸から離れ、来た道を戻って駅の方へ向かう。さっき電車で調べてみたら、駅の向こうはちょっとした観光地になっているらしい。

 駅を越えてほんの一歩進むだけで、人の行き交う賑やかな商店街に出た。地元の人や観光客、様々な人たちがアーケードの下を歩いている。商店街の中にはテラスの広いカフェがあるかと思えば、老舗の傘屋や八百屋のような店も並んでいて、一つの道であらゆる時代にトリップできそうな光景だ。
「あれっ、ベビーカステラ屋さんだ」
「本当だ。珍しいですね」
 そこには屋台ではなく、一つの建物にベビーカステラ屋が店を構えていた。10個入りの袋を買い、濱谷さんと分けあいながら食べ歩きをする。濱谷さんの黒いスーツが余計に目立つのか、私たちは無数の視線を感じながら歩いていた。なんだか、素直にデートとも言いがたい状況に自分で笑えてきてしまう。

 道端に、桃色のタチアオイが咲いていた。私の背丈をゆうに越す、立派なタチアオイだ。真っすぐ天に向かって伸びた茎に、大きな花と無数の蕾が連なっている。思わずタチアオイさん、と口にしそうになり、寸前で留めた。すると、濱谷さんもタチアオイに気づいて立ち止まった。
「ああ、タチアオイさんだ」
 ずきり、と胸が痛んだ。タチアオイさん、と独り言のように言った濱谷さんは、この世で最も愛おしいものを見つめるような眼差しをしている。
 タチアオイは、彼女が好きな花だった。梅雨のこの時期、彼女の車に乗って田舎へ出かけると必ずと言っていいほど出会うタチアオイに、彼女は毎回「タチアオイさん」と反応していた。タチアオイの呼び方一つでこの男と彼女が過ごした時間をまざまざと見せつけられたようで、うっすらと吐き気がする。私はまだ、彼を彼女の夫として認めることができていないのだろうか。

 タチアオイの前を通り過ぎてから、濱谷さんはぱったりと話さなくなった。二人で不自然なほどに黙りこくったまま、足は再び湖の方へ向かっていた。港の近くの砂浜に濱谷さんが進んでいくので、私もそれについていく。濱谷さんは波が届くか届かないかというあたりの砂浜に腰を下ろし、湖を、いや、湖よりももっと遠くを見つめていた。後ろで突っ立っていても仕方ないので、私も隣にしゃがみ込んだ。スカートの先が砂に触れないよう、太腿とふくらはぎの間にスカートを挟み込む。

 沈黙に急に耐えられなくなり、私は必死に言葉を探した。すぐ目の前まで押し寄せてきた波が、控えめに引いていく。その動きに急かされるように、勝手に口が動いていた。
「どうして、一花は死んだんですか」
 口にしてから、なぜ今まで聞かなかったのだろうと我に返る。別に聞きづらかったわけじゃない。ただその疑問が今まで、なぜだか湧いてこなかっただけなのだ。彼女が死んだという事実と、彼女の死んだ理由は結びつきそうで結びつかないものだった。だからこそそれはとても素朴で、しかし何よりも重要な質問のように思えた。
 濱谷さんは沖に見える島に目をやった。
「病気でした。とても重い、ね。見つかったときには病がもう進行していて、だめだったんです」
 そういえば、と懐かしそうに笑って、彼は続けた。
「彼女はずっと病室で、あなたの話をしていましたよ。あなた方の昔のことも僕は少し知っています。僕には正直、彼女がまだあなたのことを好きだったんじゃないかと思えてならないのですがね」
「それ、どういう意味ですか」
 自分の声のトーンが低くなるのを、抑えられなかった。そんなはずはない。彼女は今の生活について、結婚したことも、病気だったことも、そして死ぬことすら私に一切知らせなかったのだ。私に少しでも未練があるのだとしたら、間違っても逆の行動をとるはずだ。少なくとも私ならそうする、のに。

 濱谷さんは残りのベビーカステラを細かくちぎり、湖に向かって放り投げた。すると水面がぱちゃぱちゃと波打ち、魚の影が見え隠れする。
「あなたについて語るときの彼女は、僕と接するのとも他の人に対するのとも違う、独特の表情をしていました。あれは、好きな人のことを思い出すときの顔でした。彼女は、あなたのことをまだ過去の──いや、もはや現在かもしれない──とにかく恋人として、大事にしまっておきたかったんですよ」
「しまって、おきたかった」
 最後はまるで彼女が乗り移ったかのように、ぐっと息を押し殺して濱谷さんは言った。
 あたし、はーちゃんのこと、ずっとここにしまっておくから。彼女のあの言葉は、そういう意味だったのだろうか。私はあれを、彼女なりの前向きな巣立ちだと解釈したつもりだった。けれど違ったのだろうか。飛んでいくはずの彼女の風切羽かざきりばねは、切り落とされていたのだろうか。

「それから、言ってなかったんですけど」
 おもむろに、濱谷さんが口を開いた。
「実はあの子、身ごもってたんです」
「身ごもる、って」
「僕との子供がいたんですよ」
 彼女と、この人との、子供。日本語がうまく頭に入っていかなくて、私はしばらくその言葉を味のなくなったガムみたいに反芻はんすうしていた。

