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テクストの「場」 尾崎翠の代表的作品群(1927〜1933)の場合

1、はじめに

 尾崎翠は、時に「幻の作家」などと言われることがある。

 それは、実際の作品数が少ないだけでなく、作家としての評価の中心となる作品のほぼ全てが、昭和2年(1927)~昭和8年(1933)の約七年間に発表されたものであり、あたかも文化とモダニズムの1920年代の終焉とともに筆を折ったかのような印象を与えるためである 。その印象が、「モダニズム女性文学の作家」 という、実際には時期的にも内容的にもかなり限定的な意味をもつ評価に繋がっている面もあるのではないだろうか。代表作である「第七官界彷徨」は、『文学党員』『新興芸術研究』といったモダニズム系の文学誌に掲載されたものであり、本編中にも、モダンとされた意匠が散りばめられている。また、「映画漫想」や「途上にて」のようなエッセイも、一見、当時の先端メディアへの関心を示すもののように思える。その意味で、尾崎翠は「モダニズムの時代の作家」であることは疑いないし、そのテクストのもつ、日本モダニズムを考える上での重要性は、従来の研究でも繰り返し指摘されてきたことである 。

 しかし、尾崎翠のテクストは、龍膽寺雄に典型的にみられるような、当時「モダニズム文学」として売り出された作品群とは、その性格を異にするものである 。現在使用されている広義の学術用語としてのモダニズム文学の範疇ではあっても、テクストの生成された当時においては、執筆主体としての尾崎翠がモダニズムの作家であったわけではないのである。

 尾崎翠については、初出から再評価までのタイムラグが大きいためか、テクストの通時的な特徴の指摘と、各時点(生成時、評価時、現在)の意味づけの指摘とが、混同されがちなように思われる。また、上述したような執筆主体のライフコースのありようとテクスト生成の場が密接に関係しているため、尾崎翠という個人と、執筆主体のあり方と、テクストの分析との境界線が曖昧になりがちであり、この問題はより複雑なものとなっているようにも思われる 。

 以上のような状況を踏まえ、ここでは、尾崎翠の作品のうち、上述した約七年の間に、雑誌等のメディアに提示されたテクストを対象として、その社会的コンテクストについて検討する。特定時点での社会的コンテクストの検討は、たとえば「モダニズム」という評価の枠組みの内実を検証し、その有効性を確認する前提作業として、無益ではないだろう。

 この課題設定に沿って、本稿では、

①執筆主体のテクスト生成時点の状況

と、

②テクストに内包されるディテールの社会的コンテクスト

を確認し、テクストが生成され、メディアに提示された時点の固有の「場」(執筆主体と、執筆主体をとりまいていた状況)のありかたの一側面について考えてみたい。


2、尾崎翠の一九二七年〜一九三二年

 尾崎翠の作品が刊行物に初めて掲載されたのは、大正3年(1914)のことであり 、この後数年間は『文章世界』等に投稿を続けている。投稿者として出発するのは、この時代の作家にとって珍しいことではない。たとえば、尾崎翠と同い年の吉屋信子(明治29年生)も、雑誌投稿を通じて腕を磨き、職業作家の道を進んでいる。吉屋信子は、大正5年(1916)に『少女画報』に「花物語」の連載を開始し、大正の終わりまで九年間にわたって書き続けている。

 「作家・尾崎翠」の登場は、雑誌『新潮』に「無風帯から」「松林」の二編を発表した大正9年(1920)であり、吉屋信子より4年ほど遅い。しかもその後約6年間、商業誌での発表作品が途絶えている。この間、出身地である鳥取の同人誌『水脈』や、『少女世界』への投稿など、執筆活動は続いているが、継続的に作品を発表し、社会的に「作家」と認知されるようになるのは、「少女ララよ」(『少女の友』五月号)と「初恋」(『随筆』七月号)を立て続けに発表した昭和2年(1927)以降のことであろう。尾崎翠は、この年に再デビューしたといっても良い。

 明治32年(1899)生まれの宮本百合子は、大正5年には既に文壇に登場していたし、少し時代が下るが、翠と親しかった明治36年生まれの林芙美子が『女人藝術』に「放浪記」を発表したのは昭和3年(1928)であったから、年齢的に早いとはいえない文壇への本格登場であった。

