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チューリップ

 好きだよ、と嘘を吐(つ)かれた。それは今になって思えば、ではなく、初めから分かっていたことだった。
 生徒としてやって来て、同い年ということと彼から発せられる雰囲気みたいなものから、それだけの関係にはとどまらない予感があった。実際流れるように親密になり、あっという間に私の部屋に出入りするようになった。だから、なのかはわからないけれど、あっという間にいなくなった。せっかく長めのレッスン計画だって作ったというのに。
 朝目が覚めるとまず、いつも彼がいなくなったことを確かめるようになぞる。別の夢をみていたとしてもだ。気味の悪いルーティンになりそうで、というかもうほとんどそうなっている。
 ベッドサイドのミニテーブルに目をやる。その上には、彼のくれた折り紙で作られた絶対に枯れることのないチューリップが、いつかこっそり銭湯から持ち帰った牛乳壜に押し込まれ挿さっている。萎れも変色もしないから、撤去するためのタイミングが失われたままなのだ。
 もう涙は流れることがなくなって、努めて無感情に身体を起こす。六時三十三分か三十四分。それで今朝は――そうだ昨晩残ったカレーを食べたんだった。まだ一人分の分量を思い出せなくて。
「あ、思い出した。昨日のカレーの残りだった」
 えー、と先月入社したばかりの可奈子が人懐っこい声を出した。
「今日のランチはカレー誘おうって思ってたのに」
「それはまた今度ね」ダメ押しの笑みを簡単につくると、はーいと彼女は素直に聞き分けた。
「でも、やっぱりそうですよね。朝ごはん何だったか忘れても、起きたときから考えたら意外と思い出せるもんなんですよねー」
 そうね、と結局いつもの蕎麦屋に足を向けながら返事をする。リーズナブルな上に客が少なく、蕎麦好きの私が通うくらいには美味しい。そういえば彼とは話に出ただけで、一度も訪れたことはなかった。起きたところから、なんて可奈子が言ったから、余計なことを思い出してしまった。
 青ののれんをくぐり戸をスライドさせると客は、常連のお婆ちゃん三人組に、常連の私たちしかいないようだった。こんなに好条件なお店なのに、と思いかけて、人気になって生徒の親とこんなところで鉢合うのも嫌だなと思い直し、いつもの席に腰を下ろした。
「カレーが食べたいなら、カレーうどんかそばにしたら?」
「いや、やめておきます。それ、カレーとは別物ですし」
 あ、そう、と返し、店主のおじいちゃんと目が合ったので「ざるそば!」と耳が遠くても聞こえるくらいの大きさで言うと、可奈子も振り返って「鴨南蛮!!」ともっと大きな声を出した。おじいちゃんはあーいとそこまで大きくもない、でも響いた声のあとで目を落とした。
 あ、違う。なんとなく行かなかったのではなかった。彼がラーメンを除いた麺類はあまり好きじゃないと言っていたからだった。こげ茶色のソファでくつろぎながら。
「ついに今日、ですよ」
「ん? ああ、初生徒ね」
「そうですよー。研修は楽だなあとか思ってたから、余計怖くなっちゃって」
 そうねえ、何かいいアドバイスでも、とめぐらせていたら蕎麦たちが運ばれた。私と可奈子はそれぞれ箸を取って、いただきますを口々に言う。
「うーん、最初からピアノを教えようと考えない方がいいわ。習いに来たというより、親にすすめられてとか単なる憧れだったりするし。だから何よりもまず、生徒との信頼関係ね。それも対等な」
 話しながらわさびとねぎを足したつゆにざぶんと麺の固まりを浸し、つゆを吸いきらないうちに持ち上げて、すする。蕎麦の味を楽しみたいというのもあるが、何よりもまず、そば湯が好きだからだ。
「あ、それ長田さんも言ってました。まずは友達になるんだよって」
 鴨南蛮のいいにおいが漂う。それで次はそっちにしようと思うけど、結局ざるそばを頼んでいる。
 いつも通り私の方が先に食べ終え、そば湯を足したつゆを飲みながら冷えた胃を温める。可奈子は麺や鴨だけでなく、ふわふわと浮かぶねぎまで丹念に食べる。こういうところがこの子のいいところなのだ。空気や物言いはのんきに見えても、深いところではちゃんとしている。ちゃんと初レッスンに緊張しているのだ。
