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障害の新たな「社会モデル」の話。

大学が障害学生支援で「障害」というものをどのように捉えて障害学生と係わるのかを考えた時に、相互対立的に布置されている医学モデルと社会モデルの2つがあり、どちらに依拠するかということがあります。

ここ数年は、障害者差別解消法に社会モデルに基づいた「合理的配慮」の概念が盛り込まれたことで、社会モデルの考えを踏まえた支援体制の整備を後押しするようになりました。

特に、初めて聴覚障害学生支援に取り組む大学もやはり社会モデルの視点でまずどのような支援を行うかということから開始することが多いように見受けられます。

それ自体は特に悪いことではないのです。他の学生と平等に“本質的能力”を発揮できるように、”平等”の観点で義務的に支援していくものですから。むしろ長年障害学生個人の努力と工夫に委ねてきた医学モデルへの反省から、現在、大学が社会モデルの考えを踏まえた障害学生支援を進めようとしていることは人権の観点からも当然必要なことであり、一層推進させていくべき流れではあると思います。

ただ残念ながら現在も医学モデルに依拠した支援をしているケースも少なからず見られるのも事実です。

ところで、障害者差別解消法が生まれる契機となった障害者権利条約における社会モデルは、英国社会モデル(社会の側に「障害」がある)と米国社会モデル(個人と社会との間に「障害」があるが、特に社会の側の問題を重視する)の両方があるのですが、どちらかといえばICFの枠組みと重なる米国社会モデルに基づいているようです。

しかしながらいずれの社会モデルも、”インペアメント体験”を軽視しているという指摘が出されています。”インペアメント体験”とは、Grow(1996)の定義に基づくと、「喜ばしくない、或いは扱いにくい、われわれ自身の「身体」の体験」であり、「インペアメントとの闘いはたとえ社会的抑圧としてのディスアビリティが解消されたとしてもなお残るものである」といった性質を持っています。

聴覚障害学生もまた様々な抑圧体験によって“本質的能力”をまだ身につけられないでいる”身体”を有しています。日本語固有の会話や集団討論、論理的思考等の経験不足からどのようにしたらいいかわからない、聴者が怖くて深く係わることができない、日本語の使い方がまだ難しい、など。

ところが、聴覚障害学生にとっては従来の社会モデルに依拠してみればこれらは”合理的配慮”の対象に含まれるものかどうか判断できないのです。情報保障が”合理的配慮”であり、それ以外の”身体(インペアメント体験)”は結局自分自身で努力しなければならないのか?という動揺や困惑を抱えていることが少なくありません。このことは意思表明の在り方にもつながる問題です。

そして、仮に”合理的配慮”ではないとすれば義務的ではないので、インペアメント体験への支援を意思表明したとしても教職員や大学の“良心”や”ポリシー”に依拠せざるを得ないことになるのでしょうか。

したがって、聴覚障害学生支援における社会モデルは、これからはインペアメント体験にも目を配ることができる新たな社会モデルへと発展させるべきなのかについて議論がなされる必要があるのではないかと感じています。