 再デビューの翌年にあたる昭和三年の創刊から昭和5年までの間、尾崎翠は『女人藝術』を主な活動の場とし、それなりに重要な作家の一人であったが、その発刊3周年記念講演会(昭和5年)以後は、廃刊まで一度も作品を掲載していない。当初「無色透明」だった『女人藝術』は、時流の中で左傾化の度合いを深めており、昭和六年に尾崎翠と入れ代わるように『女人藝術』に登場した中条(宮本)百合子が、中心的な作家の一人となっていく。尾崎翠が自ら『女人藝術』と距離を置こうとしたのか、あるいはこの傾向の中に受け入れられなかったのかは、残念ながら判然としない。

 一方、尾崎翠作品の掲載誌は、昭和6年以降、多岐にわたるようになる。

 「第七官界彷徨」(『文学党員』昭和6年2・3月号。『新興芸術研究』2号)、「歩行」(『家庭』昭和6年9月号)、「途上にて」(『作品』昭和6年4月号)、「こほろぎ嬢」(『火の鳥』昭和7年7月号)、「地下室アントンの一夜」(『新科学的文芸』昭和7年8月号)という「小野町子もの」を、掲載誌を変えて連作し、昭和8年に『第七官界彷徨』を単行本で上梓して、実質的にはこれを最後に小説の筆を折ってしまうのである。

 以上のように、尾崎翠のテクストは、執筆主体の状況からは、

(1)『文章世界』等への投稿作品(大正3年〜大正8年)

(2)『新潮』に「無風帯から」「松林」が掲載されてデビューして後、再デビューするまでの、『水脈』掲載作品や『少女世界』への投稿作品(大正9年~15年頃)

(3)「少女ララよ―伝奇物語」「初恋」等を発表した昭和2年から、断筆までの作品(主としては『第七官界彷徨』単行本が刊行された昭和8年まで)

の三時期に区分することができ、(2)時期の二作品を除けば、独立した作品として雑誌に掲載されたのは、本稿で考察対象としている(3)の時期に限られている 。執筆主体である尾崎翠が、作家としての社会性の獲得と、作品の時期はほぼ同期しているのである。

 (2)の時期、尾崎翠の活動の中心は地元・鳥取県出身の文学者・文化人のサークルの一員としてのものであった。これはしかし、東京における文学的同志のつながりと同等かそれ以上に知見・人脈を広げる上ではプラスに作用したものと考えられる。この時期、鳥取県出身の文学者たちは、プロレタリア文学から大衆文学、社会思想に至る横断的な広がりをもって、東京で活動していたからである。

 尾崎翠は、大正15年(1926)年、「東京鳥取無産県人会」に結成と同時に参加しているが、このグループは、まさにその横断的広がりを端的に表現するものであった。この会を主唱したのは、『白樺』の編集にも携わった経験をもち、「南宋書院」という出版社を経営していた涌島義博や、ナップ中央委員長を務めるなどプロレタリア芸術運動に深く関わりながら、同時に柳田国男の門下で民俗学の確立にも参与した橋浦泰雄ら社会主義者系の人々 であるが、大衆文学で名をなしつつあった白井喬二・野村愛正、『青鞜』の名付け親である生田長江、長江の薫陶を受けた詩人の生田春月や中村武羅夫 等、それぞれの分野で活躍していた多様な人々 が主義主張を越えて参加していた。鳥取県の最初期の文芸誌・『水脈』(第一次)のメンバーを中心にしているが 、大変広範囲に人材が集まっている。

 この人脈が、現実的に尾崎翠の昭和2年以降の活動と大きく関わっていたことは、林芙美子の処女詩集『蒼馬を見たり』が、尾崎翠の友人・松下文子の出資によって涌島の南宋書院から出版されていること(尾崎翠も推薦文を執筆している)、ハイネの翻訳で知られる生田春月の妻・生田花世が『女人藝術』の主要メンバーであり、春月の没後も翠と親交が続いたことなどからも明らかである。

 「故郷」という、政治的・文学的指向性にとらわれない枠組みによって形成された、超党派的な人脈である「東京鳥取無産県人会」において、尾崎翠は単に名簿に名を連ねただけでなく、再デビュー後の昭和五年に水脈社文芸思潮講座で講師を務めるなど、活動にも参画している。この講座は、橋浦泰雄・尾崎翠・生田春月という無産県人会のメンバーと、橋浦と親しかった秋田雨雀を講師として企画されたものであった 。

 尾崎翠は、大正11年(1922)に、鳥取での第二次水脈社結成に参加したことから、この「無産県人会」の参加者と、それに連なる各分野の人脈とつながりをもった。特に、生田春月との関わりは、尾崎翠作品中の「詩人」たちの造形を考える上でも重要性が高いと思われるが、現在のところ、互いに直接言及した資料は見あたらない。この活動は、その後より政治色を薄めた「因伯芸術家懇話会」へと移行していく。ちなみに、橋浦泰雄がプロレタリア文化運動を断念するのは昭和八年のことである。

