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随筆/ダンゴムシ

小さなころから、いつも走っていた。気づいたら、大人になっても走ってばかりで、きっと、走ってばかりの中年、走ってばかりの爺になるものとばかり思っていた。

医者に訊いてもいくら調べても因果不明な病気で、ぱたりと走れなくなった。先のことなど、どうもよく分からないものだ。

因果は不明(努力のしようがない)、寛解は困難(つまりは治らない)、治療法は試行錯誤(それでも努力は止められない)、希望なんて、どこを漁ってもあるわけがない――この窓の外の、冷たい玉砂利にしか。
がんばれば報われる、だとか、夢はかならず叶う、だとか、そんなかす・・のような戯言の類を、苦笑いで看過できるほど、私の生傷は癒えてはいない。

私のどの文章も、私のどの会話も、どれもこれも、ひとつ残らず痩せ我慢だ。見られたら、脊髄反射で格好つける。
おやすみ、と、快活な笑顔で戸を閉め、つらさ痛さ苦しみで、布団をかぶって唸っている。つらさ痛さ苦しみに直面できず、このアプリを立ち上げる。
毎日、毎晩、このつらさ痛さ苦しみを、何とかうまくことばに乗せて飛ばせたら、と願いながら、また、いらぬ痩せ我慢、笑ってもらおうなどしている、手が勝手に、素っ頓狂ファニーな文章を書いている。
私が私の味方でいられるのは、夢も見ずに眠っているときだけだ。

小さなこころの袋にえきれず、死にたい、なんて真顔で呟いてしまう人の、きっと、ほとんどが、つらすぎて、痛すぎて、苦しすぎて、うまく言えないのだ――言いたいのは、「生きたくなりたい・・・・・・・・」ということ。だって、少しヘンな日本語だもの。
せめて、闇黒の目の前にひとつスポット、人参のひとかけら、赤い布きれ、それさえ見えてくれれば。

また全力で走りたい、などとは言わない。
だからせめて、ひとが――とくに、同年輩や年長のひとが――軽やかに走る姿に、手当りしだいに生きりょうを飛ばしかねないような、この卑小で救われない私でなくなれ、と――しかしまた、これも、根源的な自己否定である。どこまでいっても、私は私を憎んでいる。

のろまなダンゴムシのように縮こまって、わたしは今日も生きている。


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