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誰が思い出を遮るのか

GW中、旅をしていたら父親から母親の緊急入院の連絡がありまして、しかも大腿骨骨折で緊急手術という何とも痛ましい。
手術は無事成功し、母親はもう歩行器で歩いているらしいのですが、そんな母親から電話が来た。

甥っ子が小学校に行くのを見送って欲しい

ん?通学団があるよな?と思いつつ聞いてみると

最近の子は小雨でも親が送迎しちゃうのよ

しかも、連絡網が機能しておらず、小学一年生の甥っ子は集合場所に行っても誰もいないことで焦り家に帰ってきたことがあるそうだ。
ここで、この子が家に帰るという選択肢を取れたからよかったもののそのままどこかへ行ってしまう子もいるのだろうと感じた。そもそもそのための通学団だったのではないか?と全くもって教育機関が役目を果たしていないと思うと、世も末だなと感じる。

そもそもなぜ連絡網が機能していないのかと問うと、連絡したら他所の子も送らなきゃいけなくなり、手間が増えるからなるべく家族間での関わりを減らしているように感じているらしい。
なんとも冷たい世の中が出来上がったものだ。田舎特有の人間関係の鬱陶しさはもちろんあるが、それすら失ったとしたらただのアクセスの悪い地域の出来上がりではなかろうか。

まあ、雨の日に送迎するのは良いだろう。甥っ子も一人で行けばいいしそこまで躍起になることではない。問題なのは、学校側がそれで良いと思っているところだ。甥っ子の話によると、四年生になったら勝手に学校に行って良いそうだ。真実は定かではないが、それが本当ならば低学年だけが取り残されるということになる。いやいや、一体なんのための通学団なのか(2度目)

確かに雨の日は嫌いだったけれど、今思えばいろんな思い出があった。通学路にはいろんな冒険があり、発見があった。カタツムリを友達と取るのも醍醐味の一つであった。

それが車でサクッと学校に着いてしまっては、その部分の思い出だけスキップされてしまい、なんとも味気なく感じる。そんな思いもお節介なのだろうけど、一人で学校に行く羽目になっている子がいると思うと日本の教育は益々貧しくなるのだろうと痛感する。

今や公園も禁止事項が多いと聞く。子供達の思い出を遮っているのは、かつて子供であった大人たちだというのがなんとも皮肉が効いている。

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