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究極の自己中

私は今まで「この世には私しかいないかもしれない」という仮説のもと、考察を続けてきた。

そして最近は、その考えに基づいた考察結果を動画にし、YouTubeにアップしたりしている。

そうしていると、いくつかのコメントをいただく。

「自分中心で考えるとは何様だ!驕りだ!自分勝手な考えだ!」的なコメントがたまに入るのだよ。まぁそこまでハッキリ言わないにしても、遠回しにそういった内容のものが来る。

そうコメントを残す人は、もちろん私が言っている事を理解していない。していたらそもそも、そんなコメントは残さない。何故なら、無駄だからだ。

私からすればその人の存在意義は「私にそういうヒントを残すためだけ」に存在しているわけであり、下手すると物質的にも存在していない。少なくとも、私視点からその存在を確認できないのだから。一生、会う事も無いだろうし…。

この世の教義は逆転している。だからこそ、「自分勝手な解釈は危険」などと教え込む。

寧ろこの世はまず、「自分ありき」でしょう?そこを見失ってどうする。

勿論バランスとして、「他人ありき」も考える必要はあるよ。でも、大の大人にそんな事を言う時点で失礼だと思わないのだろうか?「何様なのだろう?」と、いつも不思議に思うのだよ。賢者にでもなったつもりなのか。

普通に学校教育を受けてきたなら、自分以外の人を尊重する重要性なんぞ、わざわざ主張するまでもない。私だって電車の優先座席に座っている時、お年寄りや体の不自由な方が乗ってきたら席を譲るよ。

でもなぜか、「自分ありき」の考えを持つ事は道徳的にタブーとされている。「自分勝手だ」という感情的な理論に着地する様に出来ている。

皆、幼少期からその様に洗脳されているのだ。それをこの世では「思いやり」などと表現し、「性善である」と説く。要は「モラル」だね。

だからこそ、そういったコメントをもらうたび、「あぁ、やはり私以外の存在は私を成長させるためだけに存在している、ただの肉ロボットに過ぎないのだなぁ」と思う。

どうやら皆、ことごとく「汚いもの」を見たくないらしい。

「性善なもの」にだけ、目を向けて生きて行きたいのだ。

良いんじゃないかな。もし仮にそこの貴方がそういった類の人だったとしても、それもまた「悪」というわけじゃない。尤も、「善」でもないがね。私から見れば、だが。

あえて言うが…私の様な思想の人間を「自己中」と捉える人は、人間の汚い場面や行いを見て、どう思うのだろうか。

生きたままバラバラにされた肉。幼女売春。臓器密売…と、まだまだ何百も出てきそうだが、やめておく。ハッキリ言うが、ネットのディープウェブの如く、一般的に「善」と言われるヒトの側面なんぞ、全体のごくごく一部分に過ぎない。そこばかり見ている人に真理を語られた所で、何も説得力は無いだろう。

それもまた「ヒト」であり、「世界」であり、「宇宙」なんだよ。

…と、やはり私は坊主ではないので、ここでそれを説くつもりもない。

全ての私以外の存在は「役をこなしているのみ」であり、「設定上の存在」だ。ここは考察をどこまで進めても変わらない。

こういったコメントもいただく。

「マサヤンさんの理屈だと、我々もまた世界の中心にいることになりますが、そこはどうお考えですか?」

…これに対して真面目に、そして容赦無く答えるなら、そもそもその考えの前提自体が間違っている。それは私に投げかけるべき質問ではない。何故なら、私はその問いに答えてあげられないからだ。

繰り返すが、私以外の存在は私を成長させるため「だけ」の存在なのだよ。いわば、たった一匹の為に犠牲になっていく精子たち。このコメントを打ってくれた人も同様である。そしてこの方もまた、私の視点から存在を確認できない以上、この全てをひっくるめて「私の目に入ってきた単なる現象」に過ぎない。

この世は私中心であり、皆さんとの合作によって出来上がった。そして私が死ねば、この世を創造した「きっかけ」が消えるので、皆さんもまたある種の「眠り」につく。それ以上でもそれ以下でもない。

私と皆さんでは、単純に「立場」が違うのだ。勿論これら全て、私が勝手に思っていること。

この世が終われば私は恐らくここから「抽出」され、新しい世界へと旅立つ。完全な「お別れ」の時だ。

ただ、少し気になるところとしては…そうだな…

創世記の「ノアの洪水」…この時のノアが動物を船に乗せた描写は、もしかすると「私がこの世の要素をピックアップし、持ち帰る場面」を表しているのかもしれない。

この世が終わり、改めて旅立つ際、私がこの世界において「持ち帰りたい」と思う要素だけを選び、新しい世界へと連れて行けるのかもしれないな…。

じゃないと、今世ってやつが本当に「ただの暇つぶし」になってしまう。この現世における私の存在意義ってやつを何とか定義するなら、そこに集約されるのではないか。

つまりは…「収穫」。日本人が農耕民族であるのも、この事実が具現化した、ある種のヒントなのかもしれない。

私はこの現世という名の「水田」で、稲穂を育てている。

そして、最終的には「選別」し、質の良いものだけを抜粋して船に乗せる。

それが次の宇宙創造に必要な「栄養・エネルギー」になる。

だから私は究極の自己中心主義であるのと同時に、かつ究極の「他への思いやり」をも内包している。私と私以外の森羅万象は、結局のところ「持ちつ持たれつ」の関係であり、どこまで行っても「AかつB」なのだ。だからこそ、これを理解する為に自分勝手な考察を進める必要があった。

だってその証拠に、私と同じ考察が出来る人など、いないじゃないか。見た事も聞いた事もないよ。

逆に私から見れば、私以外の存在はみーーーーーんな揃って、同じ事を言っている。どっかの学者も占い師もスピ系の人もYouTuberもリアルの知り合いも全部、ね。「この世の道徳・常識」ってやつに邪魔されて、肝心の所に手が届いていないのさ。

だから私の中でその「事実」はほぼ、証明されている。

私はある意味、世界で最も「自分勝手」かつ「自己中心的」な存在である。

そうでなくてはならないのだ。

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