見出し画像

【小説】熱のたからばこ(2/5)

▷第1話はこちら

▼全5話をまとめたマガジンです。(完結)


 私たちが落ち合ったのも、梅田の駅だった。平日の昼間だというのに電車のホームから人でごった返していて、私はとてもあの男を見つけられる気がしなかった。もちろん具体的な待ち合わせ場所を決めてはいたものの、なにしろ私は男の電話越しの声しか知らないのだ。
 阪急にある本屋の前で手持ち無沙汰にしていると、不意に肩に何かが触れてびくりと震える。見ると、男性の手が私の肩に乗せられている。一瞬変質者かと思い身構えてから、もしかして、と小さく口にする。うんと首を伸ばして顔を見上げると、ああ、やっぱり、と電話よりもいくらかしっとりと低い声がした。
「向井葉月さん、ですよね」
「あ、はい、そうです。えっと……」
「ああ、すみません。こちらは名乗ってませんでしたよね。濱谷一花──渡辺一花の夫、濱谷朔太郎さくたろうといいます」
 名乗られてから、そうか、私は彼女の新姓すら知らされていなかったのか、と思う。彼女と結婚していた濱谷という男は、私より──つまり彼女より一回りは歳上に見える。顔やすらっとした佇まいには年齢を感じさせないが、髪にちらほら見える白髪はおそらく若白髪ではなく、年相応のものだ。青い眼鏡はよく似合っており、一見真面目そうな人に見える。

