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スケッチ

 首を伸ばして、多賀はバックミラーを覗き込んだ。運転手の女を意識して、自分の顔を確かめたかったのかもしれない。
「ん? なに?」鏡の中で運転手と目が合って、多賀は居心地が悪くなった。運転手はオーバーサイズのジャケットに、胸元を強調するようなユーネックのティーシャツを着ていた。車内のスピーカーからは、ハウスが大音量で流れており、多賀の意識はどこかに持っていかれそうになっていた。
「あっ。いや。何でもありません」
「ん?」多賀に興味がないような冷たい返事だった。澱んだエアコンの風が、車内の寒気を撹拌しており、涙の跡のように生温かった。運転手の若い女は、音楽に合わせて頭を揺らしていた。多賀はどうしていいかわからずに、窓の外を見た。変わった点はなかった。街はいつもの街だった。背の高い電波塔が遠くに見えて、華やかとも思えない男や女が、遊歩道を闊歩していた。人々のざわめきが混じりあって、街の背景音楽の一つになっていると彼は思った。ひっきりなしに点滅をくりかえす信号。ざわめきや光は当たり前で、何も変わった点はない。ただ、それらが、多賀には遠く、漠然と感じるのだった。意味なく途切れたりする人の波。さらさらと擦れ違って行く人達。その一つ一つが、理由なく彼には不思議に感じた。人々は拍子を刻むように足音をたてる。車の排気音が腹に響く。当たり前なのに、嘘のようだと多賀は思った。建物は、視界の果てまで並び、全面が太陽光で反射したガラス面が眩しかった。
「あの、俺、死にましたよね?」無駄かもしれないと多賀は思ったが、運転手に聞かずにはいられなかった。事故に遭った。それなのに、自分がなんでタクシーに乗っているのか、彼はよくわからないでいた。
「ん?」女がそんな声を出した。多賀は、どこか空々しい違和感を覚えた。相変わらずスピーカーからは四つ打ちのバスドラムの音が響いていた。多賀は、次に何を聞くべきかを思い巡らしたが、何も思い浮かばなかった。車は川沿いの道に止まっていた。流れるか流れないかの速度で動いている緑色の川面が、多賀の目に映った。川は暗い鏡のように、街の負の部分を映しているような気がした。嫉妬、不信、倦怠、さまざまな気怠さが、ねっとりと淀んでいるような感じがした。
「あの、俺は……ってか、この車はどこに向かっているのですか?」
「ん?」
「もしかして、あの世ですか?」
「ん? ハハッ。デフってんの?」
「はぁ?」
 乗務員証に『瀬尾』と書いてあった。何となく態度の悪い運転手の名前を覚えておこうと条件反射的に助手席へ多賀は目を向けた。
「ん? まだ死んじゃいないけどね」瀬尾という名前の運転手が、アクセルを踏んだ。意外と神経質な発進で、ゆっくりと車が前に進んだ。

