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傷を癒すのは、”すでに癒やされている"のを思い出すことだった。


旅を終え日本に戻り、
仕事をはじめ窮屈な環境の中に身を置いたことがきっかけとなり、わたしは自分への無価値感に襲われるようになった。

私は幼い頃から、自分が大切に思っていることが社会的(学校教育や資本主義的)にはそうではなかった、ということに成長する中で知らず知らずに慢性的に傷ついていて、その傷は自分への無価値感として刻まれどんどん深くなっていった。


大人になるにつれ生産的で社会のルールを備えたわきまえた大人にならなくてはいけないという圧力から

感性が柔らかく感覚で動くのが自然なわたしは、そんな私を捨てて、
社会で真っ当に働ける、仕事ができる、役に立てる、左脳的、理論的に何かを遂行できる、という「真っ当な社会人」でいることで
自分の有用性、価値を証明していくことが自分にとっては社会を生き抜く手段であり自己防衛だった。

だから私はそれが求められるようになる節目の20歳になるのが眠れなくなるくらいに怖かったし、
大学を卒業して働くということはもうお先真っ暗でまた自分を殺していくんだという恐怖しか感じなかった。


今、日本に戻り久しぶりに窮屈な環境の中働く、ということを通して、
そんな過去の経験や感情が蘇りその傷の痛みが再発したのだと思う。
ここ最近はずっと無価値観に襲われ苛まれていた。


それをどう癒していくか、というのは私のこの人生の長期的でビックなプロジェクトなんだと思う。

自分への無価値観をモヤモヤと感じていた日々の中、
ある日、たまたまみていたyoutubeでパートナーシップの話題が耳に入った。

その時急に、涙が溢れ出した。


話に聞いたパートナーシップと、私の過去のパートナーシップでの経験がダブり、
それが引き金になって、涙が溢れて溢れて止まらなくなり、泣きじゃくる、感情の解放が起こった。


湧き上がってきたのは、

自分が持つ「自分への無価値感」が今まで癒やされてきた過去の情景たち。


「ありがとう」の涙だった。




関係性が深くなればなるほど、自分の持っている根本的な痛みに触れられる。

私は当時パートナーだった彼との関係の中で、
自分の中の無価値観を形成していた傷が膿みコントロールできなくなり溢れ出す経験をした。

私が幼い頃のきっかけで抱いてしまった無価値感を形成した深い傷を、彼は鏡になって気がつかせてくれ、パートナーシップの中で私は苦しみ、悲しみを味わわせてもらった。


私を1番大事にして。
私の話を聞いて。
私を何よりも優先にして。

私の中の私が叫び出しコントロールができなくなる。
それは決して彼が私を傷つけたとかではなく、人間関係を深く築く中でお互いの傷やコンプレックスに触れるということはとても自然に起こることで、
それがパートナーシップを結ぶことであり、学びなのだ。

そうやって自分の全てを曝け出し、受容してもらうという経験が私には必要で、彼は思いっきりそれをさせてくれて受け止めてくれた。

わたしは彼との関係の中で自分の持つ自分への無価値感、傷を作った事象を再体験し
悲しみと苦しみを味わい、感じきり、彼の前でそれを表現させてもらった。
そしてただの私、生産的じゃなくても社会に適合できる私じゃなくても社会人として真っ当じゃなくても、
そのままの私を愛してもらい、何も求めず求められず、ただ無条件にいさせてもらうこと

で、私のその傷は癒やされていった。

パートナーシップを通して一人ではできなかった自分のインナーチャイルドの癒しを経験させてもらったのだった。本当にありがたい経験を共にさせてもらえたと思う。
自分に癒すべき傷がある、ということは自分ではいつも気がつくことができず、誰かを通して気がつくのだ。




海外へひとり旅に出た時、私は言語が全くわからなかった。

日本では自分の有用性や価値の証明を、何かの役に立つことや求められたことに答えられる有能さや生産性で保っていた私は、
海外に行って初めてその方法で自分の存在価値を証明できない、という壁にぶつかった。

