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破壊の女神⑨

 9
 
 相沢華蓮は母親の百合子に辟易していた。
「もうホント勘弁してほしいよ」
 斜陽差し込む教室の窓際。三者面談の後のことだ。
「自分の本の中じゃあ女性はこうでなきゃならない、みたいな決めつけは敵だとか言ってるくせにさ、自分の娘に関しては「自分の娘像」をハッキリ押し付けてくんのよね」
 窓の傍に立つその茶髪の女性に茶色い光線が容赦なく突き刺さり、髪の色を無かったことにしている。
 しかめ面が似合う女は嫌いではない。ただしこの年齢でその特性を身に着けてしまっていることにどこか悲愴を感じてしまう。恐ろしいバイアスがかけられて育ったに違いない。
「初めて聞いたんだけど、カレンのそんな話」
 誰のでもない席の椅子に勝手に座っている美琴ちゃんが少し不満そうにツッコんだ。大人二人は適当な机の上に勝手に腰かけていた。行儀は全然良くない。
「そりゃあそうよ。だって友達との会話の中に登場させたくないもの。あんな母親なんか。別に嫌いってわけじゃないけどさあ……」
 もっとしかめ面になって、言葉を濁す華蓮ちゃん。
 一応女手一つで育ててもらったことに感謝している故に、ハッキリと嫌いとは言いたくない。そんな葛藤が読み取れた。
「正直うざい?」
 これは美琴ちゃんが訊いてあげた。
 華蓮ちゃんは目を細めて小刻みに頷いた。
「あの人が思う「理想の娘像」って、多分私の「嫌いな娘像」と大体かぶるんだよね」
 その悩みにぶちあたっている女の子は結構いるから、君は一人じゃないと言ってあげたかった。
「お行儀の良い?」
「そうそう」
「嘘を吐かない?」
「そうそう」
「賢い?」
 美琴ちゃんが次々と指を折っていく。
「そうそう。だからってこんな頭のいい学校に娘入れんなよ、マジで。青春どっか行っちゃったよ」
 きっとあの賢そうな母親に相当スパルタ的な家庭学習をさせられてきたのだろう。そういや、塾講やってたって聞いたな。
「あと何あるかなあ。理想の娘像」
「品」
 ひん。
 華蓮ちゃんは蔑むようにそう言ったのだ。
「でもカレン、あんた、全然品が無いじゃないの」
 いつも通りの辛辣な美琴ちゃん。
「でしょう? 私にそんなもん求められても困るっての。大体、私、上品ぶってる奴ら全員嫌いだし。嘘吐いてますわよって顔に書いて生きてるようなもんじゃん。私は品が無くても正しいことやる方が好き」
 美琴ちゃんといい、この子といい、最近の若い子のなんと優秀なことか。大人世代があまりにも不甲斐ないやつばかりだからだろうか。それを楽に生きるための見本にせず、技を盗むような真似もせず、ちゃんと反面教師にして、かつ彼らを頼ることなく自力で生きていこうという意志を持って育った。そうに違いない。
「カレンちゃんのお母さまはじゃあ、同じように嘘吐いているってこと?」
 これは私が訊いてみた。
「もう、大嘘吐き!」
 いーの形に口を変形させてこれを言ってきた。
「アレはアレで理想の自分像になりたいのよ! 世間からもそう思われるのが気持ちいいから、ずっと仮面かぶっていい気になってんのよ!」
「何でそう思うの?」
 美琴ちゃんが訊いた。
「え? だって私知ってるから。本当のお母さん。不完全な女性としてのお母さん。てかもう、私しか知らないんじゃないかな。あの人と一緒に暮らしてたの私だけだし」
「ふーん。どの辺が嘘だと思う?」
「全部」
「はやっ」
