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まつこ|経歴

熊本在住、もうすぐ4歳の息子と夫の3人暮らし、37歳の主婦です。

このページに興味を持って頂けるなんてありがとうございます!

経歴は要らないかな、と迷ったのですが、noteを読んでいると、どんな経験をされてきた方の文章なのか気になることがあるので、自分も書いておこうと思いました。

煌びやかな経歴ではありませんが、どんな道を歩きどんなものを拾ってきたのかざっくり分かるように振り返りながら記述していきます!
(とても長い記事です。どうか目次から気になるものだけ掻い摘んでご覧頂ければと思います。)

目次

生い立ち

名古屋で生まれ、名古屋→埼玉→浜松→金沢→名古屋 と転校を繰り返しました。同じ場所に2年半以上いたことがなく、入学と卒業を同じ学校でできたのは大学のみです。

家族構成は父・母・弟・妹の5人家族。
弟と妹はわたしと11~13歳も歳が離れていて、小5のときに弟が誕生してから高校を卒業するまで子守りはわたしの学生生活の一番の思い出かもしれません。

母が当時病気していたこともあり、下校すると、毎日2人を連れ出して散歩して、帰ってからもご飯やお片付けをして20時までは子守時間でした。母が入院中は料理を含めた家事、幼稚園の準備からお弁当作り(しかもニーズに応えたキャラ弁)、『ひよこクラブ』などを熟読していました。

小学生がベビーカーを引いて学校の友達の家へ遊びに行ったり、中学生で1歳の妹と3歳の弟を両手で軽々抱っこしている写真が出てくると、よくできたなと思いますが、すごく楽しくて苦痛に感じたことは一度もありませんでした。

学歴

高校時代に中国に興味をもち、独学していました。
その後、大学へ行くため親元を離れて大学近くの祖母の家で叔父と3人で暮らしました。
その大学の中国語学部で、中国語を4年間学びました。
基礎をみっちり学んで、成績は優秀でした。この時の基礎が残っているのか中国語から離れた今でもたまに中国語で会話をすると単語が自然に出て来たり、発音を褒められたりします。ただやはりだいぶ忘れてます。

在学中に天津外国語学院へ留学しました。
この留学に行くため、アルバイトを必死にしました。(以下「職歴」に記載)
留学中も友人と、日本語を勉強している本科生の週末クラスを受け持って日本語教師をしていました。楽しかったけど、留学中は勉強と遊びとの両立は結構大変でした。でもアルバイト代は充分頂けて助かりました。

大学時代はわたしにとって青春といえるご褒美タイムだったと思います。
毎日本当にほんとうに、楽しかった。
サークル活動は大学祭実行委員をしました。これは思っていたサークルと違って会社のようで、定例会議があるし広告費を集めに営業に回るし、とにかく学びが多かったです。
ゼロエミッションを掲げ、恐らく当時でははじめての「ゴミ箱を設置しない、ゴミを一切出さない大学祭」という企画を実行しました。
確か2008年。今でこそエコブームですが、当時は今ほど世の中の関心は無く、今思うとすごく貴重な経験でした。企画やモノづくりの、基礎的なことを学んだと思っています。

職歴【大学時代】

大学費用は入学金を祖父が負担してくれた他は、全額奨学金で賄いました。
学費、祖母への下宿代、留学費用を稼ぐために同時に4つくらいのバイトを掛け持ちしていました。勉強と、大学祭の活動もあって、恋愛は奔放だったので毎日忙しかったです。

①100円ショップのPOP制作

通常のレジ打ちや陳列整理などのほかに、POP広告の制作を任せていただきました。例えば夏休みシーズンになると売れ筋に合わせて虫かごや自由研究になりそうな商品に合わせて絵を描いたり、画用紙や段ボールで目立つ販促物を制作したりします。店長が気に入ってくれていて、こんなに楽しいのに一日中コレをしてて良いと言ってくれたのでやりたい放題でした。

②甘味喫茶のホール

「おかげ庵」というコメダ系列の和風喫茶が近所にできて、あんこ好きとしてはたまらずバイトしました。テーブルにミニ焼台を乗せて串団子を焼いたり、美味しい和菓子やぜんざいが食べられるお店です。
ここは、ただただ好きでした。
でもイカつい男性店長と元ヤンぽい女性副店長、ホールの女の子もイカつい車で通勤していて何故かヤンキーばかりでした。副店長は怖かったけど楽しかったです。

