見出し画像

大人になれない、冠婚葬祭

そうか、喪服がいるのか、と思う。
誰かが亡くなったわけではない。ただ私は喪服というものを持っていない、ということにふと気がついただけである。

物心ついてから、私はお葬式に参列した経験がほとんどない。一度だけあるのは、中学時代に同級生が病気で亡くなったとき。あのときは私たち同級生、亡くなった彼の所属していた野球部の部員総出で彼を見送った。もちろんみんな制服だった。あれ以来身近で誰かが亡くなることも亡くなりそうになることも(?)なかったから、喪服が必要に迫られることもなかったのだ。

しかし社会人たるもの、いざというときのために喪服は必須のアイテムだろう。不謹慎な話、突然会社のお偉いさんが亡くなるかもしれないし、そうでなくても身近な人が突然命を落とす可能性は決してゼロとは言えない。ゼロでない限り、備えあれば憂いなしの代表格、それこそが喪服だ。


冠婚葬祭として考えてみると、友人の結婚式や同窓会の可能性の方がずっと高いことに気がつく。挙式はしないようだけれど、地元の同級生はつい半年前に結婚していたし、それ以前に、早くも子供を産んだ子も何人か知っている。自分でも信じられないが、私たちの人生のステージは着々と進みつつある。

同窓会は某ウイルスで流れてそれっきりなので、私はよそ行きのいいワンピース、みたいなものを持っていない。そして結婚式にお呼ばれしたとき用のパーティードレスなるものなんて言うまでもない。
その上、今年の夏には会社の創立記念のパーティーがあるだとかなんとかで、これまたきちんとした服を着なければならないらしい。


なんだ、大人って、「ちゃんとした服」がこんなに必要なのか。そこにかかる費用や管理方法を想像するだけで、ちょっとため息が出る。

しかし今まで意識すらしていなかったけれど、考えずとも自分はもうそういう年齢だし、そういう社会の立ち位置にいるのだ。自覚も心構えもなかったので、改めてこの現状に驚いてしまう。いつになれば、学生気分から大人になれるのだろうか。

でももしかしたら私は、いつまでも大人にならなきゃ、と思い続けるのかもしれない。村田沙耶香さんのエッセイを読んで、そう思った。

『コンビニ人間』をはじめ、あれだけ狂気に満ちた小説を書くのに、この人はどこまでも普通の女性だった。アラサーになってもアラフォーに差しかかっても、大人の女性とは、と思い悩む村田さん。その状態を彼女は「淑女の思春期病」と呼んでいる。
周りの同世代だけでなく自分の心や身体の変化にも振り回されるその姿は、なんだかかつて思春期だった自分にも、将来の自分にも重なりそうな気がしてくる。

30代や40代は、れっきとした大人と言える年齢だ。そんな大人も思春期の頃みたいに背伸びしたくなったり、周りのことばかりを気にしてしまったりする、らしい。それなら私も、無理に大人になろうと躍起にならなくても、いいのかもしれない。

それでもきっと、時が経てば今の自分を若かったなあ、と振り返る日がやってくるのだろう。そう思えたら私は今より大人になれたということで、けれどその頃の私も私でまた、年相応にならなければ、ともがいているのだろう。なんだかいたちごっこみたいだ。でもこうやって理想の大人を目指して足掻く人生は、案外悪くないような気がしている。


この記事が参加している募集

#読書感想文

187,194件

#今こんな気分

74,112件

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。