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ある子どもの「自己調整」の物語。

ろう学校で幼児たちが先生の話を聞くために集まっている時。

そこに、聴覚障害に加えてADHDの傾向があるのでは?と言われている一人の幼児がいました。

彼は、最初、先生の話に集中して聞きますが、やがて集中が切れたのか、部屋にある全く動かないものに目を移します。壁に貼ってある掲示物を見たり、天井を見たり。これらを一つひとつ数秒ほど見ます。そして突然椅子から立ち上がって廊下へ一心不乱に走り出して行きます。

そういうことを度々繰り返しているとのことです。

さて、学校コンサルテーションで来ていた私は、彼を呼び止めずに距離を置きながらついていきます。

子どもは、何かを目指して、廊下を走り、次に共有スペースを横切って外に出ます。

一瞬見えなくなったので、急いで行ってみたら、朝礼に使う台が共有スペースの外壁に置かれてあって、そこに子どもが運動場に身体を向けたまま元気なさそうに座っていました。

そして青空をただしばらく見上げているだけです。1分ほどそうしていました。そこにいる時間が長く感じられました。

やがて硬かった表情が和らぎ、彼の視界に入ってきた蝶々に気づいて飛んでいる様子をゆっくり目でおいかけます。やがて目が生き生きし、表情も穏やかに。

そして、意気揚々と台から降りて、先の部屋へ駆け戻り、子どもたちが遊んでいる場に笑顔で入りました。

このエピソードから、おそらく次のようなことが考えられます。

彼は、1つのもの(動くものも含めて)を注意を向けることはできるのですが、同時に他にも注意を向けるべきものが増えたり、自分で処理できる範囲を超えてしまうと、自分に動揺が生じるようです。

あるものに注意を向ける。別のものも見なければならないとなると、先のものへの注意を解放して、別のものに焦点化しなければなりません。そうしていくつかのものに注意を配分したりします。注意を配分する事象がいくつあるか、どのように提示しているかなどの条件によっては、彼に負荷がかかってしまうようです。

だから、彼は、その負荷によって起こる動揺から立ち直るために、しかしそこに留まる必要があることもわかっており、まずは全く動かないものを選んで注意を向けることをしたのでしょう。

それでも難しくなってきたら、自ら勇気を出して(周囲から呼び止められるのを覚悟の上で)立て直せる場所を自ら見つけて、そこに行きます。そこに留まり、そうしてこれでまたやっていこうという気持ちに立ち直れたら、自ら皆のいる場所へ戻る。

彼は、決して勝手に教室を抜け出して皆を困らせるようなことをする子どもではなかったのです。ADHDのようだからと障害特性に気を取られて、彼が教室を出る行動に「問題行動」というラベルを貼ってやめさせることは彼にとっても私たちにとっても有害無益でしょう。
むしろ彼の行動の「成り行き」を丁寧に見て、彼は何をしたいのか、何をしようとしているのかを理解するまなざしを持ってついていく。そうすることで、彼は、むしろ皆と生きていくために、自分でそういう工夫を編み出して生きていることがわかるわけです。

先生方に、そうして生きている彼の物語を映像とともに伝え、彼が安心して皆と一緒にいられる係わりや環境について見直すとともに、誰にも教わっていないのに子どもが自ら立て直す工夫を編み出し、戻ってくることの素晴らしさを大切にしましょう、と話し合いました。

それ以来、先生方は、途中で彼が部屋を出ていっても笑顔で見送り、戻ってきたらおかえりなさいとあたたかく迎え入れるようになりました。彼と先生方との間に新しい信頼の履歴が刻まれました。

このように素敵な物語を生きている子どもたちに出会える教育実践がいつでもどこでも生まれてほしいものです。