「私は良いんだけど」というNG
マネジメントしないマネージャーの話をもう一つします。
前回は「みんな貴方を悪く言っている」です。
今回は「私は良いんだけど」にします。
「私は良いんだけど何々さんはどう思うのかな」と言うのは、澤円さんの言葉を拝借するなら、「卑怯なクズ」です。
私の言葉では「ほうれん草大好きポパイジジイ」になりますね。
相談に行け、その結果を報告しろ、という老害。
「なんたら長」をしてはならない人災です。
「良い」という意味ではない
「私は良いんだけど」なんて、そもそも「良い」ではないのです。
「私は良いんだけど何々さんは何と言うかな」と他人の判断に丸投げする時点で、マネジメントを放棄しています。
「良いんだけど」とまで、ほざいておきながら、「良い」という意味ではない。
それだけでなく「何々さんのところへ行け」と、暗に手間を示している。
「よし、一緒に行こう」だったらまだ良いけどと澤円さんが仰るのは「行け」が暗に含まれているからです。
手間を部下にさせ、否定や難色を「何々さん」にさせる。
「何々さんのところには行ってきたか」とでも、言い捨てて済ませる。
「何々さんも良いと仰っていました」と報告したところで「もう一回確認だけしてこい」だとか、「誰某さんはどう思うのかな」だとか、一手間を増やして、言い捨てて済ませる。
こんなのは「ほうれん草大好きポパイジジイ」のあるあるなんです。
一歩も動かずに、「行け」、「行ってきたか」、「どう言っていたのか」、「もう一回行け」。
一方的に、ほうれん草を要求する。
けれども、ほうれん草を供給しない。
チームにいさせてはいけない人災です。
「なんたら長」なのに判断の放棄
ほうれん草大好きポパイジジイは判断を放棄しているから、チームにいさせてはいけないのです。
そんな老害を通す必要がありますか。
「私は良いんだけど何々さんが」というならば、その何々さんが「なんたら長」になれば良い。
「なんたら長」に必要なのは判断です。
「良い」という判断ならば、「良いんだけど」になるはずがない。
「私は良いんだけど」という保身。
「何々さんはどうか」という判断の丸投げ。
「私は良いんだけど、何々さんはどうか」では、自己保身も責任転嫁も出来てしまう。
「何々さんが良いなら」という留保で保留にしていたならば、「なんたら長」なのに判断もせずに居座るだけが出来るのです。
ゆえに悪なんです。有害なんです。
必要なのは保留でなく説得
私は良いんだけど、何々さんが反対するかもな、と「本当に」思っているなら、「なんたら長」に必要なのは保留でなく説得なんです。
「何々さんはどうかな」なんて保留にしていて、良いはずがない。
「ちょっと聞きに行ってみて」なんて保留をするなら、「なんたら長」なんて要りません。
本当は「良い」とは思っていないのに「悪い」と言わないのが論外。
「私は良いんだけど」と誤魔化すのが論外。
「何々さんはどうか」と転嫁するのが論外。
トリプル論外なんです。
「本当に」良いと思っているなら論外になることなんてないのです。
良いと思う「なんたら長」は、「(反対しそうな)何々さんを一緒に説得しに行こう」と言う。
「本当に」良いと思っているならそうなります。
必ずそうなります。
管理者も実務者も賛成で、別の構成員が反対するかもしれない、と思ったら、説得するのみ。
それ以外にはないのです。
説得する際は、折衷も止揚もできる人間が一緒に行く。これが理想形であり、最適解です。
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