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【小説】熱のたからばこ(3/5)

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▼全5話をまとめたマガジンです。(完結)


 夜の繁華街は雑然としている。2週間ぶりに大阪へやってきたけれど、繁華街は特別ごみごみしていて息がしづらい。女一人で歩いていると簡単にキャッチに足止めをくらい、撒くのに時間がかかってしまう。適当な男をナンパして、隣を歩かせようかと考える。あるいは、今から会う男をこちらに呼び寄せるか。しかしここまで大きな街となると一人で歩いていようが二人で歩いていようが大して変わらないし、ナンパする気力もないのでやめた。煙草の吸い殻と唾と吐瀉物の間を縫うようにして、下を向いて自分の世界を作り上げておけば大抵のものはかわせる。そうでなくとも、ナンパやキャッチをやり過ごす一番の方法は黙って通り過ぎることだ。
 濱谷さんみたいな背格好の人が通りかかり、もしかして、なんて思ってしまう。いやいや、そもそも彼は東京の人だ。大阪に実家があるとは言っていたけれど、こんな場所をほっつき歩いているはずがない。しかも今の人は、濱谷さんよりもさらに背の高い男の人と手を繋いでいた。
 夜の街をうろつくようになって余計に思う。世の中にはこんなに異常がありふれているというのに、普通の人たちは気づかない。だから異常をわざわざ特別視して、差別だの多様性だのと騒ぎ立てるのだろう。誰を愛そうが、愛さなかろうが、それは美しいわけでもかわいそうなわけでもない。いつだって私たちは、自分にとって普通のことをしているだけだ。本来は異常なんて、存在しないのかもしれない。

 その人とは、ホテルの前で待ち合わせることになっていた。変におしゃれなバーやレストランに連れていかれるより、ずっとわかりやすくてありがたい。お互いのニーズを理解して、下手に取り繕わない人の方が私は好きだ。どんなに着飾ったところで目的は身体で、身ぐるみ剥がされてしまえばなんの意味も価値もない。それにおそらく、よほど相性がよくない限りこの人と会うことは二度とないはずだから、これでよかった。
 スコくんとの通話に不満があるわけではない。ただ私は人の体温がないとどうしたって我慢できなくなることがあって、こうしてネットで出会った人と身体を重ねることがたまにある。スコくんにだって彼女がいるのだから、これくらいは許してもらわないと困る。それにスコくんとの通話はスコくんとだからしているのであって、知らない人と身体を重ねる場合相手は誰だって構わない。人肌が恋しいだけの私と身体の関係を求めるだけの男が需要と供給を満たす、それだけのことだ。

「なんや思ってたんよりもかわいいやん」と開口一番リップサービスなのか遠慮がないのか判別つけがたい関西弁を浴びせてきた男は、このあたりに住む一つ下の営業マンらしい。
 男との行為は順調なはず、だった。
 しかしそれなりに盛り上がりを見せてきたと感じた矢先に、男は突然全てを投げ出した。
「なんか、つまらんわ君」
「つまらんって、何が?」
「君、今気持ちいい?」
「気持ちいいよ」
「いや、嘘やな。ほんまに気持ちよかったとしても、気持ちいい演技で気持ちよくなっとるわ。そういうのおれにはわかるんよなー。なんか一気に萎えるんやわそういうの。あ、おれが下手くそなんかな、せやったらごめん」
 初対面の男に素っ裸で説教されたかと思えば頭を下げられるという状況に一瞬呆気にとられたが、咄嗟に「いやいやそれはない、大丈夫だから」と首を振る。
「なら君の問題やな。君、ずーっとおれの気持ちいいことしかしてこんやん。もっとこれがしたいとかこうしてほしいとか言うてや」

 そんなこと言われたって、図星なので仕方ない。相手に気持ちよくなってもらうことこそがセックスだと、自分の気持ちよさは二の次だと、私の中で定義づけられていたのだから。
「やー、わざわざ大阪まで来てくれた時点でなんや怪しいと思てたんよな。君、そうやってなんでもかんでも許して受け入れてきたんやろ。あかんで。そんなことしたらどんな聖人やろうがつけ上がってくる。自分の違和感を解決できるんも、自分の意思を伝えれるんも、自分しかおらんねんで」
 ふう、なんか柄にもなく説教なんかしてもたわ、しかも歳上に、と男は大げさな振りをつけてベッドにひっくり返った。使い古されたベッドがぎぎい、と音を立てる。
「今日はなんやそういう雰囲気でなくなってもたし、やめとこ。君が自分で自分を気持ちよくできるようになったら、おれ今度はそっち行くからそこで会お、な」
 ぽんぽんと私の頭に手を置き、そして万札を何枚かテーブルの上に放置したまま男は部屋を出ていった。

