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物語とともに孤独をくぐり抜けていく

早稲田大学にある「国際文学館・村上春樹ライブラリー」にでかけてきました。ここのところ、休みの日には積極的に「外」にでかけるようにしています。

村上春樹さんは、多くの人にとってそうでしょうけど、僕にとってもとても大切な存在です。知り合いとかじゃないけれど。村上春樹ライブラリーはとても居心地の良い場所で、いろんなことを感じることができる空間でした。今回のnoteには、そのときに感じたことをつらつらと書いていきます。

いかに「孤独」と真正面から向き合っていくのか?
生きていく上で「孤独」との関わり方というものは、人それぞれの生き方、在り方に直結しているように思います。

僕自身、30代の前半のころ、「孤独」を痛いほど経験しました。会社員として「組織」の属していたものの、いつも拠り所がなく、置き所が見つからない心の状態が続いていた時期があります。次第に「孤独感」に「焦燥感」が加わり、いつも落ち着かない心の状態で日々を"なんとか"やり過ごしていました。

早稲田大学・村上春樹ライブラリーにて。

そんな僕を支えてくれていたのは、数々の本でした。本屋に出かけてはたくさんの本を買い漁り、片っ端から読み上げていきました。本を読んでいると、自分の心があるべき場所へスッと戻ってくれる感覚がありました。ただ、自己啓発の本や、ビジネス本などの実用書は、「とても良いこと」は書いてあるのだけれど、当時の僕には「焦燥感」に拍車をかけるだけであまり役には立ちませんでした。その一方で、様々な作家さんが紡ぎ出す「物語」は、深く染み入るように僕の心に「栄養剤」みたいなものを注入してくれました。

故・安西水丸さんの作品の展示会

当時、本屋に行くとあえて今まで知らなかった作家さんの本を手にとるようにしていました。「自分の好きなタイプ」の物語だけでなく、「自分の好みではないタイプ」の物語にも積極的に触れたいと思っていたのです。なぜなら、自分の好きなことを追求することが大切だ、と世の中では言われますが、その一方で好きなことばかりしていては自分の"幅"は広がらないこともまた事実。そうであるならば、一度、自分の「興味が持てないこと」や「好きではないこと」にも目を向けてみることが大切なのではないか?と思っての行動でした。人生に行き詰まっていると痛感している当時は、なおさらそのことを感じていたのです。そのおかげで、自分の内面の"幅"みたいなものが広がったような気がしています。

そんなふうに幅を広げながら様々な物語を読み漁る中で、ふと僕自身の本棚にある「村上春樹作品」が目に止まりました。10代の頃に読み始め、20代の学生時代には一心不乱に読み漁っていた村上作品です。パラパラとページを来ると、かつて読んだ時とはまた違った印象があって、そのままいくつかの作品を再読、通読していきました。20代のまだ社会を知らない僕が読む村上作品と、30代でほんの少し社会の厳しさを知った僕が読む村上作品は、まったく毛色の違う物語のように読むことができました。それは新鮮な喜びでした。(40代の現在、オーディオ朗読で村上作品を再聴していますが、これまた違った味わいを感じていて驚いているところです)

安西さんのさく作品の中で、僕が好きな作品が大きく展示してあって興奮!

20代のときには感じ取ることができなかったことを村上作品に浸りながら感じました。それこそが「孤独の大切さ」でした。村上作品に再び手に取るまで、僕は「孤独」はとても恥ずかしいものだと思っていました。なので、その「孤独」をひた隠すように、背伸びをしながら、必要以上に自分を大きく見せようとしていました。そんなふうに無駄に肥大化した自分で生きていると、当然のことながらいろんな場所に「ゆがみ」が生じます。それが「孤独感」「焦燥感」に拍車をかけていました。

妻も村上作品のファンです。

村上さんがよく表現される「井戸を掘る」という感覚が、おぼろげながらも理解できたのがその頃だったように思います。「孤独」はこの先の自分自身の人生を構築していく上で必要不可欠な構成要素をなすとても大切なものなのだ、としっかり認識できた時期でした。

孤独の中で、しっかりと自分と向き合い、自分の中に井戸を掘り、まだ見ぬ水脈を掘り当て、そして人生の幅を広げていくということが当時の僕に課せられた課題であると認識しました。不思議な話ですが、そんなふうな感覚になったあとは、その孤独がある意味では楽しいものになっていきました。井戸を掘る作業は、泥臭い作業でありながら意外と心躍る作業であったのです。

なぜなら、自分の幅が広がっている、と感じることができたからです。つまり、これを積み重ねていくときっと人生は変わるだろうという、根拠のない希望が沸々と湧き上がってきたのです。孤独をしっかりと"味わう"ために、僕は「一人旅」を始めました。その時間的経過は、このnoteにもしっかりと書き留めてきていますが、僕も自身のnoteを読み返しても「幅」が広がったな、と思います。当時の「根拠のない希望」は間違っていなかったと、今の僕は断言できます。

僕の元へは、いろんな人が「相談事」を持ちかけてきてくれます。
いろんな相談事があるけれど、やはり突き詰めていくとこのnoteに書いたようなことに行き着くような気がします。

しっかり「孤独」と向き合うしかない。

何度も相談事を持ってくる人もいるのですが、そういう人の相談事っていつも「同じこと」で悩んでいるんですよね。それこそが人間っぽいところだな、とも思うんですが、悩んでるってことは苦しいことでもあるから「同じこと」で悩んでいる姿はかわいそうにも思います。

だから、やっぱり思うことは、「徹底的に苦しむしかない」ということなんです。自己啓発書やビジネス書を読めば、苦しまないための小手先のテクニックは教えてくれます。でも、小手先のテクニックは、所詮小手先のテクニックにしか過ぎないと思います。一瞬何かが変わっても、それが継続はしない。だから、いつも「同じこと」で悩むのだと思います。

簡単に他者を求めない。簡単に答えを出そうとしない。寂しいとつい人のいる場所を求めてしまいたくなりますが、寂しさを根源とした他者との関わりは「群れる」ことにはなっても「繋がる」ことにはなりえず、場合によっては人生をさらに混沌へと導きます。ロクなことはないですね。

じっくりじっくり孤独の中に、自分を浸していくことが大切なのであり、それこそが人生を豊かにするための、唯一の方法なのだと40代を迎えた今はそう感じています。

孤独を感じているなら、人生がさらに良くなる前の前兆だと思うんです。
最近、よく思うんですけど、たいていことって時間をたっぷりかけてあげれば"なんとかなる"ものです。中途半端にしない。それがすべてですよね。

そのために「物語」は必要不可欠なんです。むやみやたらに自分と向き合うこともまた難しいし、時に危なくもあるので、やはり「道標」もしくは「先導役」は必要です。それが僕にとっては「物語」なんです。

物語とともに「孤独」をくぐり抜けていく。
それが僕とっての人生を豊かにする方法であるような気がしています。

羊男さんに初めてお会いしてお話してきました。

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