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どうしてモテに絡め取られてしまうのだろうか

けっこう前から、恋愛についての話を友人にするとnoteに書いてほしいと言われることが多い。最近では、マッチングアプリを通じて知り合った人ひとりひとりのことを、久しぶりに会った友人とのお茶の場で雑談として話していると恋愛小説書いてくださいなんて言われる始末。

大学生の頃は、恋愛エッセイを書こうと思ってもどうやったら甘く切ない文章を書けるのか逆立ちしても分からなかったのに、いつの間にやら恋バナの人になっている。どうしたらそうなるの。

実際、マッチングアプリで会う人にいろんな話を聞くのは楽しい。世間話から趣味の話、仕事の話、果てはどうしてマッチングアプリをやっているのか、今どんな感じですか?と本人のマッチングアプリ事情まで。お茶をしながら聞いている。

いろんな背景や感情があるのだなと思う。30代になって周りが結婚していくから始めた、自分ひとりでも楽しいけれどたまに淋しくなる、社会人になってから出会いがなくて。マッチングアプリで電話した人が陽キャでグイグイ来る感じでひいてしまった、別な人とも浅い会話しかできなくて、好きなタイプがよく分からなくなった。

一時期、自分はマッチングアプリが合っていないと思っていたけれど、こうして思っていることを話してみるとみんなも思っているんだということに気付かされる。そして、学生の頃のように単純に恋愛をしたいというよりは、背景に別の事情や想いを持っていることが多い。

実際、20代後半にもなれば単純に「恋愛したい」と願って恋愛する人のほうが希少になっていくのだと思うけれど、聞いているとひとりひとりたどり着くまでの道のりがあることを知る。この一つひとつを短編集として書けたらいいのに、と思う。個人的な内容なので書かないけれど。

この3ヶ月ほどで辻村深月『傲慢と善良』、加藤千恵『マッチング!』、山本文緒『自転しながら公転する』と奇遇にも30代前半の女性が婚活や恋愛を通していつのまにか人生自体に向き合う視点へ行き着く作品を読んだ。30歳になるということがこの社会においてある種のボーダーになってしまっているという前提もあるが、聞く人聞く人のマッチングアプリを通して出会った人のエプソードやそこから湧き上がる悩みが、本当にこれらの小説で読んだ小さな傷つきの連続や孤独感と重なるのだ。

「マッチングアプリに合っていない」と一括りの悩みというよりは、細かな悩みを持っていて、生きているのだと思う。

思えば、男性を主人公とした、恋愛や婚活をしていくなかでそうした悩みや葛藤が描かれた作品は意外とない気がする。自分はけっこう恋愛で悪戦苦闘して、そのたびに苦悩して、周りの人々へ吐露して、ときに自分と重なる小説を読んでは共感しているというのに。その大方が女性を主人公としている気がする。

男性側って悩むことがないのか???と思ったが、そんなはずはないし、男性も恋愛を通して悩むことだってあると思うのだけど。(自分がそういう作品を知らないという可能性も大いにありうる)

考え続けるうちに、男性の主人公視点で描かれる恋愛コンテンツはモテor非モテに絡め取られていってしまうのではないかと気づいた。非モテだった人が突然モテるみたいな。あるいは、『明け方の若者たち』や『花束みたいな恋をした』のように、序盤で自然といい感じになっているものが多い。

自分自身、マッチングアプリや恋愛にまつわる悩みを吐露すると「何、そんなに悩んでるの。モテたいなら……」と言われること山の如し。あるいは、ちょっとおしゃれしようとしただけで「モテようとしている」と囃されたりする。

そのたびに「モテたいわけじゃない!」と赤入れしたくなるのだが、その裏にある目の前の人に向き合うことの大変さやフィーリングの合う合わないなどなど小さく積もった悩みを説明しようとしてもあまりに面倒くさいのと体力が追いつかなすぎて「モテたいです」と、まるで濡れ衣を着せられた犯人のように力無く白状してしまう。本当は犯行に及んでいないのに……!(違

(短絡的かもしれないけれど)男性が恋愛と向き合おうとした瞬間に世間的にはイコールで「モテ」かどうかでジャッジする、されるのではないだろうか。

本人の心情ではなく、社会的なモテなのかどうかが行動選択のすべてになっていく。(主語が大きいかもしれないが)

そんな複雑な感情が湧き上がるコンテンツをどこかでも観たなと思ったのが、この夏Netflixで公開された星野源さんとオードリー・若林さんによる対話を描いた『LIGHTHOUSE』だ。

男性における悩みや社会との摩擦を丁寧に言葉にしようとするコンテンツがこれまでなく、ジェーン・スーさんと堀井美香さんの『OVER THE SUN』の男性版のようなコンテンツをやっと観られたと嬉しかった。その後、似たような対比はSNS空間で多く見たが、OVER THE SUNほど2人の深い部分まで言葉にされていなくて刺さらなかったという感想が多くて「なるほど」と思った。

三宅香帆さんの批評だったと思うが、星野源と若林ですら自分自身の繊細な部分をさらけだして言葉にするのが男性社会では難しいのか、という趣旨の文章を書いていたことへ膝を打った。

そうか、あまりに自分の繊細さや悩みを下ろしていく場が男性側にはなかったのか。

まさしく、星野源さんと若林さんが語った社会における強/弱という価値観を恋愛に当てはめれば「モテ」=「強」ということになる。男性の多くが強くあらねば(弱音を吐いてはいけない)というマッチョイズムに絡め取られていくとすれば、恋愛なんてその最たる事例で、悩みなぞないものとして扱われ、いかに異性からモテるか否かという点に恋バナのアジェンダが絞られるのは当然のことだなと腑に落ちた。

でも、そうなんですかねえというのが今の自分の気持ちである。

男性だって「恋愛をしたい」と思うまでの背景に、いろんな人生のストーリーがあるはずだし、マッチングアプリを通じていろんな人と会っていくなかで小さな悩みを山積させていくものではないのだろうか。そんな悩み、たくさんあるくない???僕はあるんだけど。

ということをつらつらと考えていたら、周囲から言われる「恋愛小説書いて」ってリクエストに応えるのもありかもなと思った日曜日の夜であった。

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