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破壊の女神 11

 11

「しかし先生も不思議な方ですね。これほどまでに著書の中で女性の身勝手な面を浮き彫りにしてらっしゃるのに、口では逆のことを言う。何かお心変わりがあったのでしょうか」
 別に何ともない人間にカウンセリングのようなことをする音々。
「もしや、娘さんに説教でもされたのですか。お見受けするに娘さんは先生以上にしっかりした方でしたので」
 照れるぜ、と娘さん。
 音々の悪意の無い本音の急襲を受け、ようやく先生が自分の沸点を思い出した。
「あなたって人は! あなたこそ女性の敵です! あなたのような危険極まりない思想など排除すべきです!」
 元気を失っていた女が怒りで自分を取り戻したのだ。何をしても止まらずに全て壊し尽くすまで暴れ続ける怪物像がその姿と重なる。
「そうですね、続いてこれなんかどうですか?」
 烈火のごとき憤怒を見事に無視し、本を捲る音々。怒りを表明する人間というのは不思議なもので、相手がそれに対し反抗でも恭順でも消沈でもなんでもいいので、とにかく自分の怒りによる変化が生じていてほしいものなのだ。音々にはそれが一切ないものだから、怒った側がその強く踏み出した一歩の次の足のやり場に困ってしまうという、つんのめり現象が多々起きるのだ。そしてそれが今の相沢氏だ。
「シングルマザーの項です。ここに先生は大きくページを割いてらっしゃる。自業自得の最たる存在の生態を長々と説明されております。著書でこんなにも批判されてらっしゃるのに、それでも先生はそうではないと仰るのですか?」
「言うまでもありません! 私はこの国に溢れかえっているシングルマザーがいかなる艱難辛苦を味わっているのか、それをこの国に生きる全ての人々に知ってほしいと思い大きく取り扱ったのです! あなたのような悪意のある見識でシングルマザーを侮辱することは私が許しません!」
 相沢氏は音々の言い分にはっきりと抗議を表明した。
「普通のマザーはダメなんですね」
 音々からの、死角からの一言。
「は?」
「何の落ち度もない普通のマザーです。邪魔ですか? それは」
「なにを……、言ってらっしゃるの?」
「先生、もっとしっかりしてください。娘さんを見習った方が良いですよ。どんなことにも動じず、柔軟な思考をお持ちです。全然先生に似てませんね」
 文字通り言葉を失った相沢氏。
 華蓮ちゃんは「いやあそれほどでもありますよ」と照れ笑いを浮かべていた。苦笑いではないところが彼女の持ち味。
「普通の、マザー……?」
「ええ。シングルマザー優遇の社会になれば普通のマザーが割を食うのは当然のはずですが、それが分かりませんか? 待機児童にしても就職にしても、シングル保護だとかなんだとか言ってそっちばかり採用していると普通のマザーは常に後回しではないですか」
 音々が自分の脳内を説明した。
「普通に生き、普通に結婚し、夫君との関係も良好で子宝にも恵まれた何の落ち度もない女性が泣きを見る、あるいはそういう割合が高くなる社会を先生は望んでらっしゃるのですか?」
 音々の圧倒的客観視がここでも炸裂した。
 痛快の極みである。カエルが私の隣でその手があったかと感涙している。でも予想は大きく外れたとかなんとか言っている。
 シングルマザーの味方をする人たちは、およそシングルマザーのことしか考えない。シングルマザーの都合だけで改善を要求してしまい、それにより波及してしまう悪影響をあまり考えない傾向にある。しかし音々の言う何の落ち度もない普通のマザーはなぜその悪影響を被らねばならぬのか、それを説明せよと音々は言いたいのだろう。
 死角からの右ストレートを食らい顔面がひしゃげた相沢氏は、冷や汗を感じさせるような語気でへどもどと反論した。
「それは、別に、そういうことを言っているわけでは……。だからといって不遇の女性たちを放ってはおけないでしょう!」
「自業自得です。普通のマザーを苦しめる道理には至りませんよ」
「何てことを! あなたは最低です! 何て浅はかな!」
 ぱくぱくと呼吸しながら音々を指差す先生。普通のマザーを持ち出された時点ですでに彼女は敗北を喫しているのだ。
「シングルマザー以外の観点から見ると、シングルマザーはやはり邪魔な存在になるのですね」
「あなたは……!」
 絶句し、息を詰まらせる相沢氏。だが音々の弾倉にはまだまだ銃弾が残されている。全てを破壊し尽くすまで止まらないはずの怪物以上に音々は止まらないのだから。
