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鏡の国と影の国──「劇場版SPY×FAMILY CODE:White」について

 100兆点!

 予告編の段階から、すでに「ファミリー向け冬休み娯楽映画」の最大公約数といった趣きがぷんぷんしていた「劇場版SPY×FAMILY CODE: White」だったが、予想を遥かに超える素晴らしい「ファミリー向け冬休み娯楽映画」に仕上がっていた。「SPY×FAMILY」にはさして興味がなかった(原作はジャンプ+で読んでいるけどTVアニメは見たことがない、くらいのレベル)私でもここまで感動したのだから、世のアーニャ大好きキッズたちにとっては素晴らしい映画体験になったのではないだろうか。ちなみに私は映画の後に原作コミックスを全巻買って読み直すくらいにはハマりました。アーニャさいこー。

 もちろん、本作に対しては厳しい意見もちらほらある。あまりにも中身が無さすぎ、空っぽすぎ、というわけだ。実際のところ、これは正しい。もともと「SPY×FAMILY」という作品自体がかなり大味なコメディなのだが、映画はそれに輪をかけて大雑破である。突然出てきた謎のマイクロフィルム(何?)を突然出てきた謎の悪役軍人(誰?)と奪い合い、突然出てきた悪のサイボーグ兵士(どういうこと???)と戦ったりして、最終的に何だかよくわからない敵の戦争計画を阻止することになる。(結局どういう計画だったの?)。おまけに、オペレーション〈梟〉が続けられなくなる!という危機感から始まった話だったはずなのに、主人公たちの頑張りとは全然関係ないところでこの問題が解決して終わるので、観客は「じゃあ何だったんだよこの話は!」となること間違いなしだ。
 しかし、とあえて言いたい。本作において、この「空回り」は積極的に意図されたものであり、むしろそれこそが、フォージャー家に救いをもたらしているのだと。

ロイド、ヨル、アーニャ──不可能な三角形

 物語の基本的な設定をおさらいしておこう。「SPY×FAMILY」は架空の東西冷戦期を舞台としたコメディ作品であり、主人公は東国に潜入している西国のスパイだ。そして、彼らの目的は大国間の危うい均衡を維持すること、である。ここが重要なのだが、ロイドの使命は「西国を勝利に導くこと」ではない。そもそも、オペレーション梟の目的自体が、東国の大物政治家が秘密裏に進めているらしい戦争計画の情報を掴み、それを阻止することにある。(だから、今後の展開でもしロイドの心が揺らぐとしたら、東国ではなく西国側が戦争計画を進めていたとき、だろう)。
 メタ的な視点を導入するなら、だから「SPY×FAMILY」という作品は、(東西の対立という)矛盾を解消し、物語を結末へと導こうとする力にたいしてどのように抗うか、の物語であると言えるだろう。(敵を倒すこと、勝利を掴むことはこの作品の目的ではない)。フォージャー家の敵とは戦争を望む=矛盾の解消を目論むものたちであり、つまりは物語を終わらせようとする存在である。戦争とは(最悪の意味で)「最終解決」なのだ。とはいえ、「SPY×FAMILY」がジャンプ+で連載されている売れ線コミックである以上、物語はある程度進まなければならないし、いつかは終わらなければならないのも事実である。
 このダブルバインドは、「家族」としてのフォージャー家にとっても同様である。フォージャー家は本物の「家族」であらねばならない(偽物だとバレたら終わり)のだが、決して本物にはなれない。彼らは(少なくともロイドにとって)任務のための家族である。任務が終われば家族も終わる。しかし反対に、任務が遅々として進まなければ、それはオペレーション梟の失敗であり、やはり家族の終わりを意味している。(それこそが今回の映画の発端でもある)。結局のところ、フォージャー家は任務が進もうが進むまいが、どちらにしても離れ離れになることが決まっている。「家族」というミッションは、最初から失敗を運命づけられているのである。

