見出し画像

年寄りのくせに年寄りが嫌いだ

 もちろん一般論である。

 いい人もいっぱいいる。変なのがたまにいる。

 私自身、すでに68歳、あとひと月足らずで69歳になる。70歳代の大代一歩手前である。そのときには、市による高齢者優遇で、バス料金が無料になる。住処は、町の中心から少し離れ、買い物や図書館へ行くのも、駐車場代が要るし、歩けば駅まで22分、運動にちょうどいい距離だが、荷物がるときはつらい。若い者でも、つらいのは同じ。年寄りには、特にこたえる。

 青年・壮年期も同じなのは、十分認識している。男は、お互い、意地と度胸の張り合いがある。年取って、だいぶ落ち着いてはいるが、他人様のご様子を見ると、年齢とともに、さらに硬直化しているように感じてならない。自分もそうではないかと心配さえしている。その百々のつまりが認知症であり、いわゆるボケにつながると確信する次第である。

 つまらぬことに怒る。「ちょっとぐらい、いいじゃないか。」それでいいのか。不祥事や不倫や「不」のつくことが日々多い。自宅で、本を読んでいて、ボールが玄関先にガーン、壊れてはいない、こどもが敷地にボールを取りに入る、何も言わず出ていこうとする。思わず「こらっ!」。それでいいと思う。「勝手に入るな」、「一言言え」、「ケガや壊れ物はありませんか」ぐらい言えと。

 以後、私の家の前では、ボール遊びは減った。隣の家は、コロナでみんな静かにしているときに、大声でバドミントン。これが休校の実態、コロナが飛ぶわ。学校も指導しない。自由に個性を伸ばせって。ジロッっと見ると、「やかましいですか」と「うるさい」、いやな爺さんって感じ。

 いま昔ほど、年寄りは大事にされない。むしろ余計者だ。病気になっても、老衰状態になっても、胃ろうや経管給与などの延命治療、植物人間状態で何年も寝たきり、ほとんど認識はなくなる。

 そんな姿は、明日の私自身なのである。私は、もの心ついたときには、4人の祖父母のうち、母型の祖父はすでに亡く、あと順次、別世界へ旅立っていった。そんなに長い期間でもなかったし、苦しんでいる様子はなかった。父型の祖父に至っては、商売で他府県へ集金へ行って、帰ってから、「疲れた」と1カ月でなくなった。一年に一回、年始挨拶ぐらいだった。

 しかし、それなり尊敬していた。折々、ポイントポイントで優しくしてくれた思いがある。私には、いま孫が二人、その程度でいい。遠くからジッと見て、できるだけの支援はしてやりたい。成人するまで元気で見守りたい。

 そんためには、気力、知力、体力の充実。それが必要。

 そうでない年寄りがたくさん。好きでそうなったのではないのはわかる。

 日々闘いだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?