 お前こそ牙も角も火を吹く口も、止まることの知らないイカれた脳味噌も全て持ち合わせている真のモンスターではないか。
 私は悟った。モンスターを止める方法は理性を植え付ける伝説の魔法ともう一つあったのだ。それはモンスター以上のモンスターに食い殺させること。
「いない方がいいでしょう、あんなもの」
 シングルマザーに対するいっそ残酷なまでの物言いだった。
「あなたは……、本気でそう仰るのですね?」
 相沢氏は震える声でそれを質した。
「もちろん本気です。シングルマザーなどいない方が世のためです。先生はそのことを御存じないのですか?」
 ここでも音々は冷酷なまでにそれを告げるのだった。
「人でなし」
 どこか厳かに相沢氏が発した。
「あなたは人でなしです。許しがたいクズです。もうあなたの声など聴きたくありません」
 それは怒りですらない相沢氏の感情だった。顔面蒼白になっている。
「相沢先生」
 ここでまた存在感を消していた夫が割り込んできた。さすがに愛する妻を人でなしと呼ばれて黙ってはいられなくなったか。
 この響の呼び声に相沢氏が素早く反応した。
「夢路さん。世の中にはこういうおかしな考えを持った異常者がいるのです。何を言っても聞きやしない。自分の凝り固まった思想に囚われ、周囲に迷惑をかける愚昧な存在が」
 瞳の中にメラメラと怒りの火を燃やしながら響にそれを訴える相沢氏だった。私は誰のことなのだろうと考えていた。それと、この人の中ではどうやら響は完全に自分の側の人間ということになっているらしい。
「いいえ、相沢先生。彼女はきっとこう言いたいんですよ。シングルマザーなど初めからいない方がいい」
「夢路さん?」
 裏切りに遭ったような驚愕の色を浮かべて、相沢氏は響の顔を覗きこんだ。
「つまり、シングルマザーありきで事を考える世の中を彼女は想定していないんです。そもそも女性にとってそんなポジションなど無い方が不幸が減るだろうという意識です。僕らにはちょっと無い視点ですよね」
 一億時間に一分間だけ頼りがいのある男に変身する男の、その一分間が今やってきたようだ。
「そうですよね? 音々さん」
「そう仰ったつもりでしたが、一体他にどのように聞こえるというのでしょうか」
 ポカンとする相沢氏。夫婦の間だけで理解があったようだ。
 音々が続けた。
「シングルマザーなどというものが大半幸福に見えないというのは、誰から見ても均等な事実であると思います。私もそう思います。ならば初めからそんなものにならなければよいと思うのは必定ではないでしょうか。それとも、もしかして世の女性の方々は、幸福追求の選択肢の一つとしてシングルマザーを目指しているとでもいうのですか? 仕方なくそうなった人がほとんどだと私は思っていたのですが」
 それが音々から見た「シングルマザー」だったわけだ。思わずなるほどと納得したくなる。
 アレは不幸に見えるので、避けて通ればよい。音々以外にこの当たり前の視点を有している人間がこの国にはいない。少なくとも姿が見えない。
「音々さんは、シングルマザーの増加傾向やその存在を社会がすでに認めてしまっていて、それを前提に対策を講じていること自体に疑問を持っているわけですね」
「だって、いない方がいいじゃないですか。本人は不幸なのだし子供にとっては良くない環境であるし、社会にとっては邪魔だし迷惑です。世のシングルマザーたちがそのことに気付きながらわざとやっているとしたら、それはただの社会悪です」
「社会悪……!」
 相沢氏が驚きの声を上げた。そうか。この人もまたシングルマザーだった。
「だって」
「だって」
 兄妹が同時に姉のその言葉遣いを気にしていた。
「お姉ちゃん子供になってるね」
 旦那の前で、ということだろう。美琴ちゃん、やけに嬉しそうじゃないか。
「音々さんはきっと、変わらなければいけないのは支援の仕組みや法律や国民全体の意識といった社会の側の何かではなくて、これに関してもやはり女性の意識の方だと言いたいんですよ。それは先ほどからずっと一貫している音々さんの主張のように思えます。そうですよね?」
 旦那が妻に問いかける。
「はい。女性がみな完全なる聖人君子で聖母で正義というのであるならば、社会全体が彼女たちに合わせて変化していくのもいいでしょう。ですが絶対にそうではありません。たくさんの至らぬところを持った人間のことです。社会の側に十割原因があって女性が不幸になっているのならそれは変えなければいけませんが、それも絶対にそうではありません。自分たちの意識を変えるだけで済むかもしれない小さな問題だというのに、何故自分たちが変わろうとするのを避けるのかがよく分かりません」