「すみません、少し本屋を見てから行きたいんですけど、いいですか」
 濱谷さんはそう言いながら、もう足が店内に向かっている。私もいいですよ、と言う前に後をついて歩きはじめた。
 都会の本屋はせわしなくて苦手だ。それでも外や他の店に比べれば本屋という空間は自然と静かなものなのだけれど、この店はどうしても、都会の騒がしさの余韻を引きずっているような気がする。途絶えない客足が都会の真ん中の喧騒を防ぎきれずに、ここまで連れてきてしまっているのだ。店内には早くも冷房が効いており、晒した二の腕が皮膚の内側まで冷えていった。しばらく街に来ていなかったから、都会の否応なしに冷暖房を効かせる習性のことをすっかり忘れていた。
 今は特に見たい本もないし、と行くあてを失い、仕方なく濱谷さんの後ろをついていくことにした。濱谷さんの趣味はよくわからない。小説の文庫本の棚をじっくり吟味したかと思えばふらっと移動してレシピ本を手に取り、次の瞬間には漫画コーナーで少女漫画の背表紙を眺めている。そして一度手に取った本は必ず本棚に戻す。そのくせ、各コーナーにかなりの時間を使うのだ。本屋をたっぷり一周して、濱谷さんは結局何も買わなかった。店を出ようとしたときにようやく私の存在を思い出したらしく、「付き合わせてしまってすみません」と律儀に頭を下げられた。ついていったのは私だし、そこまでされたら何も言えることなんかない。
「構いませんよ。本、お好きなんですね」
「好きというか、勉強になるんですよね。僕、フリーの仕事をしているので、世の中の流行り廃りは定期的に見ておかなくちゃならなくて」
 だからこんな平日に予定を決められたのか、と密かに抱いていた疑問が解決した。
「フリーなんですか。ライターさん、とか?」
「まあ、そんなところです。割のいい仕事ではないので、必死ですよ」
 いつかの電話口とはずいぶん印象が違う。電話越しのぶっきらぼうな濱谷さんと、今目の前で朗らかに笑う濱谷さんとが、どうしても重ならない。そういえばさっき会ったときもどこかぎこちなかったから、もしかすると単に人見知りなだけなのかもしれない。
 濱谷さんの、くしゃっと顔に皺を寄せて笑う顔には愛嬌がある。よくよく見てみると、この人の顔の造りは案外悪くない。それぞれのパーツの大きさと配置のバランスがうまくとれていて、目立つほどではないが素朴さがかえって味を出す整った顔だ。そのせいで余計に、年齢がわかりづらくなっている。
「あの、濱谷さんっておいくつなんですか」
「もう40になりますよ。葉月さんは一花と同い年、でしたよね」
「そうです、大学の同期で。今年で25になります」
 わっかいなあ、と濱谷さんはおどけてみせる。つまり、彼女とこの人は一回り以上もある歳の差で結婚したのだ。それにしても濱谷さんとは、あまり年齢を意識せずに話せる。彼女がこの人を選んだ理由もわかるような気がする。それでもどこか拭いきれない違和感が心の奥底にあって、私はそれをほじくり出したくてしょうがなかった。どこか一筋縄ではいかなさそうな雰囲気が、この人からは漂っている。
「遅くなりましたが、遠いところをわざわざありがとうございます。では、そろそろ行きますか」
「えっ、どこへ?」
 そういえば、ここからの行き先は知らされていなかった。確かに私は彼女に会いたいと言ったけれど、どこに会いに行くか、という具体的なイメージは私の中にはなかった。
「東京です。お墓がそこにあるので」
 話しながら自動券売機に並び、ここから新大阪、それから東京までの新幹線の切符を買う。
「ええっと、それじゃあ濱谷さんは、わざわざ大阪にまで迎えに来てくれたってことですか?」
 ちょうどホームにやってきた新快速電車に駆け足で乗ると、人の熱気と冷房の冷気とがせめぎあい、車内にはしっとりとした空気が揺らめいていた。どう考えても私が一人で真っすぐ東京へ向かった方がよかったのに、なんだか申し訳ない。
「いいんですよ。たまたまこっちに用事があったので。それに僕、地元がこっちなんです」
「そうなんですか。全然気づかなかった」
 てっきり濱谷さんは、東京の人だと思っていた。というのも、濱谷さんの口調には一切関西弁が混じっていなかったのだ。普通関西ど真ん中の人間は標準語ベースの敬語を話しているつもりでも、言葉の端々に関西のイントネーションが見え隠れする。それどころか、関西弁と敬語をうまくブレンドさせた話し方をする人だっているくらいだ。しかし濱谷さんは私が聞く限り、完璧な標準語を使いこなしていた。うまく“擬態”できるタイプの関西人なのだと思う。
「それじゃあ……あれ? お墓はこっちにあるんじゃないんですか?」
「それがまた少し複雑なんですけど、僕の父親の実家は東京なんですよ。あの子には、そこのお墓で眠ってもらっています」
 濱谷さんの両親は仕事の関係で大阪で出会い、そのままお母さんの実家のある大阪に住み着いたらしい。お母さんは関西弁、お父さんは標準語を話すので濱谷さんは綺麗なバイリンガルになったという。
「でも、僕はもう東京に住んで長いので関西弁はあんまりですね」
「えー、でも関西人って関西弁アイデンティティみたいなものがあるでしょ? 使い続けたいって思わなかったんですか?」
「最初は僕も意地張って関西弁を貫いてたんですけどね。だめですね、東京っていろんな地方の人がいるから、それぞれに染まるうちに最終的になんにもなくなっちゃいました」
 なんにも、と言いながら濱谷さんは両手を顔の横でぱあっと広げてみせた。いろいろなものが混ざりあっていくと、結局人は平凡な場所に落ち着いてしまうものなのかもしれない。絵の具を何色も混ぜたら、みんな黒になっていくように。その黒にもわずかな濃淡があって、私たちはその中を彷徨っている。

