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ご挨拶 : 21世紀に生きる仏教者としての責務と貢献

はじめに

三宝に帰依いたします。

この度、2023年10月2日に、note 記事を始めることにいたしました。乾 将崇(いぬい・まさたか)です。

さて、note 記事で書こうと考えている内容は、主に仏教のこと、特にチベット仏教のこと、そして趣味的な取材記事や随筆のようなものです。まずは、自分個人の備忘録といった形になると思います。とはいえ、将来的には有意義な記事を書きたいと思います。記事の中には、すでに正式にどこかで発表したものを加筆・修正して掲載するかもしれません。

この note 記事が、特に仏教関係の記事が、皆様の心の状態に安らぎをもたらし、生活を豊かにすることになっていれば、幸いです。

さて、この記事の筆者がどのような人物であるのかについて、短く述べておきましょう。基本的には、日本の仏教者であって、東京大学のインド哲学仏教学研究室で勉強していたり、高野山で修行を行なっていたり、海外僧院で勉学していたり、仏教遊学の生活を送っています。仏教といった場合、筆者はチベット語文献をよく読むため、チベット仏教、特にゲルク派の文献を多く引用する傾向にあるということを読者は知っておかれた方がよいでしょう。

できるだけ、正確な記事を書こうと努力しますが、誤りなどがあるかもしれません。その際は、ご指摘など下さるとありがたく思います。

さて、もう少し筆者の方向性を知っておきたいという読者の方は、以下の項目をご覧いただければ、よいでしょう。

私の責務

私は、日本国に暮らし、21 世紀の初頭に教育を受け、仏教を実践し、仏教学を研究しようとする人間であるという自己認識に基づいて、私は以下のことを責務として負うと考えています。

(1) アジア世界の対話の基礎の構築に貢献すること。
(2) 日本の理解の継続的更新に貢献すること。
(3) 人類の平安で安定した精神の実現に貢献すること。

これらについて、以下説明を加えます。

(1) 仏教はその宗教の歴史上アジア世界に広まっており、言語や国家を超えてある程度共通の価値観を提供してきました。とはいえ、慈悲といった仏教的価値観がどれほどアジア世界の平和や人々の安楽に貢献したかは定かではありません。さらには、これらの歴史的状況を直ちに現在において蘇らすという考えは現実的ではありません。しかし、仏教の持つ慈悲といった思想、弱者に、人間全てに、あるいは全ての生あるものに寄り添い、それらに善の力を見出し、それらに安楽をもたらそうとする発想は、不寛容や排除、欺瞞、蔑視といったその逆の価値観に比して、より平和的な何かをもたらすと直感しています。さらに、仏教学はこの仏教の多言語性に対応するために、多言語他地域をまたがる思想的課題に対応する研究上の方法論を開発してきました。これらは他の全アジア的学問に適応可能なものであり、仏教学の方法論的基礎がより検討され他学問からの批判に耐えうるものとなったとき、全アジア的学問と対話の枠組みに貢献することが可能となると考えます。

(2) 仏教はアジア世界に広がっており、日本はこれに含まれています。日本の思想を理解するといったとき、仏教的な思想の理解は重要な地位を占めます。日本研究の際に仏教は欠かせません。ここで、日本研究がなぜ重要なのかという問いに答えておかねばならなりません。それは、日本は日本に居住する人間を規定する時空だからです。日本という場所にいることによって、居住者は日本的な何かによって規定されます。その規定から免れることは不可能ですが、研究者として自分自身を規定する思想環境を捉え相対化することがある程度できていなければ、時代精神あるいは地域的精神に基づく偏狭な問題意識によってその研究の意義が時空的に限定的となってしまう可能性が想定されます。日本に住む人間として、仏教学を行うといった場合、自分自身の思想環境を相対化するという点においても、日本研究は重要な地位にあります。さらには、日本を理解すること、そして日本観を更新することによって、具体的には日本に関わる学知を結集し、新たな日本をめぐる語り(自己理解としての日本)を登場させることによって、日本を柔らかに良い方向に誘導することは可能であると考えています。学問がこのような実践的な問題に触れることに関する是非は検討されねばならないですが、このような実践的学問像が比較的日本をめぐる語りという形で実現されやすいと考えます。