「私が中学入ったあたりからさ、あの人本書き始めて、それがものすごく売れちゃって、世間からの受けもよくて、お金もがっぽり入ってきたもんだから生活にも余裕が出てきて、それが全部言いたいこと言うエネルギーに変換されちゃうのよ。今まで辛かったもんだからそれを取り返そうとしてんのよ。ただの復讐心のくせに使命感感じちゃってさ。女性代表みたいな顔するのが板についてやんの。お前はもっと心の狭い卑しい女だっただろうが」
 娘がこんなにつらくあたるのは、成功し変わった母親が娘の生活態度にまで干渉してきたからだろう。これがただ成功し変わっただけならば、これまでの苦労を知っている娘からすれば母親が報われる姿はきっと喜ばしいことだったはず。しかし自分の領域にまで踏み込んでくるとなると話は別だ。その瞬間成功し変わった母親は、虚栄の塊に成り果てる。
「てことは、学校側とも相当揉めたの?」
「だからモンペだって言ってんの。私が小学校の頃からモンペ。完全に誰がどう見ても私が悪い場合でも差別だ贔屓だって喚き散らしてさ。視野狭窄のレベルじゃないよ。思い込みの勘違いの被害妄想の自己洗脳。危険思想よあんなの」
 めちゃくちゃ言うな、カレンちゃん。
「それ、完全にカレンが悪かったことなの?」
「うん。だって図工の時間にクラスのやつが作った紙粘土の作品の腕ちぎって捨てたんだもん。クラス委員みたいなことやってたやつの。ちなみにその子には何の落ち度もなかったわ。完全なる悪女Kの憂さ晴らし」
 なるほど、それは完全にK(カレン)が悪い。そしてそして、似たような記憶がK(カンナ)にもあるのはどうしてだろう。
「暴走したあの人は、私が罪を認めて、ゴメンナサイを言ってもなお止まらないで暴れ続けたのよ」
 どこかで聞いた話だと思ったら、これは音々がモンペをモチーフに想像していた怪物の生態そのものではないか。止まることなく暴れ続けるという野蛮な怪物。
「それ以外にも、とにかくなんかあるたびに学校に電話入れたり、直接殴り込みにいったり、マジで面倒くさかった。全部私がやったって白状してんのに全然矛を収めてくれないのよ。私には真相が分かってるわって顔で、被害者面して戦い続けるの。もう完全なる被害妄想の塊。母子家庭の自分たちは可哀相って思い込んで、他は全部「敵」。自分らの身を守る為とかいって何の罪もない「敵」と思われる人たちに噛みついて、身勝手な正義を誇ってんのよ。バカみたい。痴漢冤罪と同レべだよあんなの」
 私はまたしても音々が思い描いていた例の怪物を思い出した。鋭い牙と角を生やし、口から火を吹き、言語を解せず、行く手を阻む者は全て破壊する。大暴れの最中に娘を踏み潰してしまったとしても、それさえも誰かのせいにして暴れ続けるとのこと。
 こうして踏み潰されてしまった娘が実際に訴え出てきたのだから、音々の想像の再現率はやはり伊達じゃない。そこは天才売れっ子作家としての才覚だろうか。
 あとは理性を植え付ける伝説の魔法がどこかにあれば面白いのだが……。
 この後も母親の暴走譚を嬉々として語るカレンちゃんへの取材は続いた。
相沢氏の著書がヒットし始めた時分、すなわち華蓮ちゃんが中学生だった頃が一番暴走がひどかったらしい。ただのモンペとは違い、人気作家として見えざる権力のようなものを身に纏っていた相沢氏に異を唱える教師はいなかったとのこと。モンペの要求がまかり通る環境をそのモンペの娘たる華蓮ちゃんは一言こう評した。
「不快だった」
 この少女はきっと止めてもらいたいのだ。社会正義イコール母親という今の世の中の図式を。娘にとってはペテン師の養成学校に母親を取られたような感覚か。そこから取り戻した母親が結局は心の狭い卑しい女でしかなかったとしても、自分にとっての母親像がそれならば娘にとって取り戻す価値があるというもの。
