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あの日のきみに


前回、「自分の思ったことを書く練習」と言っておいて

あれからいきなり10日以上も経っているではないか。どうなってるんだい。

実は、下書きには途中まで書いたものが何個かあるのです。でも、最後まで書ききれない。
別に小説じゃないんだし、中途半端でも変な文章でも投稿しちゃえばいいのに、練習なんでしょ。


自分でハードルを上げているのだ。

小さい頃、文章を褒められるのが多かったことが関係しているのかもしれない。

小学生の時、家の愛犬が亡くなったことを書いた日記が、クラスの学級新聞で "先生はこの文章に感動しました。みんなもこんな日記を書こう" と紹介されたり。
(親は、それがとても嬉しかったのかその学級新聞を拡大コピーして家に貼ってくれていた。)

中学生の時、毎日提出する生活記録のコメントに、研修にきていた若い先生から「松森さんは文章で自分の感情を表現するのが上手だと思ったよ。だからそうやって表現していくことを続けていってね」と書いてくれたり。
(嬉しくて、その先生に研修が終わってからキーホルダーの入った手紙を書いた)

いやもしかしたらそこまで褒められたこともないのかもしれないけれど(2つしか文章褒められエピソードが出てこなかった。さすがに少な過ぎる。笑)、自分の書いた文章を褒められたのがとても嬉しかった記憶が強く残っている。

しかし。確か、中学の現代文だったかな…
夏目漱石の「こころ」をそれぞれ読み、感想文を書き、それを班ごとに見せ合う、という授業があった。一緒の班の子の感想文を見て、「こんな風に感じて、こんな文章を書けるなんて凄い。。私には書けない。私の感じたこと、私の文章なんてクソだな」と思った記憶がある。笑

このことがきっかけではないけれど(自分はクソだなに関して、もっと根っこの方に何かが張り巡らされている感覚がある。笑)
私はいつも、「私が何か感じたり思ったりしたことをわざわざつたない言葉でかたちにするよりも、他の人が私よりも鋭い洞察力と表現力で誰かに伝えたほうがが有益じゃないか。」と思ってしまうくせがある。文章だけじゃなく、絵や、歌や、ダンスや、アクセサリーなどの自分から作られるすべてのものに対して。

私が好きな文章を書く、オードリー若林や星野源やスイスイさんたちが存在してくれる限り、私は必要ない。私の考えや思いは取るに足らないことだ。
私がこうやってごちゃごちゃと考えていることも、その人たちの手に掛かれば素晴らしい考察力や創造力で誰かを勇気づけるものとしてこの世に産み落としてくれるのに、
そう思ってしまって、文章を書く手が止まってしまう。


でも、たとえそんなつたない文章であっても、その文章を見て後に励まされる人がいることを私は知っている。
それは、紛れもない自分自身、である。
いつも何言ってるかよくわからないあなたの文章を、後で見るのが私は好きなのです。笑
こんなこと考えてたのか、ばかだな、恥ずかしいな、と思って笑っているであろうそこのあなたへ向けて今は文章を書くのも、悪くないだろう。(突然のぺこぱ)
きっとあなたは、格好つけた言葉ではなく私がそのとき感じたことを聞きたいはずだから。(これはさすがに格好つけちゃったね)


私の感じたこと、私の文章なんてクソだな。
と思ったあの日の自分に足りなかったのは、「それでもいいじゃないか。私だってこんな素敵な文章がいつか書けるようになりたいぞう!」とクソみたいな文章を書く自分をしっかり認め、奮起する気持ちだ。
あの時の自分には言えなかったけれど、今からでも遅くないよね。


クソでもいいじゃないか。
きみだっていつか、素敵な文章が書けるようになれるよ。



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