 尾崎翠は、横断的な人材を擁する県人会との関わりの中で、ブランクを経て再登場を果たしていくことになる。

 鳥取県人たちが活躍していたこの時期は、雑誌出版や、作家という職業の位置づけが大きく変わりつつある時期でもあった。

 関東大震災による一時的な出版拠点の関西移動を経て、創刊号七四万部を売り上げた雑誌『キング』の創刊(大正14年)、円本の流行などもあって、「作家という職業」が確立されつつあったのである。一部の大家を除き、社会的・経済的成功を指すほどのものではなかった職業作家として得る原稿料や印税などの利益は、出版メディアの拡大に伴って飛躍的に拡大した。それに伴う文学の商業主義・ジャーナリズム化が進む一方で、政治色を前面に押し出したプロレタリア文学運動も激しさを増しつつあった。『改造』のように、商業性を考えてプロレタリア文学的・政治的言説をあえて掲載しているような雑誌もあることから、これらは必ずしも全く別の現象ではない。基本的には、双方とも受容層である「大衆」が拡大し、「文学」が「産業化」しつつある状況を示すものであった。1930年代半ば以降になると、政治的・思想的に、表現内容の制限がより強くなっていくが、このような作家とメディアの関係は継承されていくことになる。

 このような状況下では、執筆主体とメディア(掲載誌)の関係は看過できないものとなる。近年指摘されるように、メディアに発表されたテクストは、作家と編集者の共同作業の成果でもあるからである。

 しかし、尾崎翠の場合、再デビュー作品である「少女ララよ」等を除けば、発表メディア側からのテクストへの影響力の行使は大きなものではないと考えられる。

 「映画漫想」等の掲載誌である『女人藝術』は原則無償掲載であったし、「第七官界彷徨」の初出誌である『文学党員』も同人誌である。また、どちらかといえば右翼的傾向があったはずの『火の鳥』にも、左翼傾向が鮮明になって3号で廃刊された『新興藝術研究』にも、尾崎翠はほぼ同時期に作品を掲載している。いずれも『改造』や『文藝春秋』『新潮』といった大部数の雑誌と違い、商業主義的バイアスはさほど強いメディアではなかったものと思われる。それは、尾崎翠という個人が願っていた、職業作家としての経済的自立にはつながらないものであったが、結果的にそのテクストを、出版産業からの束縛をさほど受けず、特定の政治的立場にも直接には縛られないものとして、様々な雑誌に、特定の枠組みに規定されない形で提示することになった。

 もちろん、尾崎翠の文体や用語にも、同時代の流行が反映している面は当然見受けられる。それでもなお、当時の職業作家の多くが所属せざるを得なかった経済的・政治的な場からは、少なからず孤立して提示されたテクストであるということはいえるだろう。それはつまり、尾崎翠の作品が、「職業文壇」や「出版産業」から孤立したテクストとして生起され、同時代の読者に「そのようなもの」として了解される方法で提示されている、ということである。そして、そのようなものから孤立しつつテクストを生成し得たのは、執筆主体の、県人会組織等を通じた、横断的・俯瞰的な時代経験があったものと考えられるのである。

 

3、テクストにあらわれた「もの」

 では、上述のような執筆主体側の状況と、テクストそのものは、どのような形で関連するのだろうか。

 尾崎翠自身が「第七官界彷徨の構図その他」で説明しているように、そのテクストは、意識的に個別の「もの」を配置することで構成されている。一方、物語のプロットは円環構造を意識しており、場面場面の関連は、時間軸に必ずしも規定されるものではない。これは、昭和二年〜八年の尾崎翠の小説全てに共通する手法、あるいは特徴であり、その意味においてこれらの作品は、執筆主体の意図を正確に反映したテクストであるといえるだろう。これは、「出来事」や「人物の動き」を各場面の「構図」を形成する要素とし、その「構図」に様々な「もの」を配置してテクストを構成するという、ある意味で役割を逆転する手法である。「映画漫想」が、ストーリー的な面に言及することなく、俳優の仕草も含めた映像の様式に集約された映画論であることなどを見ても、この手法ないし特徴は、エッセイ的作品にも共通するものであることがわかる。