 東京駅は、梅田の比ではない量の人が行き交っていた。人というか、もはや何かの塊、山のようだ。人混みに飲み込まれないよう、必死に濱谷さんの後をついていく。そのうちに一番ひどかったときよりも人は減り、ようやく乗った電車はゆったり座れるくらい人が少なくなっていた。
「東京って人は多いですけど、その分路線も電車も多いので空いてるところは空いてるんですよ」
 人混みに揉まれてへとへとになっていたのが伝わったらしく、濱谷さんが気をつかって話しかけてくれた。住み慣れた街に帰ってきたからか、私とは反対に濱谷さんの表情はいくらか穏やかになっている。
「すみません、普段田舎暮らしなので慣れていなくて」
「そりゃ疲れますよね。この先は田舎の方なので、まだ落ち着くと思います。こんなところまで来ていただいて申し訳ないです」
「いや、行きたいって言ったのは私なので。むしろこちらこそありがとうございます」
 かぶりを振っていると、次です、と濱谷さんが立ち上がった。知らない名前の駅に降り立ち改札を出ると、低い建物の並ぶ街に出てほっと肩の力が抜ける。高くて煌びやかな建物に見下ろされると、なんだか疲れてしまうのだ。それでも駅前にはちゃっかり定番チェーン店が揃っているあたり、地方と東京の差を感じる。
 彼女の墓は、駅からほどない場所にあった。濱谷の苗字の下に眠る彼女が、私の知っている彼女とは思えなかった。濱谷さんも神妙な顔つきで墓を見つめている。
「やっぱり、実感ないですね」
「彼女が亡くなったこと、ですか?」
「それもそうですし、僕たち、一緒に暮らしてそんなに長くなかったんですよ。だからあの子と過ごした時間は僕の見た夢か何かなんじゃないかって、この頃思うんです」
 そう言って墓石をそっと撫でる濱谷さんの手つきが、なぜか脳裏にこびりついて離れなかった。
 墓場から再び駅に向かっていると、濱谷さんが不意に立ち止まる。
「あ、あれがうちなんです」
 低い建物がひしめき合う街にそびえ立つそのマンションには、奇妙な存在感があった。けれどこの街にうまく馴染んでいる、新しくも古くもない建物だ。あれが彼女とこの人が暮らしていた、家。
「仏壇にだけ、寄っていきますか」
 濱谷さんの誘いに、私は黙って頷いた。
 マンションは25階建てで、濱谷さんの家は18階にあった。さすがにタワマンほどではないはずだが、部屋の奥の大きな窓からは東京の景色が一望できる。
「低い建物が多いおかげで、けっこういい眺めでしょう」
 入っていきなり窓の外を食い入るように見つめていた私の後ろで、濱谷さんは言った。
「ローン、まだ残ってるのになあ」
 表情は見えなかった。見たくなかった。

 玄関の横の部屋の隅に、彼女の仏壇はちんまりと存在していた。何十年も前から仏壇があったのかと疑うくらい、部屋にはすっかり線香の香りが染みついている。遺影は私の知らない写真だ。真っすぐにこちらに顔を向け、あのまばゆい笑顔を浮かべている。彼女らしい遺影だと思った。この写真を撮ったのは、濱谷さんなのだろうか。
「僕たち、ほとんど駆け落ちみたいな形で結婚したんですよ。歳も離れてるし、彼女の両親には大反対されてて」
 気がつくと、真後ろに濱谷さんが立っていた。
「ちっとも後悔はしてませんけどね。でも、あの子の両親には、最後まで認めてもらえませんでした」
 濱谷さんは置いてけぼりをくらったような子供みたいな表情をしていた。思わず、その頭を撫でまわして抱きしめてやりたい衝動に駆られる。けれどすぐその衝動は消え、私は濱谷さんに触れることすらしなかった。
「それじゃあ今度、一花の実家に行ってみませんか」
 ほんの思いつきで言っただけなのに、濱谷さんはあからさまに嫌そうな顔をする。
「だから僕、仲がよくないって」
「だからこそですよ。行きましょうよ」
 いや、本当にいいので。そんなもんなんですよ、結婚って。投げ捨てるように濱谷さんに言われたら、私も何も言えなくなった。きらきらとした笑顔で私たちを見守る遺影から、くすっと笑い声が聞こえたような気がした。
 これで、よかったのだろうか。私はこれで、ちゃんと彼女とお別れができたのだろうか。歯に何かが挟まったときみたいな心地のまま、私は帰りの新幹線に乗っていた。そして交換したばかりの濱谷さんの連絡先をずっと、ずっとぼんやりと眺めていた。

▷第3話へつづく

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。