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出会えてよかった、といいきれるか

桜も札幌では盛りを超え、徐々に散り始めましたが、
稚内ではようやく開花の宣言です。
九州の人には信じられない時期のはなしでしょうが。

今日も ”ましうー” に来て下さり、ありがとうございます。
つくづく思いますが、日本って縦に長いんですね。

◇◇◇

プラス思考なのかマイナス思考なのか、よくわからないお話です。

音楽とか映画とか小説とか、今の時代ではいろんな楽しめることや趣味にできる材料がごろごろとありふれていると思うんです。

もちろん全然気にも留まらないアーティストが目の前を通り過ぎていってるのがほとんどでしょうし、膨大な数だからそれは当たり前でしょう。
そんな中でたまたまかもしれないけど、何かのきっかけで感受性にひっかかり、ずっと何十年も続いて心に留まっている作品やそれを生み出している人とかあるわけです。

これまでめぐり合ってきた音楽なんかでも、
小学生の頃から今だに聴き続けて、年を重ねても変わらず大好きなミュージシャンがずーっと居座っている。

アルバム単位で昔にさかのぼったり、リアルタイムで新譜が出たときに「今回の作品は○○だ」とか、
受け手は高飛車な能書きをたれたりいっぱしに評価をしたりする。

中には今聴いてみて、当時の時代の様子や自分の心持ちみたいなものが思い出されたりする曲も、多かれ少なかれあるものだ。

たとえば、「およげたいやきくん」から初めてレコードというものを買ったワクワク感だったり、
キャンディーズの「年下の男の子」が公園のボート乗り場で流れていた光景とか、
山本リンダの「狙い撃ち」が仕事で苦しかった当時にリンクしたり、
などなど、
そのときそのときの思い出がよみがえってくるのです。

これってあらためて考えると、大切な宝物といっても過言ではないほどの、貴重な体験であり財産になっていると思うわけなのです。

◇◇◇

ピンポイント的に思い出として残っている曲もあれば、
偶然出会って何十年も離れられないアーティストもいる。

そんなミュージシャンたちは音楽というかたちで、幼少のみぎりだったり年老いたいい大人となってまでも、感動なり感性の成長なりを与えてくれた。

彼ら彼女らがいてくれたおかげで、なかなか充実したミュージックシーンを満喫してきたし、今でもそれは続いている。

こうあるのも ”出会い” というもの、言い換えれば知るきっかけがあったからで、
そのときの年齢なり生活状況なり、さまざまな要素がずれていなかったからこうして深い付き合いになったのだろう。

感受性の違うタイミングだったら、たとえ同じ作品でも受け入れることはできなかったに違いない。

そういう意味では、今のひいきとしている彼らに出会えて、本当に運が良かったとつくづく思うのです。


だが、しかしである。
これを単に良かったと言い切ってよいのだろうか。

実はもっと良い方向での出会いに恵まれていたら、他により素晴らしい作品や人に出会えていたかもしれない。

この世には時間のずれを含めると数えきれないほどの「存在」があるわけだから、
気に留めることができたのはほんの一握りのものであると考えるのが自然であろう。

運が良ければもっといいものにありつけたかもしれない、と考えるのも有りといえば有りだ。


好きなものに出会えている今が運が良いと考えるか、
まだまだ知らないものたちがあることに不運と判断するのか、
気持ちの持ちようでどうにでも変化していくということですね。

ここはプラス思考で、よかったということにしよう。
この場合 ”プラス” となるのかよくわからないが。


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