 映画の中盤で、ヨルは「家族は一緒じゃないと」「離れ離れは寂しい」と口にする。いかにもファミリー映画らしい、素晴らしいセリフだ。これは作品を貫く願いでもある。だからこそ、本作はバラバラの時間を過ごしていた3人(と1匹)が一緒に自宅のドアをくぐっていく、一見地味な場面で幕を開けるのだ。
 しかし、映画が執拗に描くのは、むしろその反対のこと、3人が一緒であることの不可能性である。実際、映画の中で3人が揃って一緒にいる時間は驚くほど短い。ロイドとアーニャが一緒の時、ヨルはいない。ヨルとアーニャが一緒の時はロイドが不在だ。そして、ロイドとヨルが一緒になるとアーニャは姿を消してしまう。3人は決して一緒になれない。唯一の例外は、「家族」の聖域として描かれている「瓦礫と絆」亭なのだが(最も、ここにおいてさえボンドは中に入ることができない)、しかしその束の間の平和もまた、突如押し入ってきた軍人たちによって壊されてしまう。「家族」が一緒にいられる聖域と、それを破壊する軍人=戦争という構図は、スパイファミリーという作品のコンセプトの反復である。
 本作は、フォージャー家が世界を救う話である。しかし、「野原一家ファイヤー!」的な、家族が一緒だから世界を救える、という話ではない(これが一般的にイメージされるファミリー映画との最大の違いだろう)。その逆だ。各々が孤独な戦いに身を投じることで初めて、束の間の「一緒の時間」が勝ち取られるのであり、その結果として世界も危機から救われるのだ。ヨルが願う「家族が一緒」の時間は、決して自然なもの、当たり前のものではない。それは根本的に不可能なものであり、己の手で勝ち取らなければならないものなのである。

「嘘を信じる」という倫理

 上述したような認識を、しかし家族の中でヨル・ブライアだけは共有していない。彼女はロイドの正体を知らないし、オペレーション梟のことも知らないし、別に東西の均衡を保つために家族をやっているわけでもない。フォージャー家がいつか離散する運命にあることも知らない。それゆえ、彼女はしばしばストーリーの中で浮きがちである。今回の話も、彼女は一人でロイドの浮気を疑って空回りしたり、謎のサイボーグ兵士(滅茶苦茶強い)と戦ったりしていただけで、本筋にはあまり絡んで来なかった。別にヨルさんがいなくてもこの話って成立するのでは…?と観客の半数くらいは思ったかもしれない。
 しかし、そうではない。ヨル・ブライアという存在なしにこの作品は成立しない。それはひとえに、彼女の「嘘を信じる」という美点ゆえである。
 「SPY×FAMILY」という作品では、誰もが嘘を吐いている。それは全ての前提である。自分が嘘を吐いているのだから、他人もまた嘘を吐いていると考えるのが自然だし、相手を疑おうと思えば、いくらでも疑うことができる。(事実、オスタニアでは秘密警察が市民をスパイ容疑で逮捕しまくっている)。しかし、だからこそ「相手の嘘をあえて信じる」ことが、この作品においては倫理的な振る舞いとなりうるのだ。なぜならそれこそが、他者を信用するということだからである。(原作の第一話で、アーニャは父が嘘つきであることを見抜くが、しかし「かっこいい嘘つき」だとして、彼のことを信用する)。
 嘘だらけのフォージャー家がそれでもうまくいっているのは、ロイドたちが上手に嘘をついているからではない(どう考えてもバレバレだろう)。その逆である。皆が皆、相手の嘘を信じてあげているからこそ、フォージャー家は成立するのだ。(原作の序盤で、ロイドがヨルを疑ってしまったことに罪悪感を抱いているのもそのためだ。例え相手が嘘をついていたとしても、それを「あえて」信じることが、フォージャー家の掟であり、家族への誠意なのである)。
 そして、「嘘を信じる」という点において、ヨル・ブライアの右に出る者はいない。彼女は(ちょっと心配になるほど)ありとあらゆる嘘を信じてしまう人間である。そして、この性格は当たり前のことながら、あまり褒められたものではない。人の言葉を疑わないということは、他人に都合よく使われるということでもあるからだ。だからこそ、彼女は幼少期から他人に指示されるがままに人を殺し続けてきたのだし、それは大人になった今でも変わっていない。
 だが、フォージャー家においては、彼女のこの性格は美点となる。ヨルがあらゆる嘘を信じてくれるからこそ、ロイドもアーニャも「家族」でいられるのである。真の意味で家族を支えているのは、ヨルなのだ。
 それは映画においても変わらない。3人の中で、ヨルだけは最後まで事の真相を理解していない。スナイデルの目的も、アーニャが拐われた理由も、謎のサイボーグ兵士の正体も(これは我々にもわからないが)知らないままだし、知ろうともしない。彼女は代わりに嘘を信じる。「チョコレート強盗団」という、信じられないほど荒唐無稽で、子供じみた嘘をあっさりと信じる。私が最も好きなシーンはここだ。ヨルが嘘を信じてくれるからこそ、3人は「チョコレート強盗団との戦い」という物語を共有し、家族一緒の時間を手に入れることができるのである。たとえそれがどんなに馬鹿げたものであっても、その嘘を信じること。それは愛の一つの形なのだ。

