見出し画像

遠吠え

 これは遺書です。

 なんて、やっぱりちょっと大仰よね。でもこれから書くことは、要はそういうこと。私はもうすべてを放棄してしまうことを決していて、そしてそれへと至らしめた原因――ミナのあの一言――を記していくの。
 私はそれに深く、とても深く傷つけられ、絶望し、それから立ち直る気力さえ私の内側から流れ出ることはなかった。どうしてあんな言葉を笑って言えるのか、不思議でならない。もはや憎しみすらないの。ただただ打ちひしがれた。

 それは今年の春がはじまった頃。私はいわゆる上京をして、生まれてからずっとだった実家を離れた。とはいえ両親があまりにも過保護だったものだから――まあ可愛い一人娘となれば、気持ちも察せなくはないけれど――、二人部屋の寮に入ることになったの。
 そこで出会ったルームメイトは、春から新大学生となって浮かれに浮かれていたミナだった。
 私から見た彼女の第一印象は、決して良いものではなかった。眼の下には隠しきれていないそばかすが散っていて、チビで、うすいピンクのフリフリの服を着ていて、おまけに妙に馴れ馴れしかった。つまり、私がとくに毛嫌いする類の女子だった。
 申し訳ないけれど、正直その時はハズレだと思ったわ。だって、美しい人と高潔で華のある生活を夢見ていたんだもの。真反対よ。これはミナにも否定できないはず。
 そうはいっても、私は幻想をずるずる持ち込むような嫌な女ではなかったわ。だってそうでしょう? 同居人を替えてくれなんて、そんなの要望でさえ下品よ。
 そんなこんなで何とか折り合いをつけようと試みていたら、ある共通の趣味が私とミナの距離をグッと縮まらせたの。それは引っ越しの荷ほどきもあらかた終わって、同時に二人の間にピンと伸びていた緊張も緩んできた頃だった。
 たまに日用品の買い出しがあったとはいえ、ずっと段ボールから物を出す作業が続いていて、私と、そしてきっとミナも、ストレスが溜まっていた。
「ミナちゃんも大方片付いたね」
 この時は「ミナちゃん」なんて呼んでいたっけ。
「やっと片付いてきたよー、にしてもシロちゃんは少なくていいな」
 別にミニマリストという訳ではなかったけれど、私は多分比較的荷物が少なく、ミナは問答無用で多かった。
「ちょっと散歩してこようかな」
 固まっている身体を伸ばして私は言った。東京の夜、というものに興味がずっとあったから。
「え? 何? 散歩?」
「うん、気分転換、に」
 私は朝の散歩より、夜の散歩の方が好きだ。夜の方が、ちょっとだけ幻想的な感じがするから。
「……あたしも行こうかな」
 私はすっかり一人で春のおだやかな夜を満喫するつもりでいたから、どうしても狼狽した。むしろ制されると思うじゃない、普通。
「――え、いいけど」
 会話の流れが否定できないものになっていたわ。今思っても、「一人で行きたいから」なんて言えないし、言えなくて正解だった。
「ようし、あたし散歩するの好きなんだよね」
「え、私も!」
 初めての意気投合だった。なかなか合致するところがないね、と二人で嘆き合っていただけに、その喜びはひとしおだった。私とミナは嬉々として家を出たわ。
 夜の東京を、とっぷりと体感した。澄んではいなくて、でも汚れているのでもなくて、なんというか空気が余分に湿気を孕んでいる感じ。
 私とミナは、ここに来るまでの話をしたわ。土地や環境、友達のこと、それから受験のこと。まあ話の九割ほどはミナだったけれど。
 ミナの話を注意深く聞いていると、私は前方不注意で電信柱にぶつかったり、三角コーンにつまずいたりした。私としてはまあよくあることなんだけれど、意外とおっちょこちょいなんだね、とミナはくすくす笑った。
 今だから思うことだけれど、「散歩」は私たちにとってかなり大きな役割を果たしてくれていたのだ。
 それからほとんど毎日――お互いが夜に家にいる日は必ず――散歩をした。長さは日によって二人の気分次第だったけれど、これによって私たちの心的距離はずいぶんと小さくなったと思う。
 しばらく経たないうちに、入学式を終えて、大学が開講した。ミナは文学部だった。
 大学に通うのにも慣れてきて、友人もつくれていた(もちろんミナとは真反対のタイプの)。
 その日はその友人たちと夕暮れから遊んでいた。彼女たちは向学心が高く、もう四年後の話とかもしていた。私もミナと会うまではそういったような環境に身を置いていたから、ずっと心地よかった。なんせミナは文学部を強く志望していた訳ではなく、偏差値の低さで選んだだけだったからだ。
 彼女たちと最近学んだことについて論じ合っている間、ミナは「イケメンな先輩がいた」というサークルにでもうつつを抜かしていたのだろう。見下している訳ではなかったけれど、呆れてはいたと思う。
 夕食ののち別れてからも、私は彼女たちと共有した雰囲気に酔っていた。何でもできる気がした。道がどんどん拓けていくような感覚。
 気持ち足早に帰り、堂々と玄関のドアをくぐると、ミナは二人のベッドの間に敷いた浅いブルーのラグにうつ伏せで寝転がっていた。頭をベランダに向けて、両足をこちらに放り出していて、正真正銘だらけていた。
「ただいま」
 ミナは顔をぐいと振り向けて、
「おかえり」
 と笑った。
 鮮やかになっていた私の視界や精神が、この部屋の空気とミナの実存によって絆されていくのを自覚した。でもそれに、ちょっと安心していたと思う。
 ミナはばらまいたルーズリーフたちの上に腕をのせ、小説――というにはすこし大きいサイズのもの――を読んでいるようだった。
「何読んでるの?」
 さっきの安心を口火に、私はミナの隣へと滑り込む。こんなところ、彼女たちに見られたら幻滅されてしまうわね、なんて思いながらも。
「教科書だよー、いまは論語」
 そういえばミナは漢文が大の得意なんだった。私は――とくに昔の言葉なんかは――大の苦手なのだけれど。
 あからさまに嫌な顔をつくる私に、ミナは容赦なくそれを突きつけてきた。意外とSっ気があるのよね。
 数行といかないうちにそれは頭をショートさせ、私は堪えきれなくなって私は立ち上がった。こんなの、理解できるわけがないじゃないの。
「ほら、散歩いこ?」
「もう、シロはかわいいなあ」
 ミナはさながらいたずらっ子の顔をしていた。
 ミナは私のことを「シロ」と呼ぶ。一応名前に由来しているのだけれど、私があまりにも色白なものだから、が主な理由だろう。雑なあだ名にも程があると思わない?
 それから、ミナはしょっちゅう私に「かわいい」って言ってきた。まったく量産じゃないの。当初はもちろん謙遜というか否定していたけれど、そのうち面倒になって、言われる度に「かわいい顔」をしてあげるようになった。ミナはそれでキャッキャと喜ぶ。
 「かわいい」だけじゃないの。頭をなでるのもよくやってきたわ。まあ寄っていくのは私なんだけど。ミナだって小さいクセに、私の方が小さいからって。
 でもそのどちらも嫌ではなかった。むしろ楽しかった。