「せめて子供だけでも、と思いましたが、治療をしながら妊娠状態を続けることは不可能だった。彼女は自分の命だけでなく、自分の子供も諦めました。どちらにせよ、彼女の治療をやめたところで子供は育ちきれないほど小さかったんです」
 濱谷さんはもうひと欠片ベビーカステラを水面に投げ入れる。すると今度は水鳥が翼をはためかせながら寄ってきて、激しく水を飛び散らせながら欠片に食らいついた。
「ただ、僕とあなたとの違いはここにある」
「え?」
「あなたは彼女を孕ませることも、彼女の子を身ごもることもできない」
 そのときようやく、この男の真意がわかった。きっとこの人は、私が彼女と別れた理由を知っている。息が詰まるような苦しさを覚えた。視界がぐらりと揺れる。だって、身ごもるということは彼女は、この人と。子供、妊娠、生殖、男、女。彼の目には優越感が宿っていた。美しくて、汚い目だ。

「行きましょう。あそこでしょ、一花の実家」
 勢いよく立ち上がり、濱谷さんの薄くなりかけた後頭部を見下ろす。スカートを大げさにばたばたと叩いてから、濱谷さんも立ち上がるのを確認して歩きだした。尻尾を巻いて逃げるような真似はしたくなかったが、今の私にできる行動はこれしかなかった。


 彼女は高いところが好きだったのだろうか。彼女の実家は12階にあって、インターホンを押すと彼女の母親らしき人が出てきた。彼女によく似た綺麗な女性で、しかしどこかやつれていた。濱谷さんが挨拶すると、母親は口角だけを上げて頷いた。
 家に入るとまず、元は彼女の部屋だったところに案内された。ドアを開けた瞬間、彼女の匂いがした。濱谷さんも同じように感じたらしく、ぐっと息を詰まらせた。部屋の中は彼女が大学から家を出て以降そのままにしてあるのか、高校の教材などが机の上に放り出されている。ただ一切手をつけられていない様子ではなく、棚の上や部屋の隅には塵一つ落ちていない。まるで、つい昨日まで高校生の彼女がここにいたかのような雰囲気だった。私がそう感じたのを察してか、私たちの背後にいた彼女の母親が口を開く。
「あの子、高校を出てからは社会人になる前に一度帰ってきたきりなんです。そろそろ片付けてほしかったのに、いよいよ手がつけられなくなってしまって」
 その声色には、娘に対する愛情のなさや無関心のような、そういうものは感じ取れなかった。ただただ普通の、娘を気遣う母親の姿に見えた。彼女がかつて、この母親とどんなやり取りをして何を感じて家に寄りつかなくなったのかは、今更確かめる術はない。それでもたぶん、彼女は普通の家庭で普通に育てられた女の子だったのだろうと思う。

 奥の和室の隅に小さな、真新しい仏壇があった。彼女は自分の仏壇を二つも持っているのか。いや、自分の仏壇は自分が死んでからしか用意されないものだから、彼女のものとは言いきれないのかもしれない。それでも二つの仏壇は、彼女が贅沢で幸せであったことの象徴のように思えた。
 彼女の母親は何も言わずに、私の手土産の饅頭を仏壇に供えた。お好きなだけいてください、とだけ言い残し、母親はそそくさと仏間を出ていった。まだ、あの人は娘との距離感を測りかねている。そう思った。

 私たちが来るからなのか普段からそうなのか、仏壇には線香が焚かれている。濱谷さんはようやく肩の力が抜けたようだった。肺の底から息を吸い、大きなため息をつく。その拍子に煙を吸い込んだのか、軽く咳き込んだ。次から次へと上ってくる煙が身体にまとわりつき、ふわりと散って空気に溶けていく。彼女がいつものように、また私にくっついてきたのかもしれない。
 二人で手を合わせ、静かに目を閉じる。昔から仏壇の前で手を合わせるときは何を考えたらいいのかわからないものだけれど、今の私の頭の中ではついさっき歩いてきた街の景色や、琵琶湖の眺望が次々と流れていく。商店街の人々、手つかずの部屋、壁の薄い大阪のボロアパート、18階から見下ろす東京の街。それらを通って、彼女は生きてきた。そのことが知れただけでよかった。

 最後に、ベランダからの景色を見せてもらった。12階からは彼女の生まれた街が見下ろせた。彼女はもしかすると、故郷のことはそんなに嫌いではなかったのかもしれない。そこから見る景色は、東京の18階から見えた景色とどこか似ているような気がした。
「突然お邪魔してすみませんでした。一花さんに会えて、よかったです」
 私が頭を下げると、彼女の母親に「こちらこそ生前は一花と仲良くしてくれて、それにこうして会いに来てくれてありがとうございました」とより深々と頭を下げられた。そして母親はこの日初めて、濱谷さんを正面からきちんと見据えた。
朔太郎さくたろうさん。短い間でしたが、うちの娘が大変お世話になりました」
 濱谷さんが言葉を詰まらせるのがわかった。けれどそれはほんの一瞬で、濱谷さんはすかさず直角に腰を折る。
「こちらこそ、たくさんご迷惑をおかけしてすみませんでした。一花さんと過ごせたこと、一生忘れません。ありがとう、ございました」
 聞いたことのないような、覇気のある声だった。彼女の母親のやつれた表情の中に、そして濱谷さんの語尾に、ほんのりと光が灯るのが確かに見えた。


▷第5話(最終話)へつづく

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。