 言うまでもなく、このような手法そのものは尾崎翠独自のものではない。

 問題は、このような特徴をもつテクストに、どのような「もの」が配置されているかということにある。テクストに現れる「もの」は、社会的にであれ物理的にであれ、テクストに先行して存在するものの引用であるため、否応なく「書かれていること」以外の要素をテクストに引き込んでしまう。その作用は、執筆主体が意図的に用意したものにとどまらず、テクストがメディアに提示され、読者の目に触れる都度、テクストに新しい要素が引き込まれることを示している。それは読者とテクストを繋ぐ結節点であり、「もの」を通じて、読者の所属する時代や社会などの「場」へのテクストの置き直しを可能にする装置として機能する。かなり具体的なレベルで、執筆主体の「場」だけでなく、読者の「場」のありようが影響するテクストなのである。

 ここでは、テクストに実際に配置された「もの」を抽出し、テクストと同時代の人々が知り得たそれぞれの「もの」のコンテクストを確認していくことで、テクストと、作品発表当時の読者が共有し得た「場」のアウトラインの把握を試みたい。

なお、これはあくまで起点であり、たとえば花田清輝や稲垣真美のような再評価時代の読者の「場」のありようの把握も重要である。

 さて、実際のテクストから、特徴的な「もの」を抽出してみると、たとえば「第七官界彷徨」では、次のようなものをあげることができる。

 まず、ボヘミアンネクタイ・マドロスパイプ、ヘアアイロン、百科店のエレベエタアなど、実際に目で見て、触れることのできるもの。次に、コミックオペラ、活動写真のような、新しいメディア、芸術文化に属するものがあり、最後に、「ドッペル何とか」「分裂心理学」「異常心理」「変態心理」といった、一見学術的にみえる観念的な言葉があげられるだろう。

 これらのうち、最初の二つのカテゴリーは、エッセイも含め、昭和二年〜八年の諸作に共通するものであるが、後者は「アップルパイの午後」で初めて明確に現れ(「変態感情。変態感覚。変態性・・」)、「途上にて」の「マゾヒズム」に関する挿話、そして「第七官界彷徨」以降の「小野町子もの」(「歩行」「こほろぎ嬢」「地下室アントン」)などでは繰り返し用いられている。

 いうまでもなく、これらの「もの」をテクストに持ち込むこと自体は、決して尾崎翠に特有なものではない。

 ボヘミアンネクタイや断髪、ヘヤーアイロンなどは、いうまでもなくモダンボーイ・モダンガールたちを類型的にあらわすアイテムとして一般にも広く認知されていたし、もう少し具体的なものについて見てみると、たとえば「コミックオペラ」(本式の「オペラ・コミック」ではなく「オペレッタ」を指していると思われる)は、川端康成の『浅草紅団』の例をあげるまでもなく、同時代の作品にたびたび取り上げられており、主要なモチーフとなっている場合も少なくない。これは、具体的には大正6年(1917)~大正12年(1923)の六年間大流行し、関東大震災後に消滅した「浅草オペラ」と結びついている。(仮に、執筆主体である尾崎翠が「浅草オペラ」そのものを指していなかったとしても)「第七官界彷徨」が発表された時点で「コミックオペラ」といえば、ほぼ例外なく浅草オペラが連想されたはずである。上述の期間、浅草には多数の劇場があり、若者がオペレッタを楽しむことができた。そこにたむろする若者は「ペラゴロ」と呼ばれ、川端康成や宮沢賢治、サトウ・ハチローなど作家のファンも多かった。この時流行した「コロッケの歌」などを通じて、西洋音楽が一般に広まったとされている。

 「変態患者」「分裂心理学」などとして繰り返される心理学風の言葉にも、同じようなことが言える。明治末年から大正期にかけては、日本における心理学の確立期であり、様々な意味で一般の関心を集めていた。この時期、有名な「千里眼事件」を経て、アカデミズムの主流は実験心理学となり、臨床心理学は排除されるようになっていったのである。そのため、尾崎翠のテクストに現れる「心理医者」のような役割を担う一部の分野は、宗教的・スピリチュアリズム的文脈に回収されていくことになった。千里眼のブームは明治末年から大正初年のことであり、臨床心理学がアカデミズムの中で異端視されるようになるのも大正二年頃のことである。大正の末年まで、オスカー・ワイルドやコナン・ドイルが心霊学的文脈で紹介され、芥川龍之介(「二つの手紙」「影」)や泉鏡花(「眉かくしの霊」)、梶井基次郎(「Kの昇天」)が「ドッペルゲンガー」を素材に作品を書いているように、作家たちも高い関心をもっていた。