 だがおそらく、彼女のこの殊勝さは動機全体の一割未満というところで、本当は悪戯心と出来心と復讐心がその九割を占めているのだろう。なぜならこの少女、おそらくは思いつきを深く考えずに実行してそれを楽しむことのできるタイプだろうからだ。肝が据わっていて、それでいて投げやり。
「でもいいの? モンペの取材に来たって知ればお母さん激怒するんじゃない?」
 すると華蓮ちゃんは、意地の悪そうな笑みをおそらくわざと浮かべた。
「いいのよ。有名になってもう三年くらい経つし。そろそろ身の程を思い知った方がいい頃だわ」
「激怒されるのはあなたではなく、お姉ちゃんたちなんですけど」
「それが取材料ね」
 私は窓の外を興味津々で見つめている女に一応訊いてみた。
「あんた、なんか訊いておきたいことないの? 怒られるのあんたなんだから」
 すると音々は私の方に顔を向けてこう言ってきた。
「何も怒られるようなことをしていないので、問題はありません」
 この音々の発言で二人の少女が大笑いしていた。
 この後、実際に取材させてもらう日時を確認し合い解散した。どうやら相沢氏が確実に家にいる日があるらしい。華蓮ちゃんは家に男を連れ込む日などと冗談めかしていたのだが、まさかこういうことだとは――。
 インターホンを押して待っていると、予期せぬ人物が出迎えをした。私は完全に虚を突かれてしまった。
「え? カンナと美琴!? 何してんの!?」
「え? なんでお兄ちゃんが?」
 知己のカエルの登場である。ここで私は察した。ということは、今まさに対談中の野郎というのは……。
 リビングに入っていくと、やはりあの無味無臭の男が相沢氏と椅子を並べていた。そして驚愕の表情。そりゃそうか。
 私より先にリビングに入っていった音々が、すでに相沢氏を見下ろす格好で彼女に何かを言っていた。そしてそれを聞いた相沢氏は瞬く間に石と化した。何を言ったのかは大体想像がつくので気にしない。
「ねえ、何これ? どういうこと?」
 後ろからカエルも入り込んできた。
「一体何なんだ、君らは」
 カメラマンが不審げな目で私たちを睨みつけてきた。
「スタッフの皆さん、ちょっと緊急事態ですのでこちらへ」
 華蓮ちゃんが娘の立場を利用して場を仕切る。何故だか堂に入っている。
「学校のことで急用入っちゃって。すぐ済みますので、あちらの部屋で待機していてください」
 学校という効果的な紋所を使用するところが実に狡賢いではないか。これを言っときゃ大人が黙る禁断の呪文「学校」。これぞ子供たちの伝家の宝刀。向こうのスタッフたちも言われるがまま待機所へと押し込められるのだった。
「あんた無茶苦茶するわね」
 戻ってきた友人に美琴ちゃんがツッコむ。
「どうせ無茶をするなら法に問われない年齢のうちにしてやろうと思って」
 同感である。
 ふとドアのところを見ると、弦吾君だけは残っていた。
「あんたも引っ込んでれば?」
「においでわかるのさ。事情は知らんが、これから面白いものが見れると」
 同感である。
 ふと気付くと部屋中の空気が張り詰めて震えていた。 
 その中で、一人の美しい年配の女性がみるみるうちにおどろおどろしい怪物へと変貌を遂げていた。
 牙が生え、角が生え、爪が伸び、口は裂け、目は釣り上がり、人であった時の面影は一つ残らず消失していた。これぞ音々が語った想像上のモンスターペアレンツの姿に相違ない。娘の話の中で合致しただけではなく、現実でもやはり合致していたのだ。もしこれでこの怪物が火を吹いたのならもう確定である。音々の想像は現実となり、止めることの叶わない恐怖のモンスターがここに誕生することになる。
 理性を植え付ける伝説の魔法とやらは全然見つかっていないのだが、結末や如何に。
