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港区女子が「食」へのリスペクトが薄くなるわけ?

過去の厳しい時代は白米と味噌汁とお肉またはお魚を食べられるだけで感謝。美味しい料理を今のように誰しもが食べられる時代ではなかった。良いお肉は年間数回のみ。あるものを活かして食べるだけという毎日は、生き残ることに繋がる。食べることができて幸せ。食べて笑顔になる。

相手に見せるのではなく、自分のために食べて、食を大切にする。
この大切さが知らないうちに、悲しいことに消えていた。

Xで話題になった「高級な寿司」の件をきっかけに、港区女子という言葉に目が止まった。悲しくなった。高級ブランド、ゴージャスな生活を見せるために生きているような感覚で、同じ人間だけど、同じ人間ではない。
港区の地域は悪くはない。わけがわからない人生の勝負に負けたくない人がいるからこうなってイメージが悪くなる。要するに、マイナスになる。

高級なものに囲まれて自分の世界と周りの日常生活とのリンクがなくなっていく。次第に、自分は無敵ではないか、という感覚になる。大体がこのような生き方に変わる傾向だ。それが悪いか良いかは自分次第。

お金を出せば何でもできる。お金を払えば許してもらえる。お金を出せば動いてくれる人がいる。自分の生活はお金の中心になるわけだ。ここからは態度も少しずつ変わっていく中で、自分の当たり前は相手に失礼なことになる可能性もある。

美味しいか美味しくないかというより、値段で決まる。高い=美味しいと見せたいアピールだ。例えば、チェーン店に行かない、数千円以下のものを食べない。高級なホテルのラウンジやレストランなどではないと、行かない。この中でSNSでよく見て悲しくなるのは、「デートのために何百万円をかけてたのに一般の店に連れてくれた」「お会計は割り勘」「相手の格好はイマイチだった」など。

これを見ると、注目されたい中で自分へのメリットしか考えてない。高級な料理からプレゼントまで、場合によって現金のプレゼントも。ただ、自分の格好と可愛さで自分との時間と空間を商品化して売る。本来であれば、楽しい空間を楽しめる種は心の広さ。相手と時間を大切にして一緒に過ごしたいならシャネルのカバンがなくても問題ない。おそらく、完全に仕事のような行動にしか感じない。

料理の話に戻ると、本マグロだろうがキャビアだろうが、味よりステータス。生き物であったこと、自分の口に入るまでのルートも考えずに、まるでシャネルのカバンのように見せるためだけ。写真を撮って何も感じなくて美味しそうな食べ方の写真を撮ってSNSに公開。
個人意見だけど、「食」への気持ちはないだろうと感じる。自分のアピールのための道具。食べるのが楽しみという気持ち、心に残る体験、形にならない大切さはほぼない

相手へのリスペクトはお金持ちかどうか、持っているブランドなどのことで判断する人はおそらく、食事へのリスペクトはない。お金が全てで「成功者」というグレードが全てなのだ。ここで思い出せる名言は「豚に真珠」だ。

たまたまSNSで故:瀬戸内寂聴氏と美輪明宏氏の対談講演の一部が流れてきた。その中で美輪氏が言っていたことが、胸の中に入ってきた。

人を見た時に着ているもの、容姿容貌つまり顔形、年齢、性別、国籍、肩書。一切見ないで、目の前にいる人の心が、純度がどれだけ高いか低いか、美しいか優しいか、思いやりがあるか、そっちばっかり見るようになったんですね。だから人々に私は「見えるものは見なさんな。見えないものを見なさい。それは心ですよ。目の前の心をね。どうか、それだけが問題です。」そういう価値観で見るようになったんで、自分が綺麗かとか汚いだとか、そんなことは仮の姿であってどうでもよろしい。とにかくそうじゃなくても美しい心の人もいるわけだし。

瀬戸内寂聴氏と美輪明宏氏の対談講演より

ものから離れて、自分より相手。自分のバランスを取りながらシンプルなライフスタイルから毎日小さな幸せを拾っていけば、料理も形にならない行動も世界一の宝物になる。自分も相手も、余計なものに囚われることなく、心で楽しめる。

人がそれぞれということはよくわかる。自分の動きで相手にダメージを与えることもよくわかるから、胸が痛くなる。気を付けないと、自分のことが好きで人が近くなるのではなく、利用されるだけだ。ゴージャスな生活になっていても結局、一人ぼっち。嫌われることもある。

ウニで遊んだり、食を利用してから捨てる。SNSへの投稿のためだけ、頼む。
このような行動は「人類の終わりの始まり」だと強く感じる。

ここまで書いたことは完全に個人意見だけど、皆さんはどう感じるだろうか。

Massi

みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。