 私が何かを許すことで文句を言われたことなんか、今までになかった。自分の違和感を解決することと、自分で自分を気持ちよくすることは、果たして同じことなのだろうか。このまま何もせずに帰るのもなんだし、スコくんといつもの行為をしようかと思ったけれど、やめた。そうしてしばらく硬いベッドの上で考え込んでいたが、増していくホテル代のことを思い出し、テーブルの上の万札を引っ掴んだ。

 ホテルを出て、私はすぐに電話をかけた。8回ほどコールが鳴ってようやく、スピーカーから眠たそうな声が漏れてきた。時刻は深夜の2時だった。
「……ぁい、濱谷です」
「濱谷さん、滋賀、行きましょう」
「はい?」
「滋賀。一花の実家です。私と一緒に、行きましょう」
 向こう側がしんと静かになる。けれど、私の中にはどこか確信めいたものがどっしりと腰を据えていた。私がテコでも動かないであろうことに気づいたのか気づいていないのか、濱谷さんはゆっくりと答える。
「……わかりました。どうせ、早い方がいいって言うんでしょう」
「おっしゃる通りです。あ、あと、今度は平日じゃなくて、土日だとありがたいかな」
「いや、あれは僕が悪かったです。なら今度の土日とか、どうですか」
「それでお願いします」
 思いつきが現実味を帯びてから、今更のように申し訳なさが顔を覗かせてきた。
「あの、すみません、こんな時間に電話しちゃって」
 私が謝ると、やっと目が覚めてきたらしい濱谷さんは穏やかに笑った。
「いつかの夜の、仕返しをされてしまいましたね」


 お面でも被っているのか、と思った。二度目に会う濱谷さんは先日とは打って変わって、ぱりっとした黒いスーツを身にまとっている。あまりにも全身が黒いので、眼鏡が黒縁になっていることにもすぐに気がついた。だからなんのためかは知らないが、一発で何かを取り繕っていることだけはわかった。
「あ、今、なんだその格好って思いましたよね」
「思いました。なんですかその格好」
「わざわざ繰り返さなくていいです。仕方ないんですよ、僕はこうするしか」

 わざわざこっちまで来てもらうのは申し訳ないからと、今回は滋賀で唯一新幹線の停まる駅で待ち合わせた。普通列車のホームに移動しながら、濱谷さんはため息をついた。明らかに正装の濱谷さんと、至って普通のワンピースでまとめただけの私が並ぶと、目を剥くほどおかしくはないがなんともいびつだ。そもそも歳の差のある男女が並んで歩いているだけであらぬ誤解を生む、ということに今更気がつく。別に付き合っているわけでもないのに、急に周りからの視線が気になって仕方なくなる。
「すみません、こんな怪しいおじさんと一緒に歩かせてしまって。ほら、僕あっちの実家と仲がよくないし、彼女の葬式のときですらまともに話もしなかったろくでもない娘婿なので。せめて向こうの気を悪くしないようにと考えていたら、こうなってしまって」
「こちらこそすみません。居心地悪いオーラが出ちゃってましたかね」
「やっぱ居心地悪いんかい。……ほんと、すみません」

 当駅始発の電車に乗り込むと、すぐに出発のアナウンスとともに電車が動きだす。新幹線停車駅だというのに、周りには何もない。広々とした土地がだらだらと続き、田舎特有の何もない場所にあるラブホテルが異様に目立つ。
 点在する建物と草木の海を見るともなしに見ていると、しだいに大きな水場が姿を現した。琵琶湖だ。曇り空のせいで、水面と空の境界線が曖昧に目に映る。その雲の合間から、幾筋もの光が湖に差し込んでいる。
「薄明光線、あるいは天使の梯子、とも言うらしいですよ」
 隣にいる濱谷さんが口を開く。
「天使の梯子、聞いたことはあります」
「なんだか幻想的ですよね。湖の水面に、本当に天使が舞い降りてきそうな気がします」
 雲が動けば今すぐにでも消えてしまいそうなその光の中に、彼女の姿を探そうとしてしまう。そんなこと起こるはずがないのに、雲間からひょっこり顔を出して、私たちに向かって手を振ってきそうな気がするのだ。天使なら梯子なんかなくったって、簡単に降りてこれるだろうに。建物に隠れて見えなくなるまで、私は光から目を離せずにいた。

▷第4話へつづく

ご自身のためにお金を使っていただきたいところですが、私なんかにコーヒー1杯分の心をいただけるのなら。あ、クリームソーダも可です。