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業穴道を通り抜ける

 業穴道という道があって、そこは年中冷たい風が吹いています。夜十一時ごろ、そこを無垢な学生のような若い男が歩いていました。
「こら、その方は何の為に、この業穴道を歩く?」
 猫のように足音をたてずに歩いていた若い男は立ち止まり、声の主を探します。すると、電信柱の影に背の低い、頭のハゲた男がいました。男の顔がわからないほどの暗さですが、闇に慣れない目でも、それがハゲだとわかります。若い男がふと思い出したのは「業穴道で、誰かに話しかけられても決して口を利くな」という父の戒めの言葉。それで、若い男は頭を垂れたまま黙って通り過ぎようと思ったのです。するとチビハゲは「その方はここをどこだと思う? 何も答えなければ呵責の念があるということだな」と、威丈高に訳のわからない事を言いいますが、若い男はそれでも何も答えず、電信柱を通り過ぎました。
「儂の業穴道を教えてやる」若い男は困惑しながらも歩いていると、チビハゲが後ろをつけてくるのです。
「ここは儂の業穴道。ここで今、その方に話しかけるは儂だ」若い男は無視しました。しかし、チビハゲは気にせずに続けます。
「その方、この業穴道で人に話しかけられたら口を利いてはならぬということを知っているのか?  その方は無視して歩いていやがる。しかし、儂はその方に話しかけてやっているのだぞ」何だか偉そうなその言いぐさに若い男はさすがに腹が立ちましたが、気にせずに歩きます。するとチビハゲはこう言いました。
「儂と口を利いたならば、その方の願いは叶えてやろう」
 若い男が黙って歩いていると、彼は堀割に沿った娼家の家並みのなかへ出てしまいました。白く化粧した女達が彼をからかいます。その中の健康そうな女の一人が若い男に「苺でいいよ」と淫をすすめてきます。しかし、若い男はそれを無視して歩いて娼家を通りすぎました。
「儂がその方の願いをかなえるのに代償などいらぬぞ」チビハゲはニヤニヤと笑いながら言います。そして若い男は今度は橋を渡らねばならなくなりました。しかし、橋には悪餓鬼達がたむろしているのです。
「その方どうする? その橋を渡る事ができるかな?」
 そんな煽りを無視して、若い男は歩みを緩める事無く、橋の袂に踏みいれた時です。「こいつ、ここ通るんだってよ」「やば。勝手に通るんだってよ」「止めてやれば?」「だり」「あーあ、行っちゃうよ」「いいじゃん。こいつ、死ぬわ」と悪餓鬼が口々に呟くのです。しかし、彼は意にも介さず、橋の半ばまで渡ってしまったのです。すると橋の中程に一枚の葉が落ちているのを見つけました。その葉は風に吹かれ、悪餓鬼達の方へ舞っていきます。それに目をとめた悪餓鬼達が「おーや?」「何よこれ?」「あいつが落としたんじゃね」と騒ぎだしました。
そして、葉がチビハゲの足元に落ちた時です。
「儂の業穴道を教えてやる」そう聞こえたかと思うと、若い男は橋から落ちていました。「あーあ。落ちちゃったよ」悪餓鬼達は騒ぎだしました。しかし、若い男は死んでいません。充たされない残酷な欲望など何もないように平然と向こう岸に泳ぎ切ったのです。
「生きてるじゃん」「まじか」「やるね」「すげえ」「やば。あいつ人間じゃねえよ」と悪餓鬼達は驚きました。
「ぬぐぐ」チビハゲは悔しそうに橋の袂からその様子を見るだけでした。

 業穴道を抜けられるのは簡単な事です。しかしながら、多くの人は口を利いてしまうそうです。口を利かずにそこを抜けても、また、他の業穴道を通らなければなりません。
「口を利いてはなりません」
 貴方はそれを守る事ができますか?

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