 いつものことながら、何でもないような顔で核心に迫る音々。たしかにそういった意味では音々の主張は一貫している。
 これはこの国全体でそういう傾向があるのかもしれない。女性の意識が変わらないうちは絶対に解決できない問題に際し、何故か社会の側を俎上にあげてしまっていることが多いのだ。相沢氏を筆頭に。
「シングルマザーの問題も同じく女性側の意識の問題だということですよね?」
 水を得た旦那が音々に確認する。
「そうです。貧困に喘いでいるシングルマザーをどうにかするのではなく、貧困に喘ぐことになるであろうシングルマザー候補をこれ以上増やさないような対策を講じるべきであり、その為に必要なのは社会の仕組みを変えることではなく、シングルマザー候補となる低年齢女性の意識の方を変えるべきだということです。元栓をいじるか小手先をいじるかの問題で、この国は何故か小手先の方ばかりいじくってきたのです。結局のところ何も変えられないそれをです。変えても無駄な小手先を変えることで何故か女性の側も納得してきたのです。いえ、それとも元栓に目を向けられることを避けているのでしょうか……」
 音々にこう坦々と指摘されると、ものすごく当たり前のことを聞かされている気になるのは私だけではあるまい。
 音々は本当に当たり前のことしか言っていないのだ。
 それでもその「当然」はこれまで誰も持ち得なかった視点であり、指摘のはずなのだ。にもかかわらずこうして既視感を抱いてしまうほどに「当然」の帰結と感じてしまうのは、そうはなっていない現状がいかに不健康で歪んだ社会なのかを自然と体感してしまっているからなのだろう。
「音々さんの主張を補足するとこういうことになるのだろうね」
 乗りに乗っている旦那が妻の秘技を踏み台にしてきた。
「音々さんの言う元栓というのは無論女性の意識そのものであり、シングルマザーになりがちな女性の意識というものはある程度統計が取れるものでもある。結婚相手のことをよく知りもせず、結婚にこぎつけられるならそれでいいからと安易に選んでしまう。あるいは焦燥感に駆られ、年齢に追われ、情愛に流され、状況に迫られ、つまりは生き急いでこれを選んでしまう。これらの浅薄な意識の方をまずは改善すべきではないのかと、音々さんは言いたいのでしょう」
「はい。女性は社会の側から生き急がされる存在であると相沢先生は主張しておられますが、気にしなければ済む問題に強制も強要もありません。それを気にしない子供を男女ともに醸成する教育の改変の方が重要であり、支援の拡充を図る法整備などという事後の対策に傾注しても何も変えられません。シングルマザーが今後も発生することを前提とした終わりなき愚策であると私は思うのです。資金が湯水のごとく延々と投入され、割を食う無辜の人が延々と発生し続ける。まさに愚策です。元々そんな厄介な存在を発生させなければ誰も不幸にならないと思うのですが、何故この国は小手先をいじることばかりしたがるのでしょうか。まさか、そこに何か私の知らない旨味があるのでは……」
 無い。無いって。無いですよね、政治家の皆さん。それと、いじられると己の愚かさに気付かれる元栓のみなさん。
 それにしても、シングルマザーなど不幸であるので存在しない方がましであるというこの小学生でも分かる理屈。音々だけが持ち前の単純無比な視点でそれを見切っていたのだ。
 一方、相沢氏はシングルマザーの存在を許容した上でそれを保護すべきだと主張している立場だ。
 無論、音々の言い分通りに女性の側にほとんど原因がある、ということはない。行政の政策や時代背景、男性側の意識の無さ…、原因の半分以上はきっとそんなところにあるのだろう。それでも女性の側にも何か原因があるのではないかという程度のこと。
 とはいえ音々の暴論は相沢氏のような女性崇拝の権化の、そのガッチガチに凝り固まった意識にメスを入れるくらいの効果ならあるのだ。
「相沢先生の主張には明らかな見落としがあります」
 段々と活力を取り戻してきた響が今度は相沢氏に向かって言う。
 愛しの夢路さんに何かを指摘された相沢氏はまたしても信じられないようなものを見た目をしているのだが。
「見落とし……?」