空回りの快楽

 本作は徹底した空回りの映画である。あらゆる行動が空転し、脱臼し、脇道に逸れ、そして全てが無意味だったことがわかるのだが、その空回りの結果として世界は危機から救われる。
 今回の話はそもそも、ロイドがオペレーション梟の担当を外されそうになるところから始まっている。それを阻止するために、なんとしても調理実習でステラを獲得するべく、遠い町の料理を食べに行く…のだが、映画のラストでこれは全部なかったことになる。ロイドが担当を外れるという話は(上司の機転により)立ち消え、学校の調理実習は厨房が爆発したことで延期になる。物語はアーニャが誤って飲み込んでしまったマイクロフィルムを巡って進展するが、実は飲み込んでいたわけではなく、最初から歯の裏側にくっついていたことが発覚する。(つまり、うんこをめぐる一連のドタバタは全部無意味だったのだ)。ロイドは菓子の材料を求めていかにもスパイっぽく駆け回るが、結局はアーニャが手に入れたのでこれも無駄だったし、頑張ってリキュールを手に入れたフランキーはオチ要員だ。ロイドの浮気を疑うヨルのドタバタは初めから何もかもが空回りでしかない。そのヨルに諭されたロイドがアーニャと和解するべく寝室のドアを開けると、彼女はすでに部屋を出てしまっている。
 明らかに過剰に思えるほどの、脱臼と空回りの連続だ。もちろんこれは「SPY×FAMILY」の本質が喜劇であることに由来しているし、何よりも本作が「映画」だからでもある。本編のストーリーに影響が出てはならないという制約により、無から生まれた敵が無の中に消えていくことになり、アーニャがステラを獲得することもない。あってもなくても同じ、無意味な物語にならざるを得ない。
 だが、映画はむしろ、この空回りこそが救いであり、幸福なのだと描いてみせる。とりわけ遊園地のシーンは象徴的だ。トラムで買い出しに行こうとするロイドの手を振り切って、アーニャは遊具の機関車に乗る。どこに進むこともない、同じ場所をぐるぐると回り続けるだけの無意味な乗り物だ。「何の娯楽性もない」とロイドはため息をつくが、機関車から手を振るアーニャはこの上なく幸せそうな顔をしている。(あるいはロイドとヨルが関係性を修復する観覧車もまた、同じ場所を回るだけの乗り物である)。動き続けること。にもかかわらず、どこにも行かないこと。終わらない空回りを続ける遊具の機関車に、映画は彼らの幸福を賭けるのだ。
 フォージャー家は意味に呪われた家族である。打算と契約によって成立した疑似家族である彼らは、常に意味を必要としている。家族である意味、自分がその一員である事の意味を。オペレーション梟という意味を失ったとき、家族もまたバラバラになる。しかしまた、その意味を完遂してしまえば、やはり待っているのは離別である。彼らは意味なしには生きられないが、意味は彼らを幸福にしない。
 空回りの快楽は、けれど彼らを意味の呪いから救い出す。空回りという無意味な運動には、紛れもない快楽がある。無意味であることの喜び。意味を担わないことを許されるという安らぎが。ロイドたちはその中に、意味が失われても──むしろ失われたからこそ、家族の繋がりが残るかもしれないという夢を見る。それは「SPY×FAMILY」という作品の本筋においては、おそらく叶わない夢だ。だが、映画なら。「本編に影響を及ぼしてはならない」「無意味な空回りで終わらなければならない」という制約が課せられた映画という空間でなら、彼らはむしろ、その夢を心ゆくまで味わうことができるのだ。
(実際、家族を救うために戦うという劇場版のストーリーは、本編のルールから明らかに逸脱している。例えば本編のバスジャック回などでもアーニャが命の危機に晒されるが、ロイドやヨルが助けに来るという展開にはならない。世界を救うために家族をやる、というのが本編の大原則なので、ごく一部の例外を除いて家族を救うために戦う、という話にはならないのだ。しかし、劇場版ではこれが反転し、家族を救うことが主目的となり、そのついでに世界も救われる、という構造になっている)。