 「変態」という言葉も、大正時代以降日本に定着した言葉であり、黒沢良臣訳のエビング『変態性欲心理』の刊行(大正2年)、近年その功績が見直されている心理学者・中村古峡の研究誌『変態心理』のような学問的なものからはじまって、『デカメロン』の訳者・梅原北明らによって「エロ・グロ・ナンセンス」の文脈への読み替えられ、流行した言葉であった。

 また、尾崎翠は、「映画漫想」を中心に、チャップリンやナジモヴァなど、サイレント映画や映画スターに言及している。映画ジャーナリズムの確立期であり、プロの映画評論家の登場時期 であったために、映画評論ではなく「漫想」の形をとったのであろう。

 現代の視点から見れば、これらの「もの」への言及は、尾崎翠のテクストに、「モダニズム」の装いを与えている主な要因であるといえよう。

 しかし、これらのテクストにリアルタイムで接した読者に対しては、これらの「もの」への言及は、やや異なる効果を発揮するものであった。

 実時間に沿ってこれらの「もの」が当時どのようなコンテクストにあったかを考えれば、そのことは明白である。これらの「もの」の多くは、実時間でいえば、作品が発表された時期からすると「少し前のもの」なのであり、結論から言えば、それは「追憶」を呼び起こす効果である。

 たとえば浅草オペラは、「第七官界彷徨」が書かれた昭和6年(1931)には既に消滅して数年が経過しており、記憶の中の存在であった。また、「映画漫想」で繰り返し語られるナジモヴァやチャップリンを中心とするサイレント映画への言及は、封切り時のものではなく、かなりフィルムの傷んだ再上映時のものであったり、記憶の中のものであったりする。現実には、西洋映画はトーキー主体に変わりつつある時期であり、翠はむしろそれには嫌悪を表明している。いかにもモダンボーイ・モダンガールらしいファッションも、もはや一般化しすぎて新しいものではなくなっているし、「こほろぎ嬢」の「ツタンカーメン」(大正11年に発見されている)や、「途上にて」の「マルクス・エンゲルス全集の看板」のような形で、この「少し前」のものへの言及が繰り返されるのである。

 「第七官界彷徨」(完成版)は、冒頭で「よほど遠い過去のこと」明示しており、追憶(の形式)であることははっきりしている。作品内の進行が時間軸を示さないために、現代の目から見た場合、この「追憶」という要素は見落とされかねないが、リアルタイムの読者は、あちこちにちりばめられた「もの」によって、たびたびそのことを思い出さざるを得なかったはずである。小説に限らず、著者の近況に近い「嗜好帳」でさえ、最新のものをリアルタイムで紹介するというよりは、愛玩している少し古びたものをモチーフとしている傾向が強い。

 要するに、これらのテクストは「少し前」への追憶という性格において共通しており、生成・提示された時期と、テクストの表現する世界との間には、時間的なずれがある。しかもそれは、歴史小説のように対象化された過去ではなく、現在からわずかに振り返る、身体感覚を伴う過去なのである。

 テクスト「場」という視点からすれば、このテクストは、書かれた「もの」が過ぎ去り、古びつつある「現在」という場で生成され、提示されたテクストである、ということになる。

四、おわりに

 以上で検討してきた内容は、およそ次の三点に集約することができる。

(一)執筆主体である尾崎翠は、東京における同郷人の活動の多様性と、その集合である無産県人会の活動への関与を通じて、特定の文壇的立場に拠ることなく、社会的・時代的状況を俯瞰的に観察しうる場にあった。

(二)作品が提示された雑誌が、政治的側面からも商業的側面からも多岐に及んでいた。すなわち、テクストは特定の外的要因による規定を受けにくい(あるいは受けにくいと了解される)場に提示されている(『女人藝術』についても、「女性対象」という以外は「無色透明」であった時期に限られており、左傾化の進行とともに疎遠になっている)。

(三)テクストは、時間軸に強く規定されない円環状の構図上に、読者からは「やや古い」と認識される「もの」を配置する手法で構成されている。発表当時は、時間の進行が止揚された場から提示された、「近い過去」と「現在」の間を循環するテクストであったと考えられる。

 すなわち、昭和2年(1927)~昭和8年(1933)において、尾崎翠のテクストは、ある程度時代的・社会的全体像を提示しつつも、特定の社会的位置に拠らない場所で、その状況の以後の変化を「弱く、しかし全面的に」拒絶するものとして提示されたものであるということになる。

 それは、特定の政治的・文化的・経済的立場を拒んでいるのではなく、全体像が変質していくことへの拒絶であった。

(『江古田文学』71号所載・2009.8)

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