③ナゴヤ球場の売り子

これは、なんだかよく覚えていないです笑
会場内をあちこち移動していると元に居た場所がわからなくなり、毎回行きたい場所に行けなくなり迷子になっていました。あまりに迷子になるので諦めてしまい、試合を眺めたりして怒られていました。すみません。。

④回転寿司屋

ここでは紅一点。バイトは全員が高校・大学生の男性だったので女性はわたし一人。チヤホヤを想像するかもしれませんが、とても厳しかったです。
ホールもやっていましたが、厨房で握り以外の調理全部(揚げ物系、茶わん蒸し、デザートなどのサイドメニュー全て)を一人でこなすことが多かったです。何度か熱中症になるほど忙しかった職場です。
ただ同時に色々こなすのは得意なことに気付き、慣れると効率化を考えるようになって面白かったです。
エビ天の衣具合がうまく出来ず、店長に、やり直し!と何度も突き返されたのと、ソフトクリーム機のトグロが巻けず皿からはみ出るほどものすごいたっぷりぐにゃんぐにゃんしたソフトクリームを提供してお客さんが爆笑してくれたのが良い思い出です。

⑤アパレルショップ店員

服が好きだったので、最初はアパレルで就活していました。貧乏学生だったわたしは初任給が高いアパレル会社でないと生活していけないと思い、当時唯一、初任給20万としていたユナイテッドアローズを受けましたが最終東京まで行って撃沈し、就職は諦めました。
ただ学生のうちに最後に経験だけでもと思い、PINCEAU(パンソー)という当時めちゃくちゃ憧れていたショップのアルバイトをすることができました。

PINCEAU(パンソー)はADAM ET ROPÉ(アダムエロペ)などと同じJUN系列で、オリジナルと海外のドメスティックブランド、インポートセレクトも半分以上扱うお店で、働いている店員さん方のセンスが毎日本当に素晴らしかったのです。(こっそり着こなしをスケッチするほど好きでした!)この方々と少しでも一緒に働けたらどんなに幸せか、と思っていたので夢のようでした。

ここでは「同じコーディネートを二度としない」という決まりがありました。同じアイテムを色々なバリエーションで着回し、例え同じコーデだとしても髪型を変えるなどして変化させる必要があったのです。貧乏学生でしたがアイテムと古着を組み合わせて工夫を凝らしていました。こんな学生アルバイトにもシーズンごとの着こなしアイデアの宿題を出してくれたり、面談をしてくれたりとすごく丁寧に向き合ってくださったりお洒落なだけでなく人間性も尊敬する先輩たちばかりの職場でした。

勤めていたのは1年未満でしたが、内定していた企業へ就職する直前に「正社員にならない?」と、有難いお話しを頂いたのですが、わたしはそのお店があまりにも好きすぎてバイト代=ほぼ社割購入代というくらい服を買ってしまうのです笑 これから一人暮らしをするには理性を保てる自信がなく、なので今後は一ファンとして居させてくださいとお断りしました。
(現在PINCEAUは2015年1月をもってブランド終了。アダムエロペへ統合されたと聞きました。)

⑥パーティーコンパニオン/レセプションアテンダント

この仕事は社会人になってからも、中国人客の宴席などでたまにヘルプで入っていたので通算で6年ほど勤めたと思います。
大手企業含め各種パーティー、結婚式場でのアテンダント、司会、呈茶サービス、各種イベントでの受付やパーティー後のクラブ接待など幅広い仕事をしました。
チーフを務め、名刺を持ってホテルを回り、多いときは月に30万ほど稼いでいました。部下の女の子もいて、当時名古屋で100人以上の女子大学生にパーティー作法を教えたのではないかと思います。
会話作法(木戸に立ちかけし衣食住などの基本)やVIP対応する際に気を付けること、公の場での禁止事項やマナーを叩き込まれました。
コミュニケーション能力をとても鍛えて頂き、ものすごく学びになった仕事でした。

職歴【会社員時代】

大学卒業後、新卒で印刷会社に入社しました。美術館のポスター等も手掛ける会社と聞いて、実はいまでも好きな画家:ライオネル・ファイニンガーの展示の際に目を奪われた印象的なポスターを担当された会社だったのです。