「ええ。先生の著書ではシングルマザーはみな苦しんでいるという論調が一貫してあります。少なからず不幸になっているので助けてくれという訴えも一貫しています。もし本当にご自身にもシングルマザーとして苦しんだ経験があり、それをよりよい社会の為に生かそうとするのであれば、そもそもそんなものにならないように気を付けるべきという訴えの方が優先されるはずではないでしょうか。なのに先生は女性全体がそういう受難の存在となることを許容した上で論じているのです」
 相沢氏を見据える響の目が血走っているように見えるのは気のせいか。
「兄貴のやつ、この機に乗じて鬱憤を晴らしにきているな」
 義弟が何かを看破する。
 どうやらあの男には相沢氏に対し面と向かって言うことができずに溜め込んでいた反論があったらしく、それを音々の攻勢に乗じ、今ここで解き放つつもりらしい。卑怯者のヘタレ野郎である。
「シングルマザーと呼ばれる存在がみな仕方のない理由で不遇な立場になっているかというと、そうではない気がします。伴侶となる男性が全員裏切る世の中でもないでしょう。何かしら女性の側にも問題があるのは確かなはずです。不景気や男性の倫理違反だけでこれほどまでに短期間でシングルマザーというものが世を席巻するはずがありません。必ず女性の側にも問題はあるはず。どうしてそりの合わない男性を選んでしまったのか。色々と知った上で結婚を決めたはずが、思っていたのと違うからと別れてしまったのはどうしてか。そもそも自分が異性と共同生活するということに性格的に向いていたのか、向いていないのなら、やはりどうして結婚してしまったのか。女性の側にだってきっとシングルマザーになった原因はあります。それなのに論じられているのは社会批判か男性批判のいずれかしかないのです。目を背けたいことでもそれが真実であるならば真っ直ぐに受け止めるべきであると、僕は社会学者としてそう思います。それこそが唯一本当の解決につながる道であると僕は信じてます。社会学者として」
 響の口はよく回った。やたらと社会学者を押してくる。私たちが来るまで社会学者として何もできなかったことが想像できる。
「兄貴の目が……」
「え? 何?」
 私はカエルが何か言うのを気にしていた。
「兄貴の目、瞳孔がガン開きで瞬きを一切していない。俺と同じだ!」
 そう。二人ともお大事に。
「女性側の意識の向上で未来の不幸を回避できるということです」
 制御装置の壊れた響はボルテージを上げて演説を続けた。
「男性側の改善にそれを委ねるのではなく、自分たちの力で幸福をつかみ取ろうという姿勢です。そしてそこに訴えかけることの方が事後の対策よりも優先されるべきだと、きっと音々さんは言っているのです。消火よりもまず防火ということです。しかし『未来への不安』にはその事前の対策に言及した記述はどこにもありません。先生は無鉄砲な女性優遇というただ一つの視点からしか語っておられない。そんなことではいけません。そんなことでは解決できるものも解決できなく……」
「いい加減にしてください!」
 相沢氏が一喝し、響が黙った。顔が青ざめて、完全に口を閉ざしている。今の一瞬で。
「夢路さん! あなたが女性に対しそんなひどいことを言う方だとは思ってもみませんでした! 正直見損ないましたよ! なんですか、まるでシングルマザーが不幸なのはみな女性の落ち度だといわんばかりのその言い草は! 夢路さんといえど、これには一切同意することはできません!」
 怒髪天のモンスター。一度殺されたはずが、怒りで彼女は復活するらしい。
 そして響からの反論はなかった。おそらく、彼はもう呼吸していない。彼の出番(ターン)はもう終わったのだ。あの情けない顔が全てを物語っている。
「あーあ。せっかく俺が考え出した意見だったのに……」
 カエルが残念な声を出した。敗北宣言である。
 この微妙な空気感を切り裂いたのは、機を窺っていたであろう娘の声だった。
「お母さん、どうせ自分のことが大事だったんでしょ」
 それはしっかりとした呆れ口調の華蓮ちゃんの声だった。お母さんがピンチの時でもどっしりと構えているしっかり者の娘さんだ。
「カレン……?」