 お会計を済ませて教室に戻ると、可奈子はレッスンの準備に部屋へと行った。私はその次の時間だから、朝の事務仕事の続きに取り掛かる。土曜ということもあってどこもかしこもおだやかだ。そして明日の日曜は、ミサだ。
 席について入ってきた方に目を向けると、透明な窓に貼られた「生徒募集中」という鏡文字の向こうに、雲ひとつない春の青空が澄んでいる。外にいたときは見もしなかった。雨の予報にすっかり騙されて洗濯物を後回しにしたことを後悔した。こんなに晴れているならシーツだってすぐ乾いただろうに。
 もうずっと洗えていなかった。彼がいなくなってから、ずっと。汗や匂いはまだどこかに残っているかもしれない。罪悪感だってあるのに、失恋の衝動よりも面倒が上回ってしまっていた。
 シーツ、からその先を連想しそうになって止めた。そんなことをしてしまっては、あまりに自分が可哀想すぎる。もうそんな子どもじゃない。
 出納の入力を終え、生徒たちの新しい教本の発注書をまとめていると、可奈子の生徒とその親がやって来た。幼稚園の制服を身にまとうその子は素直そうで、そして大人しそうで安心した。
「すみません。本日レッスン初回の松田と申しますが……」
「あ、はい、松田夕菜ちゃんですね。お待ちしておりました。ちょっと、講師を呼んで参りますね」
 机を回り、二人の前を通って奥の部屋の扉をノックする。慌てたような物音ののち、可奈子が出てきた。
「あ、もう来ました?」
「うん、玄関に」
「すみません、ありがとうございます」
 そう言って可奈子は二人を見つけ、あーはじめまして、と近づきながら挨拶を始めた。まあ、きっと大丈夫だろう。
 二人が靴を脱いで可奈子に連れられていくのを見届けると、不意にあくびが出てしまった。後輩の初レッスンに私まで緊張があったのかもしれない。
 眠気覚ましにインスタンのコーヒーをつくる。水切り場から私のマグカップを手に取る。あ、そうだ、と家のコーヒーがもうなかったのを思い出した。帰りに買わなくちゃ、コーヒーコーヒーコーヒーコーヒーと小さく四回唱える。口に出せば案外忘れないものだから。
 以前、ちょっと寝つきにくい時期があり、昼のコーヒーでさえ控えていたことがあった。生徒の親と揉めて――勿論突拍子のないことを言われ、一方的に腹を立てられていただけだ――で、そんなことは初めてだったから不安に駆られてしまったのが原因だった。
 私が眠れないとき、クリスチャンだった彼は聖書を読んでくれた。がさがさとした温かい声でよく分からない言葉を聞いていると、いつの間にか眠ることができていた。でも――とお湯を入れすぎたコーヒーを啜りながら、今は思う。でも、私が「なんだか眠れない」と言っていたのは、甘えるための方便だったのかもしれない、と。たとえそれを見透かしていたとしても、それに付き合ってくれるようなひとだった。
 ぽつりぽつりと鳴るピアノの粒を耳で受け入れながら、事務の続きをしていると、入口のドアから教室長の長田さんが入った。くたびれたベージュのトレンチコートの裾がゆれる。
「あ、お疲れさまです」
「おつかれー、ごめんね任せちゃって。大丈夫? 何もなかった?」
「はい、可奈子も何とかやれてるみたいです」
「そ、よかった。あなたはレッスン、この後だったわね?」
「そうです、今日からソナチネの」
「あらいいじゃない。一番教えるのが楽しいところね」
「そうですね。本人も楽しみにしてるみたいですし」今日緑ちゃんに渡すブルーの教本に目をやる。賛美歌とか弾けたらいいなと思って、と言っていた彼はブルグミュラーの「アヴェ・マリア」を何とか弾けるようになって、辞めてしまった。
 長田さんは荷物を置くなり玄関に活けられた花をいじっている。ここの花は全て彼女の見繕ったもので、素人目にもセンスがいいと分かる。対して、偽物のチューリップ。意地でも花言葉なんか調べてやらないと決めたままの。
 可奈子がお手本を丁寧にきっちり弾く音の連なりが聞こえて、もうレッスンの終わりだと知る。もうそんな時間。私もそろそろ準備をしなくては、と広げた書類を片付け始める。レッスンの準備と、きっと安堵して泣き出しそうな可奈子を励ます準備を。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。