①印刷会社|校正AD

入社動機とは違う部署への配属となり、大手チラシ広告の集稿、校正などをしていました。バイヤーから入稿されると、内容にモレや矛盾がないか、掲載においての禁止表現をされていないかなどを細かく確認し、バイヤーの商談の合間を見計らって直接質問し、商品撮影サンプルを集めてスタジオへ持っていったり、ディレクターとデザイナー、画像処理チームへの取次、企画部マネージャーとのMTGに参加し、4度の校正を経て印刷する直前までを担当していました。
繁忙期は同時に十数件ものプロジェクトが並行し、忙しい現場でした。しかもチラシは何千、何万枚と刷られるものなので1つの数字の校正ミスが莫大な損失を招いてしまうような緊張が常にある仕事でした。

校正という仕事は、原稿と合っていて当然なので、ミスして怒られることはあっても褒められることはほとんどありません。絶対にミスをしないこと、毎日取引先バイヤー30人以上の方とお話しし、信頼と関係性を築くこと、制作に携わる異なる業種の方々との橋渡しとして、円滑にスピーディーに正確にアシストすることを心掛けていたと思います。
質の向上のため徹底したマニュアル作成とストイックな校正スタイルを全力で模索していました。

しかし熱血&全力すぎて、人の意見を柔軟に取り入れるという素直さを欠いてしまっていた時期がありました。チームのメンバーに疎まれることも、反感をかったり、意地悪なことを言われたこともありました。自分でも、自分が正義とでも言わんばかりの生意気な態度を取っていたと呆れるほど恥ずかしく、反省しています。
それでもチームのメンバーは、温かいひとたちばかりでした。意地悪されたと言ってもわたしが嫌いということではなく、むしろ大好きだからだと分かっていました笑 みんなが大好きで、家族のようでした。

しかし、あまりに居心地が良すぎて、当時修行癖があったわたしは、巣立つことにしたのです。正直、お給料が低かったというのもあります。
ここに勤めることができて良かったと心から思っています。
5年間全力で勤め、たくさんの思い出とエールを頂いて、転職をしました。

②フラ・タヒチアンショーのダンサー

仕事ではないのですが、この時期に仕事と同じくらい本気で打ち込んでいたのがフラダンスとタヒチアンダンスでした。特にタヒチアンが好きでした。

昔からダンスが好きだったので「やったことのない、あたらしく習ったダンスで、なにかのショーに出よう」と思って、レゲエ、ベリーダンス等体験へ行って決めたのがフラでした。ショーに出たくて始めたのです。2年ほど基礎クラスで練習をして、家でも毎日のように練習していた時期があり、その後ショークラスへあがることができて、1年ほどショーダンサーとして各地で踊らせて頂きました。友達や家族も見に来てくれました。

ハワイの方が来日されて生演奏で踊ったときの気持ちよさが今でも忘れられません。その後大きなショーイベントがDVDになって、形として残ったことと、やはり衣装代などはお金がかかること、次の章③で書くこととの両立ができず、泣く泣く辞めました。
でもその時のダンサー仲間とは今も交流が続いていて、コロナ真っ最中はオンラインで一緒に踊ったりしました。
フラはいくつになっても楽しめる踊りなので、また再開してショーに出たいなと思っています。

③税理士法人|資産税コンサルタント|バックオフィスのなんでも屋

前職を退職後、税理士を志し、相続・事業承継をメインとする税理士法人、税務コンサルティング会社へ入社しました。
ここでの話は別記事にしたいくらい長くなりそうなのですが、なんとか抑えながら書きたいと思います笑

当時、大前研一さんに憧れて経営コンサルタントを目指したのですがマッキンゼーに就職するには採用基準に達していないと分かり、他のコンサル会社も考えたのですが、自信の無さから回り道して自信をつけるものがないか探していました。そのとき税理士の亀田 潤一郎さんの著書「稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?」という本をたまたま中古で見つけて読んだときに「社長の一番の相談相手は税理士です」というフレーズがピンときて税理士!と思いました。