鏡の国、影の国

 ロイド・フォージャーは〈鏡〉である。それは、彼の表の顔が「精神科医」であること、戦闘においてしばしば敵の姿に変装すること、などによく現れている。彼は鏡となって相手の本質を映し出し、相手の暴力を相手自身へと向かわせることで敵を倒す。これは本作においても同様であり、ラスボスであるスナイデルとの対決で、ロイドはスナイデル自身の姿に一瞬で変装し、彼を倒す。
 だが、〈鏡〉を突きつけられるのは敵だけではない。ロイドたちもまた同様なのだ。事実、映画は〈鏡〉を使った演出で溢れている。オペレーション梟を外れるよう命じられた瞬間、カップのコーヒーに映り込むロイドの顔。妻役としての自分に自信をなくすヨルが見つめるトイレの鏡。スナイデルに敗北したロイドの前には水差しが置かれ、俯く彼の顔が映り込む。
 鏡は現実を切り取り、真実の姿を暴き出す。鏡に向き合うとき、彼らは否応なく己の本当の姿を突きつけられる。何より重要なのは、鏡に映った彼らが常に孤独だということだ。(フォージャー家の三人が揃って鏡に映り込むシーンは一つもない)。鏡は彼らを切り離し、バラバラにする。孤独の中で己の真実に向き合わせる。家族は所詮偽物だと、お前は一人ぼっちなのだとそう告げる。(旅行の出発前、姿見を覗き込んだヨルが顔を曇らせるのは象徴的だ)。これはまた、舞台となるオスタニアが秘密警察の支配する監視国家であること(あるいはアーニャの通うイーデン校が常に厳しい評価の目に晒されること)とも無関係ではない。鏡とはつまり他者の眼差しであり、ロイドもヨルも決してそこから逃れることはできない。むしろ、彼らにはその眼差しを通じてしか、自分という存在を規定できないとさえ言えるだろう。(ロイド・フォージャーという架空の人間は、他者の眼差しの中にしか存在しない)。
 だが、映画には鏡の他にもう一つ、現実を切り取るものが存在する。影である。〈鏡〉の演出に対置されるかのように、本作のそこかしこに〈影〉の演出が仕込まれている。例えば、ロイドとヨルが和解した瞬間に、観覧車の窓越しに見える二人の影。あるいはホテルの部屋でスパイごっこに興じるヨルとアーニャの影。鏡の演出とは反対に、影の演出は彼らが共にいる姿、その幸福な瞬間を切り取り、画面に映し出す。その最たるものが噴水広場でのラストシーンである。
 映画の終わりで、仕事を終えたロイドが噴水のそばで待つヨルとアーニャのもとに戻ってくる。高く噴き上がる噴水によって画面は二つに分割され、ロイドと二人は分たれているのだが、アーニャが駆け出した瞬間に噴水は止み、彼らを遮るものは何もなくなる。感動的な演出だが、問題はこの後だ。ロイド、ヨル、アーニャの三人が一緒になった瞬間、カメラは池の水面に映っているであろう彼らの鏡像に向かうことなく、並木道を歩いていく三人の影を映す。ごくありふれた、「普通の家族」にしか見えない彼らの影を。鏡ではなく影を選ぶことで、映画はフォージャー家の物語を締めくくるのだ。
 鏡と影。それはどちらも現実の断面であり、それぞれが異なる「真実」を映す。鏡の像には常に顔があり、影にはそれがない。〈影の国〉は顔も名前もない、匿名の世界である。常に理想の人間を、家族を演じ続けているフォージャー家の足元には、けれど誰でもないがゆえに自由な、影たちの国が広がっている。スパイである〈黄昏〉は名前も顔も捨てた影だけの存在だが、映画はむしろその匿名性を肯定的に捉え直すのだ。ありふれた幸福を湛えた、「普通」の存在として。〈鏡の国〉と〈影の国〉は現実の二つの断面として、微妙な均衡状態を保っている。まるで、ウェスタリスとオスタニアという二つの大国のように。フォージャー家の人々が生きているのは、それら二つの国の間である。
 鏡の国と影の国。そのどちらに彼らが向かうのかはまだわからない。けれど、希望はある。映画のエピローグで、ボンドは一つの未来を見る。そこに見えるのは、南部の海で無邪気に遊ぶ三人の姿だ。任務も世界の危機もない、アーニャの夢見た本当の家族旅行。今はまだ手の届かない場所にあるそれは、けれど確かな未来の予感として、映画の余白に描き込まれているのである。

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