 短い廊下を抜けて、瀬尾が木製のドアを開けた。それに続く形で多賀も部屋に入った。詳しい説明をされずに、多賀は埠頭の倉庫に連れて来られた。部屋に入ると、空気が動いたような気がした。多賀が初めに目にしたのは、重厚なテーブルだった。その周りを黒革張りのソファがかこんでいた。窓際には、木目が目立つ豪奢なデスクと、黒い本革の椅子があってそこに長髪の男が座っていた。
「ヘへッ。多賀くんだね」多賀はため息をつきたくなった。先に部屋に入った瀬尾は何も言わず、ガムを噛んで小刻みに揺れていた。彼女のプレイリストはスピーカー無しで、頭の中で続いているのかもしれなかった。剥き出しになった瀬尾の鎖骨が多賀の目に入った。耳にかけていた明るめの髪が、その鎖骨を隠すように垂れた。彼の視線に気がついたのか、瀬尾が顔をあげた。カラーコンタクトの入った目が潤んでいて艶々していた。
「ん? 挨拶しなよ」多賀は感情のメーターが直角になるのを感じた。しかしながら、そのメーターが九十度を超える事はなかった。椅子に座っている男が興味深そうに、二人を眺めていた。
「ヘへッ。いくつ?」男の目も黄色がかった茶色だった。色の濃いビー玉のようで、ほじくれば取り出せそうだと多賀は思った。苛立つ気持ちを抱えながらも、男の顔を見るぐらいの余裕が、多賀にはあった。
「二十六です」
「ヘへッ。若いね。まだ死ぬには早いね」
 自分が言うべき答えがどこにもなく、多賀は男の顔を見る事しかできなかった。四十代に見えるその男の顔には傷があった。よく見なければわからないというよりかは、少し目立つ傷だった。右の眉が四六の割合で分かれており、それは何かで切られた傷ではないかと多賀は思った。
「ヘへッ。瀬尾からは何も聞いてない?」
 男は瀬尾の顔をチラッと見た。そんな事を気にせず、彼女は頭を揺らしていた。多賀は、何が何だかわからなかった。
「あの、一体どういう状況ですか? 俺は死んだのですか?」
「ヘへッ。何ていうかね、間違いなんだよ」男はポケットから金属製のライターを取り出し「キーン」「カキーン」という音をたてて、煙草に火をつけた。なぜか瀬尾が男の近くに寄っていった。
「間違い?」
「ヘへッ。そう。死ぬには早かったね」
 瀬尾が右手の手の平を丸めてお椀の形にして、男に差し出していた。「もしかして」と多賀は思って、机の上に目をやった。灰皿がなかった。
「ヘへッ。どうしようかなって、俺、考えてんの。上の人達はどうでもいいって感じだしね。俺次第なんだよね」そう言って、男は瀬尾の手の中に灰を落とした。多賀は彼女の表情を読み取ろうとしたが、何の変化もなかった。
「一体どういう事ですか?」多賀はそう言いながら、男が手にしている煙草が気になった。
「ヘへッ。どうしようもねぇな。説明すんのがめんどくせぇ。瀬尾はどう思う?」
「ん? 戻してあげたらどうですか?」男は長い吸い殻を、瀬尾の右手に押し付けた。ジジジッという音と、たんぱく質が焦げる臭いがした。
「あの、熱くないんですか?」
 多賀は思わず口を挟んだ。多賀の方を一瞥して、瀬尾はこれといった表情を顔に浮かべる事無く、元の位置に戻った。煙草の吸殻は彼女の手に入ったままだった。
「ヘへッ。多賀くん。生き返りたい?」
「はぁ?」
「まぁ、なんていうか、本来死ぬべき人間が死ななかったの。ヘへッ。その人間をどうにかしなきゃならねぇんだわ」
 多賀は全く意味がわからなかったが、何となく「はぁ」というため息に近い返事をした。会話も、多賀には意味がわからなかったが、男が一体誰なのか、未だにわからなかった。
「ヘへッ。瀬尾。お前ついて行ってやれ」
「ん? マジっすか?」
「ヘへッ。マジで」
「ん? うち、初めてっすよ」
「ヘへッ。お前『戻してあげたらどうですか?』って言ったじゃん」
「ん? マジでデフってるんですけど」
 多賀を無視して二人が会話をしていた。ほとばしり出る意味のわからない会話を聞かされていると、彼はどうでもよくなった。ただ、何となくだが自分は生き返る事ができる可能性があることはわかった。
「あっ。電話だわ。ヘへッ。もう行けよ」
 男はポケットを探り、デフォルトの着信音がなったスマートフォンを取り出した。多賀はこっちの世界でもスマホがあるもんだと感心した。
「ん? いくよ」瀬尾が顎をドアに向けてそう言った。女じゃなかったら、殴ってやりたいと多賀は思った。

一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!