「自分もシンママじゃん。だからシングルマザーになったらダメなんて言えなかったんでしょ。自分の人生否定することになっちゃうからね。それを避ける為にもまずはシングルマザーという存在を認めないことにはどうしようもなかったんでしょ。そりゃ、お父さんとそりが合わなかったってのもわかるし、結婚焦ったことにも同情するけど、結局お母さんの感情優先で先走っちゃって、言葉を持たなかった幼い私に断りもなくシングルマザーになるって決めちゃったってのは言い訳の通用しない罪だと思うよ。そこツッコまれると何も言えなくなるんでしょ。シングルマザーになったのは半分あんたが悪いんでしょって指摘されると何も言い返せないもんね。どうして離婚することになるような人を選んだのか。夫が浮気したわけでもないのに離婚したのはどうしてなのか。離婚すればお金にも苦労するだろうし、一人で全部背負わなくちゃいけなくなることを分かってたくせに離婚して、後になってぐだぐだ文句言ってるのはどうしてか。娘のために我慢することよりも、旦那が合わないからっていう自分の感情を大事にしまったのはどうしてか。他にもいっぱいあるよ。どれもこれも否定できないでしょ。てか今みたいに逆ギレするのが関の山でしょ。そのくせして社会にあれこれ偉そうに被害者ぶって要求するのって、みっともないって。それもさ、シングルマザーってみいんな、小さい我が子を人質にして社会に訴えかけてるんだよ? この子がカワイソウじゃありませんかって。大人たちを黙らせるそんな最低の方便使ってさ。確かにカワイソウねその子供は。だって、私はすっごく嫌だったから! ずっと!」
 痛烈に、ぐうの音も出ないやり方で母親を批判した自称カワイソウな娘。
 論旨自体は響がさっき言っていたのと何も変わらない。だが娘のこの反撃に対し、響の時とは違い、母親は反攻に出るでもなくただただ狼狽するばかりだった。
 おそらくカレンちゃんは普段からこういう機会を狙っていたのだろう。そこで飛んで火に入る我々を利用したわけだ。さすがしっかり者の娘さん。表情も実にすっきりしている。
「兄貴のときは反撃してきたはずなのにな」
 またカエルが嬉しそうに何か言った。
「娘が言うと通用するのか。いや、この世で娘しか効果が無い言葉だったのかな。それにしても兄貴は全然ダメダメだな」
 これも何故か嬉しそうに言う。
「それと、もう一つ忘れてはならない視点として、この国はどうしようもないくらいの少子社会だということがあります」
 哀れ無残な社会学者が義弟の言葉をかき消すかのように声を張り上げ、真面目ぶって弁舌しようとしてきた。
「あえて乱暴な言い方をすると、女性が不幸なことになろうがシングルマザーが急増しようが、とりあえず女性たちに子供を生んでもらわないと国そのものが成立しなくなってしまう切羽詰まった状況が厳然として存在しているということです。そんな時代に女性の側に慎重になってしまわれると国としては大いに困ってしまう。そうなってしまうと当然、いや必然、子供の数は少なくなってしまうのだから。男選びに失敗してもいい、生き急いだ選択のせいで不幸になってもいい、とにかく子供を生めという社会なのです。それだからシングルマザーというポジションを世間も国も認めてしまっている。不平等だろうがなんだろうが保障も支援も進んでいる。これではまるで国のために子供を生んでもらう生贄のようなものです。このままだと女性が安易にシングルマザーとして生きることを選んでしまえる社会にもなってしまうのです。なぜなら、どうせシングルマザーは保護され、支援される立場であると認知されてしまうからです。それだと子供の数は増えますが、生贄に供される女性もまた増えることになってしまう。しかしながらそれらの保障を全て取っ払ってしまったら、近い将来子供の数など激減してしまうかもしれません」
 響の言う通り、シングルマザー保護の風潮の根っこには常に少子化という問題が横たわっているのだろう。誰もそのことを公言しないのは、子供の数が必要だからお前らの禍福は知らんけどとにかく生め、などと言うと倫理的にアウトだから。これはひっそりと進めるしかない政策なのだ。
「なるほど。国は子供が欲しい……」
 夫のまとめに妻が何やら納得している。
「経緯はどうあれ、子供の数を確保したいからシングルマザーは優遇されているということですね。なるほどなるほど。ということは、女性などやはり子供を生むことしか価値のない道具ではないかという古くからの偏見とイコールになってしまいますね。もし女性の皆様方がこれを虚しいとも思わなくなったら、女性の権利向上とは真実何なのかと首を傾げたくなってきますね」
 出た。
 音々の最終奥義。
 相手の中に矛盾点を生み、あるいはそれに気付かせ、内側から爆発させる矛盾爆弾。
 爆炎が燃え盛る中、音々の独り言はまだ続いた。