 梅雨が明けて、町にじわじわと夏が立ちこめてくる頃。もちろん雨が降ったって散歩はした。長靴に、濡れて汚れてもいい三軍の服とお気に入りの傘。私もミナも、互いに譲らないくらいの散歩狂だったのよ。
 その頃には、もうずいぶんと仲は深まっていて、お互いの内側の部分をさらけて、出入りするくらいだった。
 こんなに性格も趣向も真反対なのだから、やっぱりどうしたって衝突はあったわ。けれど、どちらも真反対だったから折り合いをつけてこられたの。何ていうか、違う国で違う宗教、文化で生きてきたんだから、理解で十分、みたいな。
 もう夏が頭の上をすっかり越えていってしまった頃、私とミナは海に行った。ずっとミナは口にしていて、私もそれを聞いているうちにそんな欲求が芽生えていた。
 私とミナは、かなり早起きをして、朝の電車に乗った。昨晩ミナは、すこし前にできたバイト先の彼氏との長電話で、とりあえず起きたはいいものの、もうずっと電車に揺られながら眠っていた。写真で見た限り、ツーブロックで派手なシャツを着ていて、いかにもミナのタイプだった。
 その日のミナの服装は、ピンクのオフショル(やっぱりフリルが走っている)に白のタイトスカート。もちろん膝は出ていた。その彼氏とも、お似合いと言えばそうだったわ。ちなみに私は紫のワンピース。もちろん膝は隠れていた。
 どうでもいいことだけれど、私たちには自由意志がない、とか言う人たちがいるらしい。冗談じゃないわ。あのワンピースだって海に行った日よりもずっと前に決めていたんだから。
 まあそんなことはともかく、終点の片瀬江ノ島駅に着くなり私は慌ててミナを揺さぶり起こして、あの狭いところからの開放感を浴びながらホームを出たわ(まったく、あんな狭いところに閉じ込めるなんて、本当に正気なのかしら)。そして海が見えてくると、まるで示し合わせたように二人ともかけ出したの。
 ホームに降り立った時はちょっと不機嫌そうだったミナも、ここまで来れば大はしゃぎだった。
「ねえシロ!」
 振り向くと顔全面に海水をかけられた。
「もう、ミナ!」
 そう言ってやり返す。
 汀(みぎわ)でしばらくそんな調子でいると、やばい疲れたー、とミナが砂浜の方へ戻っていった。全く体力がないわね、と言いながら、私は息を切らしてミナに続いた。
 海は、もう存分に満喫したわ。水着に着替えて再度臨んだのはいいものの、ミナはまるっきりカナヅチで、私が得意の泳ぎを披露してばかりだったのよ(とはいえまともな泳ぎ方とはいえないかもしれないけれど)。
 時折ミナのいたずら心が垣間見えて、「かわいい」を言ってきて、泳ぎながら顔をミナにつくるのは本当に大変だった。でもとても気持ちがよかった。考えてみれば、夏以外の季節には全く入りたくないところにわざわざ来るなんて、ちょっと変よね。
 私もミナもすっかり疲れきっていて、帰りの電車では四駅も寝過ごしちゃったけれど、今となってはいい思い出だわ。
 この海以降、私とミナの仲はずっと加速し続けたの。でも、そのピークと終わりは、一緒だった。

