わたしのものは誰のもの?

今から約2年半前、私はモザンビークで生活をスタートした。
モザンビークでのあまりに違う価値観をもつ人々との暮らしの中で、それはそれは毎日が驚きの連続だった。「違い」はあらゆる問題の元凶だ。「違い」は人々の間に大きな障壁を作り、そしてその障壁を破壊するべく攻撃が生まれる。

「違い」に対する不寛容性が多くの争いを生み、今日も世界では公然と殺し合いが行われている。
すべての「違い」を許容する必要はないけれど、私は「違い」を①確認し、②しっかり向き合うことが平和への唯一の道だと結構本気で思っている。

そんな私がモザンビークで常に意識していたのは、自分には到底理解しがたいことが起こったときに拒絶反応を示して頑なに非難するのではなく、何がどのように自分の考えや自分の文化と違くて、じゃあその違いが生まれる背景が何なのかを粘り強く考えること、だった。

何となく理解できることもあれば、最後まで理解できないままのことも多くあった。理解をできないのは当たり前で、むしろ理解をすることよりも違いを事実として認めるプロセスがすごく大事だと思っている。

そんな数々の「違い」たちとの触れ合いの中でも、ひときわ大きな命題として最後まで残っていたのが「所有」に関する概念の違いだった。
モザンビークに行って一番初めに驚いたのは、たとえば私の家に友達がやってくると、当たり前に許可も取らず私の私物を物色して使ってみたり、ご飯があれば勝手に食べていく。そして借りるという体で持っていかれたものは90%の確率で戻ってこない。始めは困惑したが、それが現地の社会では全く変なことではなく誰もが当然のこととしてお互いそうしていることに気付くまでは時間はかからなかった。逆に私が誰かの家に行けば当たり前にご飯を分けてくれたり、私が家でパーティーをやるときはみんなが必要なものを家から持ってきてくれた。自分が昔貸したものが色んな人を巡り巡って忘れた頃にひょっと返ってきたときのあの旧友に再会したような不思議な感覚は今でも忘れない。

このカルチャーショックは海外協力隊あるある中のあるあるだ。アフリカに限らず多くの発展途上国に派遣された協力隊員全員が通る道だと思う。実際に、派遣されて間もない頃の隊員同士での話題の中で「お金やモノを貸すべきか」に関する議論は欠かせないものである。

私も始めのころは日本人であればだれもが感じる「自分のもの」なのに使われた、取られたという被害者的な感覚があったけど、ここではそんなことで争いごとは決して起こらない。私は現地の人々と生活をする中で、彼らの生きる世界観において自分と他人の境界線が非常に曖昧であることに気付いた。そしてそれが所有の概念の違いを生み出している理由なのではと考えるようになった。


前置きがかなり長くなってしまったが、今回はずっと疑問を抱いてきた「所有」の概念の違いについて、少し自分の考えをここに残しておきたい。
というも、ちょうど帰国直後のタイミングに人類学者である松村圭一郎の著書「所有と分配の人類学」が発売され、この著書を読んだことをきっかけに、自分の考えがすっかり疑問から確信に大きく近づいたからである。

さて、この著書はエチオピアの村社会が調査地となっているが、登場するエピソードはまさに協力隊あるあるの代表的なものばかりで、共感の嵐がとまらない。
松村氏はエチオピアで大家さんに勝手にラジオを借りられて、それがまた勝手に又貸しされていたという事実にショックを受けたことから「所有」という問いへの追求が始まっている(日本人だとそれもはや盗みではないかと思うくらいだけど、こんなことは良く起こる)。

彼が長年にわたって調査を続けた中での「所有」に関する見解はすごく簡単に表すと、
・私たち日本人にとっての「所有」とは、法のパラダイムにおける一元的な権利としての私的所有概念であるのに対し、エチオピア社会における「所有」は「人」・「物」・「場所」という複合的な要素の関わり合いによっていかようにも形作られる概念である。
というものである。

彼はこのエチオピアの所有概念を形作るのは、社会的なコンテキストにおける「ふさわしさ」であると表現している。
どこまでが私有できるもので、どこからが分配するべきものなのか。それは「人」・「物」・「場所」など様々な要素の中からよりふさわしい所有の形が決定されている。
たとえば調査地の家族が経営する商店で売られていた石鹸は、いくら家計に困っている親戚でも分配されることはなかったが、商店が閉業し在庫を家に持って帰ってきた結果家族に分配されることとなった。という例を通して同じモノでも「所有できるモノ」か「分配するべきモノか」はコンテキストによって変化することが指摘されている。

私も今思えばモザンビークにいるときはある種この暗黙の「ふさわしさ」の圧力を受けていた。生活の中で気付くものもあれば、それはふさわしくないとはっきり友達から指摘されることもあった。
たとえばこういったことである。
・誕生日パーティーがあればその場にいる全員に必ずケーキを分けなくてはならない(知らない人でも)。
・業者が来たらお水とお菓子を与えないといけない。
・同僚が困っていればお金を貸してあげるべき。
などなどあげていけば切りがない。

一方我々にとっての所有は非常にシンプルである。法においてそのモノの「所有権」をもっている人。それだけだ。
日本でも社会的なコンテキストが所有の在り方に影響するケースもあるが、基本的には本来所有物を貸したりあげたりするのは所有権をもつ人の権限で決まるものであり、自由に組み替えられるものではない。という考え方である。


