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自己エスノグラフィー(auto-ethnography)による研究

現在、自己エスノグラフィー(auto-ethnography)による研究を個人的に始めてからもう6年目。小学校時代に毎日書いていた日記もデータの1つとして収集・分析しています。

当時の日記は、日本語の読み書きを身につけるための指導の一環として行われていましたが、改めて読み返してみると、小学校に入学した時から誰かとつながることができるのかいつも不安と緊張に駆られながら自分なりに生きようとしてきた足跡がみえてきます。

例えば、聴こえる同級生と遊んだことについて「楽しかった」や「おもしろかった」という喜怒哀楽の感情よりも、自分とコミュニケーションのニーズが異なる多数派である同級生たちと「つながれたか」「仲良くなれたか」といった人間関係の形成に関する評価で書き終わるところがありました。
それが初めて書かれたのは、小学1年、7月16日の日記。

きょう、ぼくは、やすみじかんに、むぢノートに(えを)かいた。ともだちはあそんでいた。ぼくはひとりぼっちになった。つまらなかった。

この一文だけでも、誰かと運良くつながれるのか、あるいは、突然ひとりぼっちになるのか。この切羽詰まった2つの選択肢しかない学校教育の社会構造に自分が置かれていたことがうかがえます。こうした記述は、その日以降の日記でも見られています。
この2つの選択肢のはざまでこうして日記に自分の心境を吐露して自己調整するしかない、そんな小学校時代だったのだと思います。中学校時代もそうでした。
なぜ日記にわざわざそのような吐露をしていたのでしょう。

当時は、障害の有無で就学先を決める「分離教育」が主流で、通常学校でも教育面からの「合理的配慮」や心理面からの「スクールカウンセリング」などの概念が全く皆無の時代でありました。子どもにとっては、学校が自分にとって心理的に安心できず、自分はここにいていいんだ、皆がいるから、という帰属感も持ちにくい教育環境です。しかも当時の学校や教育委員会から「ここ(通常の学校)は障害のある子どもが来るところではない」と言われました。

浜田(1999)は、他者は2つあると言います。1つは「現実の他者」。もう1つは、もう一人の自分である「内なる他者」。内なる他者は、現実の他者が内在化したものと考えられています。この「他者」には「まなざし」があり、梶田(1998)を参照すると、①社会が持つ役割や一般的価値意識(期待)を反映した一般的他者としてのまなざしと、②特に子どもの自己形成に影響を及ぼす重要な他者としてのまなざし、の2つがあるとのことです。子どもから見れば、学校は自分の人生に多大な影響を与える場であり、担任など教員は「重要な他者」として子どもたちと係わることになります。この重要な他者は子どもに内在化し、内なる他者になるわけです。

日記や母の育児日記などの一次資料の分析から、当時の私は「重要な他者」である教員から、次のように無言で圧力をかけるまなざしに余儀なく晒されていたのではと思います。
①わからないことがあっても口に出さないこと。
 教員が何を話しているかわからない時、どのように友達とつながれたらいいかわからない時、どのように授業に参加していいかわからない時があっても「わからない」と口に出さないように。たとえ口に出しても何もできることはないのだから、というまなざし。
②困っていることがあってもあなただけの問題と考えること。
 友達と一緒に遊ぶことができなかった、またひとりぼっちになってしまった、どうしたらいいのかわからない、でも他の友達はそういうことができている様子を見れば、それができていないのはあなただけ、だからあなただけの問題ですよ、自分で何とかしなさい、あなただけのために行いのは聞こえる子どもたちにとって不公平ですから、というまなざし。

そのようなまなざしに私は長年晒され続けてきたということが一次資料群から読み取ることができ、そんな学校教育の場でかろうじて発信できていたのが「日記」だったのだろうと思います。
自分の抱えている問題の解決につながるのではないかという期待を込めて日記に書いたかは全く記憶にありません。おそらく自分の内なる声が零れ落ちるように書いていたかもしれません。ただ残念ながらその日記をきっかけとして現状改善へと動いたと見られる資料は見当たりませんでした。

そして、小学3年以降の日記では、そうした記述が見られなくなりました。アルバムを見てもその頃から笑った自分の顔が写っている写真は少なくなりました。その頃から、小学校低学年の頃は零れ落ちるように発していた内なる声(生の渇望)を、自ら心の中に閉じ込めるようになったのでしょう。

改めてわからないことは分からないと言える、困っていることをともに考えて対話できる、そういうことを子どもたちと教員が実践できる学校作りが必要と感じます。

現在も自己エスノグラフィー(auto-ethnography)による研究を続けていますが、その理由は、当時の記憶が不鮮明でなんとなく思い込んでいるしかないとか、当時からの内なる他者のまなざしでずっと怒りや悲しみなど負の感情に支配されているしかないとか、モヤモヤした無限のループのような事態と向かい合ってみようと思ったからです。

自己エスノグラフィーの方法として当時の一次資料を収集し、当時の社会・政治的背景などとあわせて分析することで、自分はどのような状況でどのように生きてきたのか、自分史をより高い解像度で紡ぎ直すことが目的です。自己物語に散在する不確実性を少しでも明らかにしたい、そのような知的欲求に揺り動かされて進めているところです。

今回の内容のように当時の事態が明らかになるにつれて、現実の他者、内なる他者に対して負の感情でザワザワすることなく、こういうことがあったのだとしっかりと落ち着いて明確に語ることが可能になってきたと感じます。これはどのような言説(自己発見?自己回復?)に回収すれば良いのかまだ検討中ですが、ともあれ今のところは幸いにも自分の中の不確実性が少なくなったことで視界が晴れたように生きやすくなっているのは確かです。


梶田叡一(1998)意識としての自己-自己意識研究序説. 金子書房.
浜田寿美男(1999) 「私」とは何か. 講談社.