 それは、すこしずつ冬の風が吹きはじめた、秋の尻尾だった。そのちょっと前から、ミナは入学当初に目をつけていたサークルの先輩と付き合いだした。
 何だかタバコの臭いがしていた。その頃はいつもこの変なバニラの臭い。そこから、新しい彼氏ができたのだとすぐに分かった。消臭に気をつかっていたのかミナはすごく驚いていたけれど、嬉しそうでもあった。私は鼻が利くんだから。まあ、幸せなら何より。
 ミナは何故かモテた。言っちゃなんだけど、別に大して可愛くもない。愛嬌で頑張るタイプ。甘えたような、べたっとしたしゃべり方。私が男だとしても、ミナとは絶対に――それこそ天変地異が起きでもしない限り――付き合わない。
 でも何故かモテる。ひょっとして、男に軽く見られてるんじゃないの、と直接ミナに言ったことがあった。
「うーん、でもそれでもいいかなって」
 ミナはいつものように笑顔をつくろうとしたけれど、どこかそれは頼りなかった。
 ――今回の彼氏もきっとそうなんじゃないか――
 ミナとは付き合いたくないとは思いながらも、親友のミナを傷つけられているようでどうも厭だった。
 そしてその彼氏が、その夜うちに来るという。ミナが彼氏を連れてくるなんて、今回が初めてだった。それほど入れこんでいるということなのかしらね。
 ――見極めなくちゃ――
 そんな、一介の同居人にしては重すぎる使命感を勝手に抱いていた。とても緊張していた。ミナには、私がいるんだから。
 秋雨がしゃあしゃあと日がな一日降り続いていた。雨音は好きだけれど、どうも低気圧には馴染めない。それに風がベランダのガラス戸を打ち付けていて、雷でも落っこちてくるんじゃないかとなんだか落ち着けなかった。
 ガチャリ。ミナが帰ってきた。話し声と、二人分の足音が聞こえる。
 リビングのドアが開いて、ミナに続いてその彼氏が入ってきた。あのタバコの臭い。
 ベッドに座って背を壁に凭れさせていたのを、床に降りて立ち上がった。
「初めまして」
「どうも、ケンです」
 へらへらと笑いながら挨拶を交わされた。そこそこイケメンだけど、そのせいで評価としてはイマイチだわ。
 その、次の言葉だった。そのミナの言葉が、私の視界を真っ暗にさせた。ほんとうの絶望に、抗うことはできないものね。ただ従順になるばかりなのよ。
「ね? このワンコ、まるで人間みたいでしょ?」

ありがちなオチかもしれませんが、なかなかな落差がありませんでしたか? コメディみたいな悲劇を目指して書きました。よければ感想等お願いします。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。