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きっとみんな、それなりに生きづらい

生きづらさ、みたいなものをみんながこぞって掲げだしたのはいつだったろうか。HSPという言葉が世に出回りはじめたのも、同じ頃だったような気がする。

最初に言ってしまうけど、正直ずっと違和感が拭えない。生きづらさがまるで特別なことのように扱われている、そんな世の中が不思議でならない。だってそんなの当たり前のことで、今更主張するほどのことでもないと私は思っていたから。


私も遊びでパーソナル診断なるものをやってみたことがある。INFPという結果を見て、まあそうだろうな、というなんの面白みもない感想を抱いた。

世の中を見渡してみると、どうやら自分の生きづらさを掲げる人は増えているようだ。確かに生きづらいけど自分の特性はどうしようもないのに、みんなはまだ足掻いているんだなあ、とどこか羨ましくも感じる。

私はとっくに諦めた。自分はそういう生き方をするしかないんだと、ずいぶん昔に悟ったような気がする。
全員ではなくとも、ただ悲劇のヒロインをやりたいだけなんだろうな、と思えてしまう人が少なからずいる。そういうのもあって、私は積極的に生きづらさの発信者になろうとは思わなかった。

それに下手に主張して、周りに変な気を遣わせる方が余計に窮屈になる。生きづらさを主張することで、周りに何かの免罪符だと思われるのも嫌だ。それなら自分で自分の特性を理解して、少しでも生きやすくなるように行動や思考を変える方がよっぽど建設的だと思うのだけれど。

実際彼らがなんのために自分の特性を肩書きのように扱っているのかはわからない。もちろん単に共感できる相手を探したくてやっているのかもしれない、けれど、“生きづらさビジネス”みたいなものが横行する世の中を見ていると、なんとも疑わしい気持ちで眺めることしかできなくなることがあるのだ。


それに、あまり注目されないのかもしれないけれど、必ずしも内向的な人やHSPの人だけが生きづらさを抱えているとは限らない。どんなにはつらつに生きている人だってしんどくなることはあるし、私みたいに内向的でも半分諦めがついていたら案外生きやすいとも言える。

私は決して生きづらい人たちを否定したいんじゃなくて、実は思ってるほど自分だけが息苦しいわけではないんじゃないかと感じているだけで。個人差はあれど、みんな同じなんだと私は思う。人には人の乳酸菌、人には人の生きづらさ。だから、生きづらいのは自分たちだけだと思い込まなくていいはずなのだ。

もちろん、同じ人間が暮らしているのに、こんなにもたくさんの生きづらい人を増やす世の中が何よりもおかしいんだと思う。
ただ、私は生きづらさを言い訳にするような生き方は、したくない。この生きづらい世の中でいかにうまくやるか、それを模索していけばきっと、おおらかでにこやかなおばあちゃんになれるはずだから。

嘆いていてもしょうがない。そんなことより、生きづらさをどう打開するか、生きづらい自分をどう生きやすくするかを追い求める人生の方がきっと楽しくなる。そう信じる、信じて歩んでいくしかない、と、私は思う。


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