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バズる弱さ、2人だけの会話の強さ

SNSをしていると、「バズる」という言葉がよく耳に入る。いいねの数字が多ければ多いほど、魅力があるという風に捉えられがちだ。そうして出来上がったこの世界では、普段は興味のない内容でもついつい読んでしまう。言うまでもなく、自分のネタがバズったら花火を盛り上がってニヤニヤして、日常生活にない嬉しさがある。ところが、それは花火のように、一瞬で終わる。その後の気持ちは枯れた桜の木のようだ。

個人の経験から言えるのは、「バズる」という価値は実は大したことがない。このネタはバズる=深く考えて気持ちが動いた結果の行動ではなく、多い数字のネタはとりあえず、いいねを押す。そのネタからちゃんとした話し合い、議論、深く掘り下げるというようなことはなく、自分の人生にプラスになることが、ほぼない。

以前、神戸でnoteメンバーシップのメンバーとオフ会があった。美味しいものを食べて神戸市内を歩いて、その間にたくさんの話ができた。文学、言葉の深さ、人生についてなどの意見交換と相談会のような会話。しかも、相手は完全にわけわからない人ではなく、「仲間」と言えるレベル。しっかり話して、しっかり理解した上で、経験から重なった経験に基づいてしっかり返してくれる。アンチなしの会話。反対のことがあっても、「これがあって、これで続いて、この理由でこう」のように組み立てられた上で感情的な部分もある。

正直言って、どんなキラキラのバズりになっていても、絶対どこから合わない一言が入る。通知が多くて、その日に話題になったとしても、自分に何も残らない。おそらく、本人もなぜこのネタがバズったかわからない。そもそも、アルゴリズムや裏の仕組みにかかって伸びただけ、のように感じている。

SNSという毒は目で見えない量を1ヶ月、半年、1年摂取し続けると、自分の心に蓄積されて中毒症状を引き起こす。自分のことを認めて欲しい。SNSから出る数字だけを追い求めてしまうことをやめられない。携帯のロック画面を開く→SNSのアイコンをタップの流れは、意識せずに自然と行える、いや、行えてしまう。画面をスクロールするたびに脳内ではドーパミンがどんどん分泌され、体内を駆け巡り、知らない内に、、、というのは、現代問題になっているようだ。

最高の仲間と何でも話せる環境より、ネット上の存在とやり取りするだけ。良いことがあれば、悪いこともある。言葉の本当の使い方、大切さ、活かし方、出し方などは薄くなってると感じている。

時間に負けて待ってくれないSNSは、どんどん自分を置いてけぼりにしてしまう。自分への時間をしっかり取って、美味しいコーヒーを飲みながら気楽に話す価値は、バズることより高い。1番輝いてる部分だけのこと、日常生活で絶対言わないこと、コミュニケーションが苦手なこと、SNSを続けることは台風の目にずっといるようなことと同じだ。周りを見て静かで晴れているけど、本当は酷い風で誰も近付いてくれない。

この記事を書いている理由は、将来の僕に残したいから。noteが好きな理由はどこでも書けないことを書けるから。ここでありのままいられる。

Massi

みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。