難関国家試験である税理士の資格を取得するため資格の学校へ通い、昼は週5で仕事、夜と休日はひたすら勉強という日々を過ごしました。成績は悪くなかったのですが、勉強を面白いと思えませんでした。これが3年トライしても不合格で。
高校時代に簿記1級取得や、偏差値は5段階で4.7、8クラスある内の学年上位10名に入るなど成績優秀者として表彰されたこともあったので自分は勉強デキるという過信があったがために、人生で初めて挫折を味わったと思います。
良くしていただいた先生にも、なんで落ちるんだ?諦めなければ受かるよ!と励まして頂いていたのですが、とにかく達しなかったのです。もう四面楚歌でした。
そして、実は、途中で気づいていました。「税理士」になりたいわけではないということに。。
はじめての税理士法人の「仕事」は、毎日知らないことが知れて新鮮で、ものすごく面白みを感じていました。ただ、運よくド素人のわたしを拾ってくださったこの会社では、この道を目指すなら資格が絶対でした。全く面白くない勉強をイヤイヤやって、今年こそは合格しなきゃ、合格できないのはダメな奴、と引くに引けないのです。そして受からないので自己卑下・自己否定しまくりの完全にこじらせ状態でした。今思い出しても辛いです笑 東京で遠恋中の彼(現在の主人)とも7か月以上会いませんでした。

そんな中、彼にプロポーズされ、彼のいる東京で一緒に住みながら勉強を続ける予定で引っ越すことにしました。するとちょうど勤めていた会社の名古屋本社から東京支店の立ち上げメンバーに加わらないかという話をいただき、面白そうだなと承諾しました。
しかし、当時東京支店はおんぼろの雑居ビルにあり、メンバーはわたし含め3人だけでした。本社での環境とはガラリと変わり、ほぼすべて自分たちで作り上げていかなければならないという状況でした。これが、過去最高の激務でした。
毎日ほぼ終電、2か月近く会社付近のマンスリーマンションへ泊りこんだり、倒れたりもしました。

朝お客様宅へ行き、移動中は足りない実務知識を補うため勉強し、帰社したら新しいスタッフへの教育、常に人が足りないので採用活動もして、月末は申告に追われ、仕組みづくりや組織づくり、家に帰ったら夜中2時頃まで翌日の訪問準備や実務勉強をして、という日々を過ごしました。新婚&資格勉強どころではありません笑

激務でしたが、相続の仕事は、非常にやりがいのある、社会的意義のある仕事でした。相続税の申告には財産評価というものが必ずあり、そのうちの土地の評価がかなり面白く、それと遺言書作成も得意でした。
なにより毎日知らないことを、座学ではなく自分で調べたり先輩から直接教わって学べる環境はすごく刺激的でした。

そのうち、敏腕上司たちのおかげで売上はみるみるうちに上昇し、現在は首都圏エリアの一等地に2拠点構えるほどに成長しました。スタッフも当時の10倍以上です。当時の年収はというと、昔の3倍以上はありました。

「コンサルタントになりたい」という夢は気づいたら既に叶っていて、少し落ち着いてきた頃に妊娠し、産休育休を経て復帰後はバックオフィスに注力しました。
そして採用教育、システムフロー構築、社内アプリの開発、実務研修講師、各種プロジェクトの実行など事務所の中枢に携わる部分を幅広く担当し、様々な経験をさせていただきました。
ずっと「なんでも屋」になりたいと思っていたので、自分の仕事を信頼し、なんでも任せて頂ける環境にいられたことは大きな自信に繋がりました。
チームのメンバーはハイレベルなプロフェッショナルばかりで、この知的集団の中で一緒に仕事ができることにいつも尊敬と誇りと緊張感がありました。チームの皆が仕事をラクに楽しくできることを仕事の大きな目的としていました。
途中で熊本へ移住したのですが、有難いことに会社で唯一のフルリモート勤務をさせていただいていました。

しかし、自分の価値観の変化もあり、そして新たに熊本での畑作業のたのしさ、イラストを描くことや他の事業への興味、仕事と暮らしの時間配分を変えたいという想いが強くなり、9年勤めたこの会社を退職することにしました。辞めないと他のことが一切できないくらいどっぷり全力だったのです。悔いがないほど全身全霊で取り組めたことは人生において大きな財産になったと思います。

ただ、一部の業務だけは現在も業務委託として引き続き行っています。
業務委託を引き受けたのはメンバーたちを尊敬する戦友だと思っているからで、ご縁が続く限りはその範囲内でできることをお手伝いしたいと思っています。

おわりに

なんと、こんなにも長い記事を読んでいただいたお方、本当にありがとうございました。

正直自信がなく、誰も必要としない記事を書いてどうなる?というブロックを拭えず書き出したのですが、書いていたらものすごく楽しくなってしまいました。

自分の人との関わり合い方への発見や、物事に対する取り組み方などが整理でき、改めてこれまでの出逢いや経験に感謝のきもちが湧いてきました。

ありがとうございました。
次回からは別の記事を書いていきたいと思います!
ここまで長い記事はもう書きません!笑

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