 いよいよ石化の解けた怒髪天の怪物がまずしたことは、怒りの対象となっている者と目線の高さを合わせること。見下されているのが我慢ならないのだろう。立ち上がり、肩を怒らせて吠えた。
「あなた、一体どういうつもりなの? 人を唐突にモンスターペアレンツ呼ばわりするなんて! 無礼にもほどがあります! それに、火を吹くだのなんだのと人をバカにして! 私を貶め、やり込めてやろうと考えている不穏な輩がいることは知っていますが、あなたもそういう方々の一員なのですね! 娘をたぶらかして!」
 母親はそう吐き捨てた。火の粉が四方八方に舞う。彼女の口から業火が吹き上がっているのが間違いなく確認できたので、いよいよモンペ確定ということになる。私は私で「たぶらかして」なんて久しぶりに聞いたなあと感慨にふけってもいた。
 音々が何を言うのか期待して待っていると、今度は石化の解けた旦那が慌てて立ち上がり割って入っていった。
「ちょ、待ってください! 待って!」
 本気で混乱しているアイツを眺めるのもまた面白い。
「まあ、夢路さん。あなたにはご迷惑をかけるわ。こんな無礼な方々が押しかけてくるなんて思いもよらなくて……」
 おや、と思った。
 響が介入してきた一瞬、怪物の牙も角も引っ込んだのだ。
「でも、安心してください夢路さん、すぐに帰らせますので!」
 このセリフは音々に向かって吐き捨てた。この時はすでに牙も角もにょきっと生え出ていた。
「あら響さん。ご苦労様です」
 相沢氏の発言をガン無視した音々が旦那に向かってペコリと頭を下げた。
 キョトンとする相沢氏と、どう反応すればよいのか分からないバカ旦那。にしてもあの男、やけに焦ってやがる。
「今日の対談は浮気みたいなものだって、ずっと発破かけてきたからな。あの反応はそのせいさ」
 義弟の嬉しそうな悪巧みが聞こえてきた。
「アホらし。お姉ちゃんに浮気の概念なんて無いわよ。本当に浮気の最中だったとしてもお姉ちゃんにはそれが分からないんだから、あんな焦る必要なんかないのに」
 義妹が追撃ともフォローともとれる考察を披露する。
 だが必要以上に焦っている男がああして現実にいるのだから、人間など冷静な考察通りにはいかない存在なのだろう。あの男は見事にカエルの術中にはまってしまったのだ。ベストセラー作家だろうが社会学者だろうが女性問題に関しては中坊以下の解決能力しか持ち合わせていない男があの夢路響なのだ。
 そして音々はというと、そんなことで勝手に慌てふためいている旦那にでも遠慮なしにいつものペースで話しかけようとしていた。妹の言う通り浮気の概念など一切無い妻なのだろう。
「響さんもお仕事でこちらに?」
「ん? うん、そう! 仕事! お仕事です、これは!」
「あら、では響さんもモンスターペアレンツの話をご本人から直接聞くために?」
 音々による絶妙の勘違い。相沢氏の表情の変化が実に面白い。
「いや、それは別に……」
「夢路さん!」
 恐怖で身構える響。
「そこの女性は、夢路さんのお知り合いですか?」
 殺気立った目でそれを確認する相沢氏。
「いやあ、なんというか、その……」
「はい、お知り合いですよ」
 音々からの機械的な事実確認。嫌味などではなく、音々による他意のない事実確認だ。
 それに後押しされる形でようやっと旦那が答える。
「そうですね。知り合いといえば知り合いです」
 頭を掻きながらの作り笑い。下手くそな詐欺師かお前は。
「あら、社会学者さんは顔が広いのですね」
 そう言って響を立てながらも、モンスターが音々を上から下へと眺めまわす。それも敵意を満面に浮かべながら。そんな顔してジロジロ見ても絶世の美女がスキャンされるだけだろうに。いや、むしろそれが憎いのか?