「これは相沢先生の著書からの引用なのですが、子供を生むことは素晴らしいと、女性全体が本気で思っていた時代が連綿と続いてきたようです。昔は今以上にそう思っていたようなのです。ですので、それが可能な女性のその機能を社会も女性たちも重要視していたということです。ですが今はそれが女性たちの足枷になっていると先生は仰っています。しかし、本当にそうでしょうか? 女性として有用なポジションを確保できて、かつそれが社会にとって家族にとって最も必要不可欠なポジションとして認識されてきたのです。それはそれで女性として間違いなく幸せだったのではないでしょうか。それを女性が子供を生む道具扱いされているだのと、よく分からないことを言うようになってしまったのは女性の権利向上が声高に叫ばれるようになってからのことなのではないでしょうか。女性に自由選択の権利をとシュプレヒコールを上げているくせに、そっちの幸福を選択することを許していないのは、一体どういった了見なのでしょう」
 二つめの矛盾爆弾が爆発した。
 これも実のところ、女性の数だけ女性像が乱立しているという先ほどの音々の言い分に帰結する話ではないだろうか。
 子供を生むことは何よりも素晴らしい、と昔の女性が言った。
 だがあまりそればかり言わないでほしい、と現代の女性Aが言った。
 でも出産に関することは社会全体で後押ししてほしい、と現代の女性Bが言った。
 しかし女性の選択肢として子供を生むということは最優先ではないということを分かってほしい、と現代の女性Cが言った。
 矛と盾がいくつあっても足りない。女性像の乱立。
 これらを踏まえて私がたどり着いた結論が……、なるほど。笑ってしまうな。
 女性とは面倒くさいだけの生き物である。
 音々が『未来への不安』を読んだ感想と同じではないか。西に進もうが東に進もうが、結局辿り着く先はブラジルでしかないわけだ。ブラジルがそこから動かない限りそれは絶対に変わらないことなのだ。元栓の正体がそこにあるというだけ。
 同時に私は「そうではない女性」がたくさんいることも知っている。『未来への不安』に出てくる各種女性像とは何ら関係の無い女性たちがこの国には大勢存在しているのだ。女性人口の大半が実は「そうではない女性」であると私は考えている。いわゆるサイレントマジョリティとか呼ばれている正当なる声無き大集団のことだ。この国の平和は常にその「そうではない女性」たちが作り上げているのだ。彼女たちは何も問題を起こさないから目立たないだけで、実はあちらこちらに存在しており、誰に見られているわけでもないちょっとした親切をしながら生きているだけの善良優良物件なのだ。正義の味方が優先して守るべきは彼女たちの方ではないのか。この国の真の、そして最高の女性像がそこにあるのだ。
 がんばれ、「そうではない女性」たち!
「では響さん。これはお返しします」
 持っていた『未来への不安』を旦那に返した音々は、亡霊のような相沢氏の方に向き直り、こんなことを言った。
「それではモンスターペアレンツの取材を開始したいのですが、よろしいですか」
 あまりにも平然としたその声に、全員度肝を抜かれた。
「しゅ、取材?」
 震える声でなんとか訊き返す半死人の相沢氏。
「はい。その為に来ました。確認は不要かもしれませんが、相沢先生はモンスターペアレンツでいらっしゃいますよね?」
 坦々としたその確認。音々にとっては予定していた仕事であるし、作業なのだ。
 この様子を見た周りの人間が後に「死人に鞭を打つ」という言葉を生み出したのだろう。その意味は、死人にも坦々と鞭を打つ異常者は怖い、だったかな。
 やはりモンスターを止めるのはモンスターを上回るモンスターに他ならないのだ。
 とにかく、せっかくの音々の暴走も相手が死んでいる以上私にとっては面白さ半減になってしまうので、ここで止めようかと思った。
「はいはい、音々。今日はもう終わり。取材は中止」
 私は柏手を打って音々の注意を惹きつけた。
「中止ですか?」
「うん、そう。だってもうモンペの取材も終わっているようなものだから」
 私は本気でそう思っていた。モンペとして聞き出したかったことはもうとっくに聞き出せている。
 別の場所で暴れていただけの、同じ怪物がいただけなのだから。
 社会問題の元凶となる人々はきっと共通しているのだろうと私は思うのだ。カテゴリーに分けて考えるより様々な問題の元凶となる個人を掴まえた方がよっぽど世直しになる。
 私の言い分が届いていないのか、目をパチクリさせてこちらを見ている音々。
