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noteのタイトル至上主義

タイムラインに並ぶ記事の、最初の数行を読むのが好きだった。私にとってはタイトルそのものではなく、そこに何が書かれているかの方が重要だ。

最近になって、noteのタイムラインは明らかに様変わりしたと思う。なんというか、悪い意味で世の中の流れにうまく乗ってきたというか。ああ、結局君たちもそこに染まってしまうのね、という思いが先立つ。

流行りのTikTok、映画のストーリーを5分でまとめたYouTube動画、読書をしない人たち、早送りで観る映画。世の中ではどんどん短く、どんどん簡単なものがもてはやされるようになってきている。

noteだって同じだ。結局のところ長い文章は読まれないし、短く平易な言葉で表現されたものばかりが評価される。そこに何が書かれているのかは問題ではない。それっぽい雰囲気さえ作り上げられていればいいのだ。
私は基本的なスタンスとして、誰にでも通じるわかりやすいものを書こうとはしている。けれどだからといって、書くものまでばかになりたいとは思わない。


この間の最終面接で、SNSがメインの広告会社の社長とお話しした。社長曰く、今の人たちは本や映画などのコンテンツの「楽しみ方を知らない」のだという。時間を忘れて読書に耽る夏の日の尊さを、映画の世界にどっぷり浸かる真夜中の心地よさを、知らない人が世の中には増えてきた。

だからこそ、早送り映画やダイジェスト動画に需要が集まるのだ。それがいいとか悪いとかではなく、ただ本来の楽しみ方を「知らない」だけ。というか、知らないのだからその人たちにとってはそれが本来の楽しみ方なのだ。そして簡単なものを先に知ってしまえば、もちろんより時間がかかり、難しいものには手を出しにくくなる。5分でわかるストーリーを何時間もかけて追うって何? となってしまうのだ。


YouTubeのサムネイルのように、これからはnoteでもタイトルとトップ画像詐欺のようなものが横行するようになってしまうのかな、なんて思う。本当にそれでいいのだろうか。そもそも時間をかけることが醍醐味である文章がメインの場所で、その良さを失うことに意味はあるのだろうか。

文章は一行目が肝心なのに。私はただただいい文章が読みたいだけなのに。せめて最初の一行さえ読ませてくれれば、需要と供給が一致する確率がぐっと上がるはずなのに。

創作を応援するだなんだと謳っておきながら、現実は全くの逆方向を突き進んでいることに彼らは気づいていないのかしら。小説はともかく、こんな日記やエッセイじみたものが書ける場所が他に見当たらないので辞める予定はないのだけれど、なんだか私はこの時代の流れに逆行したくて仕方がないのだ。

それとも、受け入れられない私が悪い? ビジネスを理解できない私が正しくない?
まあなんでもいいのだけれど、せめて私だけは忘れずにいたいな、雰囲気ではなく、“何か”がある文章を追い求める楽しさを。


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