(3) 仏教は心の宗教です。それは、生あるものの心に善に向かう可能性を最大限に認め、心に善を留め、行いを善となし、そして善業の結果である楽、幸せをあらゆる生あるものに保証しようという考えを持つ宗教という意味です。我々が安全保障という形でさまざまな安らぎ(security)を得ていることと同様に、精神の安全保障という概念が提示され、人類の精神の安定が指向されるのは、不自然な発想ではありません。この地球が複数の観点から人類にとって生存の難しい状況になりつつあるとされる今、戦争や災害など大量死は身近な出来事であって、人類の精神的危機に対する学知の構築は急がれる必要があります。ここにおいて、人類の精神の安全保障に関わる学知が結集する必要性は実に認めねばならないでしょう。仏教学は、その研究対象である仏教の性質により、心に関わる学問であり、これに積極的に参加することを要すると思います。私個人としても、仏教者としてこれらの諸問題に当事者として関わる能力があり、そして責務があると感じています。

私は21世紀に日本で生まれた仏教者として、以上のような責務が自身に託されていると考えています。ある立場を、否応なく、あるいは進んで引き受けている私は、その立場に伴うあらゆる繁栄は、他者と世界に対して何かしらの貢献を行うために費やされるべきであると考えています。この責務は、大乗仏教の菩薩思想、あるいは利他思想によって輪郭を与えられています。私のあらゆる活動とその計画は、このような仏教者としての自己認識に基づいていなければならないと自ら信じています。

私の貢献

仏教が、有情(sems can)の素質、いきとしいけるものたちそれぞれの素質に合わせて、それぞれの心によき変容をもたらし、善なる行為を促し、幸せをもたらす宗教であることを考えると、仏教者は仏教を研究することで、あらゆる有情たちの安寧を実現する責務があると思われます。仏教は、思想、論理、修道、菩提といった諸相があり、そのそれぞれについて文献学的に注意深く、また思想的に正確に検討されることを要します。

一仏教者としての私の研究の終着点は、あらゆる有情にとって安楽と思われる精神状態について表現し、その精神状態へいたる道を提示することです。一種の精神の安全保障といってよいでしょう。仏教がそのための方法論を考えてきたために、またその方法論の中でも迅速なものが密教、特に無上瑜伽タントラ(rnal ʼbyor bla na med paʼi rgyud, yogānuttaratantra)の伝統であるために、それを研究するものがこの実現に貢献できるであろうとの考えを持ち、その計画に与ることは自然なことと思われます。この終着点は医学あるいは神経学などの分野と関連するものと思われます。この計画にはかなりの年数を要しますが、この計画が成功すれば、少なくとも人類の精神を取り巻く状況は改善されると考えます。

さて、具体的には、インドにその起源を求めることができる pañcakrama などの無上瑜伽タントラ文献そのものへの探究に加えて、チベットにおいてそれがいかに解釈され、いかに伝承され、いかに実践されてきたのかについて研究したいと思います。特に、ジェ-ツォンカパ・ロサン-タクパ(rje tsong kha pa blo bzang grags pa)や彼の弟子、そして現代に至るまでのゲルク派(dge lugs pa)の教学や実践を含む密教のあり方についてです。ゲルク派の枠組み、つまり、成仏に至る方法としてあらゆる思想と実践を体系化するという観点からすると、guhyasamajatantra (gsang 'dus, 秘密集会タントラ)をその中心とすることになるでしょう。Guhyasamājatantra や cakrasaṃvaratantra (bde mchog, チャックラサンヴァラタントラ)をはじめとする無上瑜伽タントラの伝統の中での二次第(rim pa gnyis)について、典籍を紐解きながら、実践をしながら、研究をして行きたいです。

さて、私は幸い guhyasamājatantra に関しては、四つからなる灌頂をゲルク派の阿闍梨から受法し、成就法(sādhana, sgrub thams)と呼ばれる修行を毎日行なっています。修道者の立場からして、rnal ʼbyor bla na med paʼi rgyud (無上瑜伽タントラ)に取り組む動機は、成仏の問題と大いに関連があります。仏教の修行者は成仏を目的として行に励みます。仏教思想に仮に優劣があるとして、小乗より大乗が優れているという思想はかなり大乗の中では一般的です。その理由は救済対象の広さにあります。他方、大乗と密教を比較した際に、密教を優れているというのは、救済対象の広さの問題ではありません。双方が一切衆生の救済を目標としています。密教が優れているとされるのは、成仏にかかる時間が短いこと、即身成仏という言葉に象徴的ですが、そのことが主な理由です。その密教の中でも bla na med pa(これより上なものがない、この上なく素晴らしい)と称えられる無上瑜伽タトラは成仏にかかる時間が短いこと、特に、観想の中に生と死と中有と相を一致させて観想すること(skye shi bar do gsums dang rnam pa mthun par sgom pa)など、色身の成就の仕方が独自であること、をその重要な利点として説いています。速やかな成仏を願う人が、この修行道を取らないという考えは成立しません。ですから、私は無上瑜伽の道を素晴らしいと感じて、修行していることになります。この宗教的な動機によっても、私は無上瑜伽タントラの研究は進行してゆきます。