「てなわけで、もうおうち帰れるよう」
「ではそうしましょう」
 意外なくらいあっさり引き下がりやがる。マジで仕事したくないのか。
「……ないくせに」
 背を向けようとした破壊神に、顔を俯けていた死人が吐き出すような、押し殺したような声をぶつけた。
「結婚もしたことないくせに……、子供を持ったこともないくせに……」
 音々は振り返り、目をパチパチとやった。
 そのタイミングで相沢氏は射殺すような目を持ち上げた。
「いいわねあなたは! こんなに美人で! まだ若くて! 手に職もお持ちで! 小説をお書きになってらっしゃるのなら、お金も相当持ってるんでしょう! でもね」
 またしても怒りで復調してゆく相沢氏。
 我が子による説得も無意味で、真のモンスターによる圧倒的破壊でバラバラにされても止まらないとは。
 それでも音々は丸い目を向けてじいっとしているのみ。
「結婚もしていない、子供もいないあなたに女性の苦労なんてわかりゃしないのよ! あなたにはそれを語る権利なんて微塵もないの! 子供のいない独身女性なんて楽して生きているだけよ! そんな女の意見に耳を貸す人なんて一人もいないわ!」
 死に体で立ち上がってきたゾンビ。死してなお面倒な女はどう退治していいかも分からない。すぐ近くで華蓮ちゃんがマジで恥の上塗りと嘆いていた。
 この傍若無人の怪物に理性を植え付けるには……。
「相沢先生、感情任せになるのはやはりまずいですよ」
 響が相沢氏の無謀な暴走を止めようとした。相沢氏は振り返り、睨むような、懇願するような目を響に向けた。瀕死の状態ではあったがその目だけは血走っていた。
「感情的になった時に良い結果を得られる人などあまりいません。これ以上先生が傷付く必要はないです」
 優しげなその声。
 案の定、相沢氏の目から鋭さが消えた。すっぱりと消えた。あの形相はなんだったんだというくらいハッキリと消えたのだ。
 この時の相沢氏の極端な変化を見て私は確信した。やはりそうか。
 化け物に理性を植え付ける伝説の魔法、その正体、それは……、
 ――男。
 もっと正確に述べるならば意中の異性。
 しかも彼女は何故か、自分が見初めた異性は自分のことも認めてくれている、分かりやすく言えば自分の味方をしてくれると思い込んでいる節があるのだ。だからこそ理性を植え付ける魔法にもかかりやすいのだろう。催眠術にかかりやすい体質とそうでない体質があるのと同じだ。要するに思い込みの激しさだ。間違いなくこの女のそれは群を抜いている。むしろ『未来への不安』からして彼女の思い込みの激しさを説明しているだけのものだったのかもしれない。本日ここで私が耳にした話を総括すると「思い込みの激しい女は損をする」ということになりはしないだろうか。
「夢路さん。取り乱してしまって申し訳ございません。わたくしはただ結婚をし子を生むことの苦労をそうでない女性の方にも分かってもらいたかったのです」
 今にも泣き出しそうな反省めいた表情で相沢氏が響に言い募る。
「大丈夫ですよ。相沢先生の情熱はちゃんと世間に伝わってますよ」
 優しげな表情で真正面から思い込みの激しい女の声を受け止める響。やはりこいつは甘っあまの甘王である。
「ありがとうございます。夢路さんにそう言って頂けると救われます」
 微笑をたたえ、真っ直ぐに甘王の目を見つめるアラフォー女。完全に先程の憎悪と憤怒が消え失せている。伝説の魔法の効き目は抜群なのだ。響がそばにいる限り彼女は理性を保ち続けることができる。
 だがその時だった。
「響さん」
 悪魔の呼び声。
 音々は目をパチパチとやった後、旦那の方に顔を向けた。
「私は結婚していなかったのですか?」
 これは相沢氏の先程の糾弾を受けての疑問なのだろう。事情を知らない人からしてみたら謎の質問である。おそらくは婚姻届を出してはいなかったのかという意味だとは思う。
「子供もいるのではないですか?」
 これもまた謎の質問である。保護下、養育下の者という意味できょうだい間でも子供という言葉が適切かどうか判断しかねているということだ。
 これに響が照れ臭そうに答えた。
「はい。音々さんは結婚しています。子供も二人います」
 この言葉で相沢氏は心臓が止まったような悲劇の表情を浮かべた。音々のことを結婚もしていない子供もいないと見下していたのだから当然である。
 そしてその目は何かを訴えるように響の顔に注がれていた。
 何故あなたがそれを知っているの――?