 モンスターのこの確認作業はどういう意図を持った反応なのだと私は思案した。
 思案している間に、義弟や義妹からの辛辣なコメントが私の耳に飛び込んでくる。
「あのオバサン、きっと姉ちゃんが兄貴の知人女性ってだけで対抗意識燃やしちゃってるんだろうぜ」
「でもお姉ちゃん闘争の概念も無いから」
 色々と概念の足りていない女はただじいっと怪物の行動を見守っていた。その無垢な目のまま器用に人を怒らせ傷付けるのがこの女の本領なのだ。
「響さんの取材はまだ続くのですか?」
 飽きたのだろうか、音々がしどろもどろの旦那に訊いた。旦那の葛藤もそこのオバサンの怒りもどうでもよく、とにかく自分の仕事を優先させたいというなんとも社会性の無いこの生き様。集団生活が基本の縄文時代では生きてはいけないだろう。
「え? 取材? いやその、どうだろう」
 チラリと視線を移し、この優柔不断の男は対談相手にその確認を投げた。
「取材ではなく対談です!」
 日本の女性代表がハキハキと言い放った。すでに音々を不倶戴天の敵とみなしているらしい。
「対談? なるほど、対談するなら両者で考え方に違いが出る方がいいですからね。響さんは生徒の保護者としてまともな方です。モンスターペアレントでは全然ないですからね。モンスターペアレントと対談させるとしたら響さんのようなまともな方がいいでしょう」
 早速だが私は気合を入れて笑いを堪えることになった。音々の持つ爆薬はその火薬量だけが特徴ではない。火の気が無くとも一瞬で爆発してしまうのが最大のメリットでありデメリットなのだ。私だけだろうか、唐突に目の前が焼け野原になっていくこの澄み渡るような感覚が病みつきになってしまうのは。
「ですから! あなたは先ほどから、どうしてわたくしをモンスターペアレント呼ばわりなさるのですか! 訂正して謝罪してください!」
 こちらの爆薬にはとっくに火が点いていたようだ。化け物が目を剥いて音々に詰め寄る。
「まあまあ、相沢先生、落ち着いて下さい、落ち着いて……」
 落ち着きのない響が相沢氏の腕をやんわりと掴み彼女を制した。脅威が妻に近づかないようにしたのだろう。可愛い奥さんが灰になってしまってはたまらない。
「夢路さん、ですが……」
「冷静になりましょう、冷静に」
 響がこう言うと、また彼女の持ち味たる牙も角も引っ込んでしまうのだった。
 私はこの時、恐るべき可能性に思い至った。
 もしやこれは、古文書に記された伝説の魔法……!
「先生がモンスターペアレントでないとなると、一体どんなテーマで響さんと対談をしたというのですか?」
 茶番など気にも留めない音々からの痛烈な一撃。他に何かありますかと言わんばかりのその態度。爽快である。
 そしてプライドに障ったのか、響のお陰で一旦は怒りが納まったはずの相沢氏が響の手を振り払い怒声を上げた。
「なんて無礼な人! 夢路さんとは、わたくしの著書について大変有意義な意見交換をさせていただいていたのです!」
 火の粉が舞う。短気な人間のことを「瞬間湯沸かし器」と呼ぶようだが、昔の人間はよく言ったものだ。
「著書とはどのようなものでしょう?」
「私のもとに取材に来たわりにはご存じないのですね! こう見えてわたくし、『未来への不安』という本を出しておりまして、本日はそれに関する対談ということで夢路さんにこうしてお越しいただいたのです!」
「ああ、あの本の作者でしたか」
 音々のことだ。本気で今それを思い出したのだろう。『未来への不安』の作者の家に取材に来ているという認識は無かったのだ。飽くまでこれはモンペの取材。我がままで身勝手な保護者の家に取材に来たのだと彼女は割り切っていたのだ。
「私も拝読させていただきました」
「あら。知ってらしたのですか。お読みになっていただけたのであれば、それはとても光栄なことです」
 全然光栄とは思っていない表情で何を仰るか。牙も角も残したままで。
