見出し画像

関係に名前なんて要らないのにね

人を好きになる。じゃなくて、好ましい人物を「好きな人」に選ぶってことかぁ。

先日、クィアな友人と都内のとあるギャラリーへ行った。昨年Twitter経由で知り合ったこの友人とは、定期的に美術館や洋館へ一緒に行く間柄だ。

今回の展示は完全に私の趣味でしかなかったので、友人のお眼鏡にかなうか不安だったけれど、楽しんでもらえたようでホッとした。

そのあとはカフェでおしゃべり。仕事とかセクシャリティとか、いろいろ話した中でも特に「好きって結局なんなの?」みたいな話がかなり心に残った。

(パーソナルな話なので細かいことは省くけれど)友人は恋愛をしない人間で、恋愛至上主義的な風潮に違和感があるという。

私も恋愛至上主義的な風潮には違和感(もはや不快感に近い)を抱いている人間なので、友人の話を聞いて「うぅ~わかる~」となった。

加えて、友人は世間の「好き」と己の「好き」には乖離があると続ける。それを聞いて、改めて「人間を好きになる」という行為について考えた。

あくまで仮説というか私個人の考えなんだけど…

人間関係を構築するときに「ファイリング」形式で身近な人間を友人、恋人、あるいは推しに仕分ける人というのは一定数、存在するのかなと。

ここでは「好き」という感情単体は真っ白な紙のようなもの。友愛、恋愛、人類愛、慈愛のどれか1つに分類することはできない。

そのまっさらな「好き」を友人ファイル、恋人ファイル、あるいは推しファイル(人によってファイルの種類も冊数も違う)に入れて相手の"役割"を決める…そうやって人と関わっていく。

「どの人をどのファイルに入れるか」の基準は人それぞれ。

「この人は好きだけど、この人と一緒にいるときの自分が好きじゃない」「私はこの人好きだけど、この人は私のことそこまで好きじゃなさそう」という理由で、本来なら恋人ファイルに入れてもおかしくない相手を、やむなく友人ファイルに綴じる場合もあれば

逆に「一緒にいて落ち着くし尊敬できる」「趣味が合うし話が絶えない」という理由で、本来なら友人ファイルに入れてもおかしくない相手を恋人ファイルに綴じる場合もある。

一度ファイリングした「好き」を入れ替えられるかどうかも、人それぞれ。恋人ファイルに入れた相手を友人ファイルに入れ直せる人もいれば、一度恋人ファイルに入れた相手は友人ファイルに入れられない人もいる。

ファイリングする人にとって、親しい相手に対する「好き」はただの好意。ここで重要なのは、感情ではなく思考。

自分は相手とどうなりたいのか…適度な距離感で関わりたいのか、生活を共にしたいのか、独占せずに自律した関係を築きたいのか。好きという感情をベースに、今後の関係性を考えた結果こそが「人間関係」なのでは。

ファイリングする人にとって、恋は落ちるものではなく選ぶものなのかも。

…とまあ、ここまで「ファイリングする人」と能動的な書き方をしたけれど、実際のところ「ファイリングを強いられている人」と言った方が正しいのかもしれない。

本来なら好きな相手をファイリングする必要なんてないはず。一対一の関係、私とあなたの関係に名前をつける必要なんてないはず。ただ、社会で生きるなかで関係性に名前をつけなければならない場面は往々にしてあるものだ。

たとえば人に紹介するとき、あと相手が「私たちの関係って何?」とはっきりさせたいタイプだったとき。

あと世の中モノアモリー(ポリアモリーの反対:恋人は一人という価値観)が多数派だし、友だちとはセックスしちゃいけない的な暗黙のルールがあるから、無理にでも特定の関係に当てはめようと頑張っている人もいる。

私は本人たちや周囲の人間が傷付かない、かつ双方に合意があればどんな関係も成立すると思う。恋人が複数いていいし、友人とセックスしたっていい(セフレではない)し、恋人でも友達でもない相手と一生添い遂げてもいいはず。もちろん生涯自分自身だけを愛したっていい。

ただ私はファイリング形式とは別の手法で人間関係を築く人間なので、ファイリングタイプの人たちの気持ちを100%理解することはできない。それが歯がゆいし、無意識に相手を傷つけているのではと不安になる…というか実際、傷つけてきたんだろうな。ああ〜。

ちなみにファイリングさせられる人の「好き」が白色だとしたら、私の「好き」は相手によって色が違う。たとえば恋愛的な「好き」はビビットなピンクだし、友愛的な「好き」は深いブルーだ。

…みたいな、とりとめのない自論を友人はうんうんと聞いてくれたけれど、失言はなかっただろうか。不安はあるものの、自分とは違う価値観を知るのは楽しいので敬意を払いながら知っていきたいなと思った休日だった。

↓私の「好き」についてはこちらの記事にて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?