でもそれでいいと思わせてくれたのは、
世界を旅する世界中から来た友達たちだった。

彼らの前で私は、何ができなくても、私がただそこにいて、嬉しい、楽しい、悲しい、苦しい、を表現するだけで良かった。
私の言葉にもなっていない気持ちの断片たちから、私を理解しようとしてくれて、何度も何度も説明をしてくれて、体や表情、全部を使ってお互いを理解し合おうとしてくれた。

他に何も要らなった。

彼らは私を何のジャッジもせず、澄んだ心の目で私の存在を見てくれた。



またある時、カナダでたった数日間お世話になっていた宿があり、そこに滞在しているタイミングで、私は人生最大に人から責められる経験をした。
首を絞められて逃げ場を塞がれるような気持ちになり、その時深く精神的にダメージを負い、人目も構う余裕もなく宿で泣いていた私に、

その宿のオーナーは、
あなたに笑っててほしい幸せでいてほしい、と手を握ってハグをしておどけて見せてくれて、ご飯を食べさせてくれて、いつでも私を呼んで、と、ずっとそばにいてくれた。


私はその旅の中で、何か役に立つなんてこと何ひとつもできず、
むしろただ赤ちゃんに戻ったかのように自分本位に感情を爆発させていただけの私を、彼らはただ受け止めてくれた。

私が私のまま、そのままで、それを認めてもらうことで、私の傷はまた癒やされ、私は私に戻っていった。

誰も私にそれを求めないから自分でも自分をジャッジせず、
私は私でいる、という状態をただ受け入れられるようになった。


ああ、ずっと、わたしは癒されてきたんだ。


旅から戻り過ごす中で日本独特の空気の中に飲み込まれ、日本で育ち暮らしていたときの自分の癖が蘇り、勝手に自分を自分でジャッジしはじめ無価値感に襲われていたけれど、
「癒やされてきた」日々がわたしにはあった。

人との関係性の中で深く傷つき、
そしてまた人との関係性の中で私は深く癒やされてきた。


そんな情景が走馬灯のように蘇り、感謝が溢れて涙が止まらなかった。


私は被害者でいることを選んでここにいるのではない、
傷を抱きながら愛し愛されることを選んでここにいる。


ありがとうが溢れて涙に変わっていた。
自分の中にある愛に戻っていた。


自分の中にある「無価値感」は私にとってとても根深く、ふとした拍子にきっとこれからもそれが出てくると思う。
そのせいで苦しむことも泣き喚くことも眠れないこともこの先も絶対にある。

でもこれは自分へのメッセージとしても残したい。
苦しみに苛まれて無価値観と戦う時がまたきた時、いつでも思い出したい。

傷ついたのと同じ分、自分がどれほど愛されてここにいるのか。どれほどの愛を今まで受け取ってきたのか。
それは隣り合わせであり、表裏のものなのだ。

家族。友人。旅の中で出会った世界中の家族たち。目を合わせて笑い合えた全ての人たち。

彼らが胸の中でいつも I love you.と言ってくれている顔が思い浮かぶ。
彼らのくれたハグのあたたかさを思い起こす。

大きな闇をもつならそれだけ大きな光も既に持っているということ。
波があり、浮き沈み、傷つき癒され、それは生きることの当然のサイクル。

だから苦しい時は自分の中にある愛に必ず戻れることを知っているだけでいいのかもしれない。

生きているだけですでに私たちの理解の範疇を超えた大きな愛の中にいることを忘れなければいいのかもしれない。



私たちは誰が何を言おうと、自分が自分に何を言おうと、
傷つき癒されることを選び、そのどちらも内包させながらここに存在している。
その姿は、とてもとても勇敢で美しい。



忘れたら何度もそれを思い出してね🦋🌹

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