「先生は女性全体がお嫌いなのですか?」
「ん?」
 この時私は旦那がすぐ横で石になるのを見逃さなかった。
「嫌い? 女性全体を?」
 本当に訳が分からないという顔を相沢先生は見せた。
「違うのですか? その割には女性に対する誹謗中傷がとてもお上手で。世にあまねく女性という存在を見事な太刀筋で切っていました」
本当に訳が分からない感想を聞いた顔になる相沢氏。
「あなたは一体、何を仰っているの?」
「ですから、『未来への』ナントカを読んだ感想です。女性の悪癖を皮肉ってこきおろした風刺と笑いの文学ですよね?」
 活火山からマグマが上がってくる気配をみなが感じた。
 音々は私を裏切ることを知らない。毎度期待通りの働きをしてくれる。私は顔を俯けてお腹だけで笑っていた。
「修羅場の幕開けだな」
「つーか、にいさん石になっちゃって。何やってんだか。あんたが止めろあんたが」
 弦吾君や美琴ちゃんも口々に囃し立てる。
「なんですかそのひどい物言いはっ!」
 天地が揺れた。
「私を中傷するのがあなたの目的ですか! 本当にあくどい! 誰がそんな本書きますか! 私は真剣に、切実に、世の苦しんでいる女性の為に文字で力になろうと本を書いたのです! それをあなたは本当にひねくれたひどい解釈でバカにして! 曲解にもほどがあります! 私に対するはっきりとした悪意を感じるわ! あなたのように、真剣に女性問題を語る人間を指差して笑うような人がいるから、いつまで経っても女性の負担は減らないのです!」
 口角泡を飛ばしながら、その品のあるはずの女性は狂乱していた。その化け物じみた容貌が更なる変化を遂げて一段と化け物じみてきている。
「一体あの本のどこが女性への誹謗中傷になるというのかしら! 是非ご意見をお聞かせ願いたいわ!」
 相沢氏は挑戦的に音々を睨みつけた。怒り狂う野獣と化したこのオバサンと違って、音々はいたって冷静だった。猛る野獣を目の前に、そのキレイな小顔をただただ澄ましているのみ。私にとってはそれは芸術的な風景画に等しかった。
「と申されしても、それほど記憶に残るようなものではありませんでした。響さん、『未来への』ナントカはお持ちですか?」
 牙の伸びた口をあんぐりと開けた相沢氏の横で、響が何かに突き動かされるかのように手元に置いていた荷物の中をガサゴソとまさぐり出した。そしてそこから力任せに渦中の本を引っ張り出した。いやいや、本を取り出す前にすることがあるだろうに。妻を止めたり怪物をなだめたりはやらんでいいのか。完全に音々の勢いに押されてしまっているのだ。
「ありがとうございます」
 音々は平然とそれを受け取り、ペアペラと捲る。周囲の目を気にせず読書に没頭する姿をみなが沈黙の中見守っていた。それもまた滑稽な光景だ。
「ああ、これこれ。……女性とはその体に子を宿す機能を備えた生き物であり、それを現代社会の言葉で言い換えるとすると、社会からの長期間の離脱を余儀なくされるということにほかならない」
 音々は本文をそのまま読み上げた。
「それのどこが中傷になるのですか!」
 相沢氏が喚き、これに音々が答えた。
「女性は労働環境的にいずれ邪魔になる存在であるから社会進出するな、という趣旨の文章ではないのですか?」
 音々の極端な客観視がそう解釈したということだ。
「休職すると迷惑がかかることが分かりきっているのに、それでも平気な顔で抜けていってしまう非常に自分勝手な存在が女性であると」
 音々の罵言は続いた。
「おお。あの本を読んだ姉ちゃんの素直な感想が、そのまま俺がゾーン状態の時に考え出した反論になってやがる……」
 何かに驚愕するカエルがいるのだが、一体何のことだろう。
「兄貴は全然ダメだったが、姉ちゃんならもしかして……」
 どこか楽しそうにニヤニヤするカエル。一体何のことだろう。すごく気になる。すごく楽しそうな気配がする。
