「行こうか、人の心を知る旅路へ」の意味
アニメ『葬送のフリーレン』が好きです。
特に、一級魔法使いになるための2次試験でダンジョンを攻略していく場面が強く心に残っています。
フリーレンは弟子のフェルンと一緒にダンジョン攻略をはじめる。
他の参加者が最短距離で最短時間で攻略しようとする中、フリーレンは1フロアずつ、じっくり、くまなく、ダンジョンを調べ尽くしてから次のフロアへと降りていく。
「それがダンジョン攻略の醍醐味なんだ」と言う。
弟子のフェルンは、そんなことに何の意味があるのか、わからない。そんなことをしている暇があったら、ゴールに向かって最短距離で行くべきだとブーブー言いながらも、師匠についていく。
あるフロアでフリーレンは、
「この裏に隠し部屋があるね」
と言い、調べ始めます。
フェルンは、そんなことは試験合格には関係ない。いいから先に進みましょう、という感じだった。
フリーレンは隠し部屋に入る仕掛けを見つけ、ガラガラと音を立てながら石像が動き、隠し部屋への扉が開いた。
長い階段を登ったその先にあったのは、古代人が描いた壁画だった。
人に触れられずに残っていたその壁画は、それが描かれた時代を推定すると、歴史的に価値のある、そしてとても保存状態の良い、美しい壁画だった。
「先を急ぎましょう」と言っていた弟子のフェルンは、それを見た瞬間、満面の笑みで、
「素晴らしいですね」
と言った。
フェルンのその笑顔を見たフリーレンは、静かにほほ笑んだ。
ここからは僕の解釈。
フリーレンは、すべての「自分のことがわからない人」の象徴なのだと思う。
いままでずっと、人に合わせてきた。
人の顔色をうかがって、自分の欲求や感情を抑えて、生きてきた。
自分を出してはいけない。
そうしているうちに、自分がどう感じるのか、どう感じているのか、何を思っているのか、よくわからなくなってしまった。
それが当たり前になってしまった。
自分という存在がなんなのか、わからない。
フリーレンというキャラクターは、そんな人の象徴なのではないかと思う。
自分がわからない人は、他者を見る。
他者を見て、自分を知る。
他者が喜んでいる姿を見て、自分の喜びを知る。
他者によって、自分を取り戻してゆく旅。
他者は自分の鏡なのだと思う。
自分のことがよくわからない私のような人は、自分が過去に味わった喜びを、他者の喜びを通して追体験している。
「人の心を知る旅路」とは「自分の心を知る旅路」なのだ。
その旅路は、人生そのものだと思う。
その旅路の中で、人は自分の役割を見つける。
そして、
「他者の喜びを目の当たりにすることが自分の喜びである」
ということすらプロセスであることを知る。
プロセスを超えて「役割そのもの」になってゆく。
他者という鏡を超えて、他者による喜びのリピート再生から抜け出して「役割そのもの」になっていく。
ただ、それになる。それと一体になってゆく。
宇宙の法則の中で何も言わずに軌道を描く星のように、宇宙と一体になってゆく。自然になってゆく。
「私の役割は何なのか」
「私とは何なのか」
それすらも、超えてゆく。
「みんな星になる」というのは、そういうことなのかもしれない。
フリーレンのような数百年生きている大魔法使いでさえ、まだその旅路の中にいるのだ。
そう思うと、気が遠くなると同時に、いまを肯定することができる。
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