 その視線に気付いた響は何を勘違いしたのか、人当たりの良い微笑を浮かべ、何の気なしにこう音々を紹介したのだ。
「そうです。彼女は僕の妻です」
 手の平で音々を差しながら、坦々と、何の悪びれもなく。鈍感の化身である。
「は? は!?」
 目ん玉が飛び出るくらいに相沢氏が目を見開いた。本当に驚きだったのだろう。その様子を見て娘がクスクスと笑っているのだが。
「妻? つま? じゃ、夢路さん、ご結婚は……?」
 放心状態で言葉を探している相沢氏。遠目で見ても目の焦点が合ってない。
 そんな相沢氏の様子に気付いていないのか、またもや何の気なしに響が答える。
「とっくにしてますよ。あまりそういうことを知られたくなかったので、関係者以外には話してないのですが」
「でもでも、指輪、してらっしゃらない」
 容量を超えた驚きの中で、何故か相沢氏はそのことを気にした。
「やっぱり目ぇ付けられてたんだ、兄貴」
 カエルがやけに楽しげに言う。
「こんなタイミングで指輪のことを訊くってことは、案外一番気にしてたことなんじゃない」
 妹も同意する。
「目ざとっ。そしてあざとっ。お母さん」
 華蓮ちゃんもまたやけに楽しそうなのはどうしてか。
「指輪ですか。なんか女性に対して首輪付けさせてるみたいで、僕はいやだったんです。妻が自分のものみたいなのが許せなくて」
 頭を掻きながら情けなく返答する響をその妻はじいっと見つめていた。
「響さんが言えばつけますよ?」
 覗きこむような目で男にそんな提案を述べるコイツは生粋の小悪魔だと思った。事実夫は顔が朱に染まってしまいバカさ加減を増している。その朱色こそが、二人の間には他の異性など立ち入ることができないことの目に見える証拠なのだが。相沢氏も刮目すべきではないだろうか。
 下手くそなさりげなさで、相沢氏は音々の左手をチラリとのぞき見た。当然音々の薬指は束縛無き自由の身である。
 そしてその相沢氏の盗み見に気付いた響が説明を付け足す。
「もちろん、結婚指輪自体はありますよ。結婚してるのは嘘じゃないんです。ええと」
 どうにかして結婚していることを相手に知ってほしい響は、ここで義弟と義妹の方を照れながら振り返った。
「妻の弟と妹です。彼らの親は亡くなりました。だから僕らが今の彼らの親です」
 少し誇らしげに二人を指し示した響。
「まあ、そう、だったのですか」
 ほうほうの体で了承の姿勢を見せる相沢氏だったが、もはや魂が抜けていることは確実だった。何か大事な希望が失われたような感じに見える。
 音々も本能でそれを感じ取ったのか、今度ははっきりと背を向けて帰ろうとした。それを響が追った。少しだけ、抜け殻となった女を気にしながら。だがしっかり者の娘が入れ違いにその女に近づいていったので、まあ大丈夫だろう。
「はいはい、お母さん、もう大丈夫だから」
 死に体の怪物を介抱する娘。
 相沢氏にはもう牙も角もないし火も吹けない。これから少しずつ人間に戻っていくのかもしれない。何故なら私は知っているからだ。伝説の魔法は最初から娘にも使えたということ。それを使わなかったのはきっと、使えるかどうかは状況と条件次第だからなのだろう。そしてその状況と条件が一番厄介なのだろう。
 弟らに近づいた音々は事実を確認するかのようにこう言った。
「お二人は私の子のようです」
 どこか嬉しそうでもあった。
 二人は照れているのか音々をバカにしているのか分からないような微笑を浮かべて目を合わせた。そして口々にこう言った。
「姉ちゃんは普通のマザーでもシングルマザーでもない新種のマザーだよな」
「クレイジーマザーよ」
 親しみのこもった呼び名ではなさそうだ。
「私への悪口は響さんに習ったのですか?」
「音々さん。僕のこと極悪人だと思ってません?」
 後ろから響が声をかける。
「普通以下のファザーだ」
「冴えないファザーだ」
「みなさん、僕のこと底辺の人間だと思ってません?」
 音々が振り返り、夫の顔を見る。
少し笑っていた。
 ああ、笑ってやがると思った。
「家族四人いますね」
「あ、ホントだ」
「じゃファミレス行こうよ。お姉ちゃんファミレス好きだから」
「行きたいって顔、してるもんな」
「あ、ホントだ」
「音々さん、初めからそういうつもりだったんでしょう」
「行くというのであれば、早く行きましょう」
「俺たちが行きたいみたいなことにされちまった」
「それじゃあ行こうか。美琴ちゃん勉強はいいの?」
「普通以下のファザーさんはいちいち野暮ね」
「カンナさんも一緒にいかがですか?」
 微笑の音々が訊いてくる。
 この部屋の中に二組の家族がそれぞれに固まっている。
私にはそのどちらも理想の形に見えた。
 私も一緒に?
 行けるわけあるか。
 次回作も面白くなりそうだ。
                                       ―了

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