「それが曲解だと言っているのです!」
 私の目移りをよそに相沢女史はすでに叫び声を上げていた。
「わたくしは休職する女性が社会的に邪魔な存在になるとは一言も言っておりません! 邪魔になるからといって子供を生むことを否定してしまう社会は良くないと言っているのです! むしろそれをみなで支援していく社会にならねばと願っているのです!」
 あの本を読んだ普通の人間の解釈はそうだろうなと私は思った。普通はだ。
 その普通の基準も誰が決めたかよく分からん「普通」なのだが。
「でも実際邪魔ですよ?」
 食い下がる音々。これを人は無神経と呼ぶ。
「それは仕方のないことでしょう! 妊娠ですよ? 子供が生まれるのですよ? あなたはそういう経験が無いからそういうことを言ってしまえるのではなくて?」
 これもまた「普通」の感覚からすれば当然の怒りに思える。女性など社会的に邪魔であると言われて腹を立てない女性がどこにいるか。先生の怒りもご尤もだ。
 するとまた安易に口を開こうとする音々。
「先生はもしかして、算数はできない方なのですか?」
 などという突然の謎かけ。音々にとってはこれも正常な思考回路の賜物なのだろうけど、音々以外の人間にとってはさっぱり意図が分からんのだ。ただし私にとっては「普通」よりも全然こちらの展開の方がよろしい。
「は? 算数ができるか、ですって?」
 相沢氏は眼球が膨張したような表情で固まってしまった。
 近くからカエルの押し殺したような鳴き声(笑い声)が聞こえてくるのは気のせいか。とにかく音々は続けた。
「三人で仕事を回している職場、あるいは組織の中で、もし一人が抜けたら残り二人の負担がどうなるか。このくらいは理解できますよね? 小五で習う比率の問題ですよ」
 子供塾の講師のような口ぶりである。なわなわと怒りで体を震わせるオバサンを目の前にためらいなくそういうことをしてしまう「普通」ではない、いわゆるアホ。
「そんなことは百も承知です! そうなった場合の補填を職場で保障してあげなければならないと言っているのです!」
 当然こういう反論をしてくるはずだ。
 しかし企業の側にそんな余裕など無いと、現サラリーマンの私は思うのだ。不景気。スタグフレ。失われた三十年。
 それに実際、万年人員不足の職場で産休なんか取ろうものなら、強力な念の込められた後ろ指をさされてしまうに決まっている。裏も表も平穏無事にいくわけがない。
 世の中はまだ変わっていない。
 それが現実。
 それなのに女性の産休も育休も法律で保障されてしまっているところに、いまだ顕在化されていない問題が潜んでいるのだろう。
「職場で補填ですか。ということは、女性を雇う場合は補填人員も同時に雇わないといけない計算になりますね」
 音々は平然とこれを言った。
「え? ええ。そうですね。それが時代に即した企業側の努力というものですから……」
 相沢氏は音々の発言の意味をすぐには理解できなかったのだろう。返答を口に出した後でそれが正しいのかどうかを判断している。分かりやすい混迷の顔をしているのだ。
「そうですか。では最初から男性を雇った方が効率的ですね。必要な分だけの人件費で済みますから」
 音々の筋の通った意見が炸裂した。
「そ、それは違います! あなたはなんということを! それは時代に逆行する考え方です! 女性が安心して働ける環境を社会全体で協力して作り上げていかなければ……」
「しかしすべて先生が仰っていたことですよ。女性が安心して休職するためにも企業側が人員を補填する態勢を整えておくべきだと」
「それは……」
「そのような余裕のない企業は当然、男性のみを採用すればいいわけです。強制力が無い限り、今の時代はどこの企業もそうすることでしょう。それとも無理をしてでも、負担になったとしても、赤字に目をつむってでも、女性を絶対に雇えという法律を作った方がよろしいということでしょうか? そういった強制的な女性優遇社会を先生は目指してらっしゃるのですよね?」
