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より拾い、より拾われる関係へ-見えない日本手話-

聴覚障害に加えて、脳性まひなどいわゆる運動障害のために手を自分の思い通りに動かせない子どもと係わることがあります。その中には手話で話す子どももいます。

手話はこういうものだと型にはめ、それにこだわる立場の者は、そうした子どもの手話をわかりにくいとか間違っているとかそういうふうにみなすかもしれませんが、私はそう思いません。どのような表現が「フツー」なのか「ヘン」なのかとも思いません。むしろ誰も教えていないのに、子どもが自分なりの「秩序」を作って発信している姿に出会って、「ことば」とは何かと考えさせられることが多いのです。

例えば、手話の音韻パラメータの1つである【位置】で胸前(空中)で表現する手話(例./終わる/、/家/、/痛い/など)があります。しかし子どもにとって、空中にその手話の手型を一か所に停留させることが難しいのです。“乱れ”のような手の動きも出てきます。しかしそれもなんのその、動かす腕を脇腹につけて固定し、それを支えにすれば発信できます。また、/終わる/は、両手を下方向に動かしながら手型を変化させるのですが、それは脇腹に固定したままで手型を変化させるだけでよいのです。また、胸前(空中)で一方の手を停留させて、それにもう一方の手を接触させる手話(例./ありがとう/、/座る/など)は、停留させる方の手を腹の真ん中あたりにつけて固定し、そこにもう一方の手を接触させれば発信できます。

これらは決して「でたらめ」ではありません。人に「伝える」ために「秩序(1つの安定したやりかた)」というものがあった方がよいらしい、だから、そのために「秩序」を編み出し、人に伝えてみて、わかったか、よしそれで伝えていこう、そのような生き方をしているのだと思います。それなら私たちは、その「秩序」を丁寧に拾えば、その子どもの「ことば」を受信できるわけです。

そうした子どもたちに出会う度に、脳性まひ当事者である熊谷晋一郎先生のことばをいつも思い出します。

この写真(図6, 注1)における私のジェスチャーは、何を意味しているかおわかりだろうか。実はこのジェスチャーをしているとき、私の中では、下の図のように「なんのこと?」という風情で肩をすくめている気になっている。外部から見ると似ても似つかぬジェスチャーだが、私と長くつきあっている友人などは、この対応をマスターしているために、私のジェスチャーを拾えてしまうのだ。そしてそんな友人の証言によると、図6のようなジェスチャーが、だんだん図7(注2)のように見えてくるのだそうだ。一日のうち、鏡で自分を見ているほんの一瞬を除けば、私は私の動きを、周囲の応答を手がかりにしながらモニターしている。つまり、世界の応答が鏡として機能しているのだ。だから、私の動きを拾ってくれる友人に囲まれているときというのは、私自身も自分が実際に図のような動きをしているイメージを持つようになる。これが「拾い、拾われる関係」の真骨頂である。(熊谷, 2009)

注1 熊谷先生が椅子の肘掛けに両腕を置き、両手の甲は正面を向いている。注2 熊谷先生が両手を「八」の字のように広げて肩をすくめている絵。

冒頭で紹介した子どもたちとの関係もそのようなものかもしれません。ただし、熊谷先生のように自分の表現の意味まで語ることができるわけではないのです。だからこそ、お互いの「発信」の表面だけでなく「秩序」、そして「想い」をも丁寧に「より拾い、より拾われる関係」を築いていけることを目指したい、そのように考えています。そうすることで、熊谷先生のいうように「自信を持って(自分と他者との間に確かなつながりを感じて)」発信しあえる関係になったらいいと思います。

この関係に身を置いているとき、私は自信を持って、写真のような表出をすることが可能になる。そしてそれは必ずしも、好ましくないことだとは言えない。実際そのような錯覚が、イメージを介して私の運動を図に近づけていくという可能性も科学的には否定できないし、もし客観的な効果がないとしても、イメージの中の身体は確実に動けるようになっているのである。客観的に動けているかどうかは、まあ二の次と言っていいだろう。(熊谷, 2009)

※ここに掲載した熊谷先生の文章は、熊谷晋一郎(2009)リハビリの夜, 医学書院, pp194-196.から引用したものです。