所有概念の違いを通して法のパラダイムにとらわれすぎている現代社会の在り方を問うというのが本書の命題であり、私が個人的にずっと感じてきたことだった。
私がこれまで、所有概念の違いは単にモノの所有だけでなく、自己である「わたし」の在り方や社会の在り方、そして人生に対する考え方にすら大きな影響を与えているのではないか、そう感じていたところにこの著書がその考えを言語化させる大きな助けとなった。

’’ 私たちは生まれたときから、ひとつの名前を与えられ、登録され、身の回りのあらゆる持ち物に記名するように指示される。自分自身に名札をつけ、テストの答案用紙に自分の名前を書く。それに疑問を抱くことはない。近代の国民国家は、このひとつの固定的な「わたし」を前提に社会を編成してきた。「わたし」の行為の結果には「わたし」が責任を負う。「わたし」の努力の成果は「わたし」だけが享受する。’’ 

こうして「わたし」を他者から切り離し、「わたし」と「わたしの権利」だけが独り歩きしているのである。自分のものが自分のものであることを決して疑わない。もちろん人の家に勝手に上がり込んでお菓子なんか食べていいわけがない。


一方で私が見てきたモザンビークの人たちは自分たちの生活でさえ大変なのに絶対返ってこないと分かっていながらお金を貸してあげたり、お客さんが来ればなけなしのご飯を分け与えたりする。せっかく頑張って稼いだお給料は自分の家族や親戚、病気がちな近所のおばさんなどに分け与えられ、自分の持ち分はほとんどなくなってしまう。
私はそれが宗教心や「ふさわしさ」という社会的な背景によるものだけではは到底なく、むしろ自分の人生は自分のものだけではないという概念が強く根付いているからだと思っている。

冒頭で書いたように自分と他者の境界線が非常に曖昧なのだ。
でもよくよく考えれば当然なことだ。自分の人生は自分だけで成り立つはずがない。自分の人生は他人の人生でもあり、他人の人生は自分の人生でもあることを彼らは当然のこととして受け入れているように思える。

私はモザンビーク人がとにかく楽観的である秘密は、意外にもこの自分の人生は自分だけのものではないという人生観からきているのではないかと感じている。
自分は人生の主人公だけど、でもすべての責任が自分にあるわけではない。多くの他者との関わりの中ではじめて自分の人生が成り立つ。
だから自分を責める必要はないし、何か起きれば「Ja passou(もう終わったことよ)」とすぐに次に切り替えられる。
一方でこれは言ってしまえば責任感の欠如にもつながる。ちょっと極論かもしれないが、アフリカがなぜ発展しないのかはこの、誰もがあまり自分の人生や国の発展を自分事としてとらえていないことにも理由があるように思えてならない。


さて、ここまで二つの社会の所有概念の違いと、そこから見える社会の在り方について書いてきたが、決してどちらが正当かということが言いたいわけではない。
ただ一つ、現代社会の危険性はそれが「正当」であることを誰も疑わないということなのだ。
我々はエチオピアやモザンビークの人たちからしてみれば気の遠くなるような富を手にし、それを自分のものとして独占することに何のうしろめたさも感じることはない。
’’でもそれが「正当」だと誰もが思い描いて行為するとき、その原則はいっそう協力に拘束力を発揮しはじめる。’’

昨今の日本では自衛の手段として他人と距離を作ることが推奨されているように思える。でもモザンビークの人たちと暮らして分かったことは、人間孤立すればするほど弱くなっていくということだ。モザンビークから帰国し
三か月日本に滞在したあと、また日本を離れて四か月たつが、日本が生きづらい理由のひとつが、何もかもが「わたし」のせい、自分以外は誰もが敵のような社会の構造によるものなのではないかと感じている。

すべて自分で独占できる代わりに、すべての責任も自分にある。どんな失敗も許されず、子どもが少し悪さをすれば親のせいにされる。他人からの批判が怖くてどんどん孤立し自分を責めてさらに他人と距離をとっていく。


私たちにとって「正当」とはなんだろうか?
人のものを勝手に使うのは悪?
それとも知らない人にご飯を分け与えないのは悪?

どっちも善になり得るし悪になりうるけど、そこに一元的な答えを出すのが近代国家の社会がとってきたやり方だ。
ただ自分たちが正当と疑わない答えは、以前権限をもつものによって正当であることが決められたにすぎないことを忘れてはいけない。

’’ 法とは所与の存在として我々の上に鎮座してきたわけではない。多くのものにあるいは力を持ったものに主張の根拠として持ち出され続けることで、そしてそれがそうあるべきと需要されることで初めて法となる。’’


私はアフリカで生活をしていると、私たちの今の社会がどんどんしんどい方向に向かっている気がしてならない。
モザンビークの所有概念の違いを観察することで見えてきた社会や「わたし」の在り方には日本人がもう少し楽に生きるためのたくさんのヒントが隠れていると思う。


わたしのものは誰のもの?
「わたしのものは、みんなのもの」という価値観が当たり前に存在している社会があること、そしてそれを正当としない私たちの社会が果たして本当に正当なのか、みなさんもぜひ考えてみてください。


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