「わ、わたくしは別にそのような強硬なことをしたいとは……」
 見るからに焦り出す相沢氏。
 女性を雇用する際の補填人員など、女性と同数ではないにしろ、正規雇用ではないにしろ、それが面倒なのは変わりない。
 蟻の習性を思い出す。
 蟻は働き者のイメージがあるが、実は彼らの三割ほどは巣の周りをウロウロしているだけで仕事をしない怠け者なのだとか。最近の研究でこれらは巣を維持するのに必要な労働力が事故や何かで失われた際に、すぐさま同じ数の労働力、つまり働き蟻にとって代わることのできる補填人員であることが分かってきたのだ。
 無駄を嫌う現行社会においてそんな怠け者を雇うことなど許されるものではない。それこそ企業側も雇われた側も内部からの糾弾の対象となるであろう。
「無理をして女性と補填人員の両方を雇うことを強制はしないというのですか? それでも女性の雇用も休職も保障してくれと? それならばやはり先生は算数ができていませんよ。いずれ休職してしまう女性がマイナス一です。残りは二しかありません。しかし本来は四か五くらい必要です。それなのにプラス一の補填すらありません。二はいずれ死にます。こんなことになるくらいなら初めから男性を雇えばよいという社会を先生は否定なさってらっしゃるんですよね? しかし強制的に女性と補填人員を雇うようなこともしたくないと。いったい、先生の頭の中に女性の居場所はどこにあるのですか?」
 音々の刀が真っ直ぐに振り下ろされる。
 完全に面食らってしまった先生は相手に今にも噛みつきそうな顔のまま、そのまま、後に続く反論は出てこなかった。
 相手の中に無理やり矛盾を発生させて、それを爆発させて相手を殺してしまう。これを計算なしでやれてしまう。異世界のモンスターである。
 隣で弟が小さくガッツポーズしている。今まさに何らかの鬱憤が晴れたようだ。
 女性の産休と育休によるこの職場離脱の問題に関しては、結局のところ相沢女史も、彼女と意見を同じにする全国の女性も、女性が都合よく生きていける社会を想定した場合の主張をしているだけなのだろう。その都合のよい社会の中で迷惑を被る人たちの意見を見事に無視した主張でしかないのだ。それでもかわいそうな女性が救われるならお前たちの方が我慢すべきだろうと。
 しかしながら、我慢するかどうかは我慢する主体の意志で決めるしかないこと。それは女性の側が決めることでは永遠にないという制約を無視しているのだ。いや、見なかったことにしているのか。法律で決められているのだから我慢せよ、と投げやりに言っているような気もする。これはけっこう危険な考え方なのかもしれない。休職する側、される側、両者ともに穏当な結末だけが残されることになるとは到底思えない。どこかで事件化し、血も流され、社会問題にまで発展する可能性のある事案だと私は思っている。相沢氏の主張はきっと人間に感情というものが存在しない場合に成立する考え方なのだろう。
 そんなことで丸く収まる人間など、人間社会など、どこにもないですよと、音々の人間に対する客観視は訴えているのだろう。それなら音々の言う通りである。少なくとも日本はまだそんな従順な国にはなっていない。体制も整っていない。キャッチャーはまだミットを用意していない。それなのに女性の権利向上という剛速球が投げ込まれる。当然キャッチャーは大怪我をする。外からその様子を見ていた音々は、特に深く考えずに怪我をするからやめた方が良いと言った。ただそれだけ。そしてそれにまともな反論ができなったピッチャー、相沢先生。
 彼女の負けである。

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