また、自身が高野山で四度加行を成満し、僧侶となり、行を行なっていることを考えると、これらの密教研究には当然、真言僧としての視点も生かされることになります。同じ中期密教の典籍についてであっても、日本とチベットでは、思想や実践のあり方は違います。これらの比較も興味深いテーマともいえるでしょう。さらには、実際に仏教を継承している僧院で生活することは、それだけでも仏教が何であるかを理解する助けとなります。ですので、文献的な研究に加えて、チベットの僧院に留学し、密教に関わる伝授を受け、修道と教学を一致させた形で、研究することは、密教を理解する上で必須であると考えています。

さて、私の研究テーマを要約すると以下のようになるでしょう。

(1) dGe lugs pa (ゲルク派)において、 guhyasamājatantra や cakrasaṃvaratantra をはじめとする後期密教、あるいはチベットにおいて rnal ʼbyor bla na med paʼi rgyud (無上瑜伽タントラ)と呼ばれる伝統がいかに継承されてきたかについて、思想や実践といった複数の観点から、明らかにすること。また、その成否は成仏に資するか否かという観点により評価されなければならない。

(2) 以上の研究を十全に行うために、インド-チベット仏教において、論理学がどのように形成され、典籍を記述する際にどのように活用されてきたか、また、中観帰謬論派(dbu ma thal 'gyur pa)をはじめとするインド仏教の哲学学派の中で、空性(stong pa nyid)の見解がどのように理解されていたか、またそれがチベット仏教僧によりどのように受容され、どのように解釈され、どのように継承されたか、特に密教の修道の中でどのように活用されたかについて明らかにすること。

(3) 以上に関連して、インド-チベット仏教が構築してきた論理学を分析し、その構造を現在のコンピューターのアルゴリズムの構築に利用すること、さらに、対話を通じた教育に活用すること。

(4) 以上の研究を十全に行うために、インド-チベット仏教に関わる三蔵に代表される典籍の、そして高僧の講義の音声の、データベースを構築すること。

(5) 以上の研究と他の宗教や文学、芸術、歴史、社会、死生など人類の精神的な営みについての学知を広く融合し、思想や宗教に先立つ霊性(spirituality)とその語りについて分析し、宗教や思想を超えた人類間連帯と対話、協力のあり方を模索すること、また、幸せ、苦しみ、ケアといった人間が相互の関係によって満たすことのできるような精神状態と慈悲心や利他心といった個々の心のあり方との連関を探り、それぞれにとって幸福と思われる人類の社会の状態について提言すること。

(6) 以上の研究によって、無上瑜伽タントラの伝承に基づくヒトの死、苦しみ、生きている身心の捉え方がどのように医学や神経学といった現代科学の知見により記述されうるか、あるいはされえないかについて考察すること、またその考察に基づいて、無上瑜伽タントラの修道方法を利用した精神の安全保障の方法を考案すること。

(7) 以上に関連して、インド太平洋(Indo-pacific)や各地の仏教世界の持つ多様性と包摂的な(inclusive)な環境、特に対話と思想を取り巻く包摂的な環境について調査し、言語、対話、論理、法、哲学、思想、霊性といった観点から、将来の人類社会の平和構築に貢献すること。

むすび

以上のような方向性と目標の達成には、私はさらに勉学と修行を積まねばならないことは明らかです。それのみか、諸先生の指導、畏友諸氏の助言と助力が必要なのも言を俟ちません。また、当該計画へのあらゆる協力者は、あらゆる凡庸さを克服し、困難にあって共に力をふりしぼらなければなりません。ただし、これを達成することによる恩恵は今後の人類と有情にとって大きいものであると信じます。

私は愚材といえども、今までどうにか勉学は続けることができました。これもひとえに、父母、善知識、先生、友人、先輩、後輩、施主、国家、大学、寺院をはじめ、導き、支えてくださっている方によっています。この note 記事がそれら支援者への説明責任を全うするものであるとも考えます。今後、研究をはじめあらゆる方面において、それらの方々のご恩に報いたいと思います。勉学・研究・人格など多くの点で至らぬことばかりなのですが、今後とも暖かくお見守りくださいますようお願い申し上げます。諸賢はどうぞ私の拙い言葉をお察しくださいますように。

また、皆様が平和なところで暮らすことができ、あらゆる障りがなくなり、健康で寿命が伸び、福徳溢れたものとなりますよう祈ります。この祈念をもって、note を開始するにあたってのご挨拶といたします。

如意吉祥!

2023年10月2日 本郷にて

乾 将崇、頓首。

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