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ふりかえって

振り返ってみて


僕は普段真面目な話とか弱音を吐くのがあまり得意でなく、がんばる姿・背中を見せることが自分の美学だと生きてきたのですが馬鹿なりに言葉で書きたくなったので書きます。


ちょっとだけこれまでの自分という人間も少し知ってもらえたらなと思ってます。


しょーもなとかダサいとか思ったら飛ばしてください


東京都荒川区下町育ち、母親(マダム)・姉・妹、そして僕の一軒家に4人暮らし。


思えば音楽を好きになったのは小学2年生の頃、音楽の授業で先生が授業中に持ってきた空き缶の中に砂と、空き缶の中に水を入れた物を耳元で振りながら聴く授業がきっかけでした。

今でもあの感動は忘れません。


そんな先生の授業が大好きになり、

僕は吹奏楽部に入ってトロンボーンをはじめました。


本当はサックスやってみたかったけど、サックスの余りがなくほぼほぼ仕方なく余っいてその中でもかっこいいトロンボーンを選びました。デカいし。

1週間マウスピース吹くだけからスタートして、吹奏楽部にある木琴・鉄琴・ドラム・ピアノいじったり、譜面全然読めないなりに運動会で行進曲をトロンボーンで吹いたりしてました。

一応めっちゃ練習してました。



そしてこの頃KinKiKidsを姉の影響で毎日カセットテープで聞きながら夏休みの宿題をしてた時に、姉に渡されて一気飲みしたメロンソーダの中身がただの緑の絵の具だった事は死ぬまで忘れません。


片親だった為、小学校1年から通っていた「育成室」と言う名の児童館的な夜17時まで預かってくれて、更に3時のおやつまで出してくれる良心的なサービスを提供してくれる安息の地で小学校最初の僕の友達はできました。

(この育成室のボスの名前は「船長」と覚えておきましょう。先生的な人です)



名前は「けんご」と「いがちゃん」

小学校初登校日に僕は2人に向かって、

「友達になろ」って言い放って友達になりました。

2人は快く「うん、友達になろ」と言ってくれた。

この2人とはよく喧嘩もするし、僕が隣町の公園や育成室の先輩にボコボコにされてるとよく助けてくれる良い奴でした。

(けんごは初登校日に同じクラスな事が判明して、その時1度お互い目が合ってしまい目つきが悪いけんごを見た僕はこいつ絶対やばいやつじゃん。

と思いながらも育成室に行くと、そこにはけんごが居て育成室の自己紹介中に

「あっ!!!」と僕は謎にデカい声を出してしまい初対面の船長にいきなりゲンコツで殴られたことは今も忘れません)



僕の喧嘩の強さはだいたい中の上ぐらいで、何故自分の喧嘩の強さをここに書いているのかも分からないけど、同級生で唯一何回も喧嘩して勝てなかったのは、お兄ちゃんが3人もいる入学当初から赤髪だったマブダチのけんごと内科医の息子西澤君でした。


西澤君は空手やってて身長がとっても高く、けんごは僕と同じ身長ぐらいなのに、唯一同級生で西澤君に勝つほど喧嘩が強いやつでした。

でも西澤くんは怒らせなければホントに良い奴でした、家もとても近く毎日カードゲームやプラモデルを作っていました。彼はコナンが大好きです。


そして小学校初登校日に俺の斜め後ろに座ってた、やはぎ君(おぎ〇はぎのいとこ)が緊張でオシッコを漏らしていた事は誰にも言わなで墓場まで持ってきます。


まあしばらくして「すぎさん」と言う最強の新たな仲間も増え、みんな片親育ちの僕達は毎日暴れたい放題でした。


池にに行っては亀・ヘビ・鯉・鳩・ザリガニ・カエルを全裸で取りに行き、ゴキブリの里がある滝に修行しに行ったり、すぎさんの家で野球拳をして負けた奴はケツの穴に爪楊枝刺されたり、宝探しツアーという名の他校がたむろしている公園に行きなんちゃらかんちゃらしてしまったり、小学校高学年になるとエッチな本を探したりと結構ハードに楽しみました。

(当日64で流行っていたゲーム007の真似で、すぎさんの住むライオンズマンションでエアーガンを10人ぐらいで撃ち合いをしていた時、ノリで僕が消化器のボタンを押してしまいサイレンによってマンション全員の人がアニメのように一斉に部屋から飛び出て来てしまったのは今でも反省しています。管理人さんからめっちゃ怒られて人生初の出禁。)



そんなこんなで少し成長した僕は、3年ほど続けていたトロンボーンも3歳からやっていた水泳も小学校5年頃に辞めてしまいました。

ついでにこの辺りでKUMONも辞めた気がします。

(2chねるとか流行ってこの頃からBUMP OF CHICKENやw-inds.を姉の影響でめっちゃ聞いてたな。)


前述の通り全校周回で名前が出る程元々糞ガキだった僕は、遊ぶのが大好きで近所の公園でも学校でも年上とか関係なく毎日喧嘩をして帰っては、片親だった母親を後日一緒に学校なり近所の人の家に謝りに行かせるほど糞ガキだったので、自由を手に入れる為に辞めた気がします。

母校で校長室に呼ばれた回数は未だに誰にも負ける気がしません。

全然誇れることじゃないけど。


(マダムにはとても厳しく育てられ、やんちゃな僕は毎日殴られてた。今思えば母親の愛であり、父親がいない分厳しかったのだろう。
マダムのおかげで好き嫌いがなく育ったのは感謝しかない。)


でも歌う事も得意でクラスの発表会では、クラスの歌リーダ的な事をやったりもしてました。



しかし小学校6年生の冬忘れもしない出来事が起きます。

突然けんごにこう告げられます、

「おれ○林中学じゃなくて〇学院に行くんだよね」と


僕はビックリしてしばらく声が出ませんでした。

あんなに仲良くしてたけんごと離れ離れになってしまう、毎日学校帰りにピザまん買って半分こしたり、スズメの巣に水鉄砲かけまくって近所のおじちゃんにゲンコツされたけんごに会えなくなる、そんな気がしながら1人その日僕は家に帰りました…


帰り道小さいながらに色んなことが頭によぎります。


育成室の合宿中、川に流されるすぎさんを船長が川に飛び込んでギリギリで助けたり、合宿中の就寝前やはぎがうんこを我慢できずに漏らしてしまって、ついでにたけひこ君までもがうんこを漏らしてしまって2人で押し入れにこもって寝てしまったり、プロレスごっこをしていて僕が考えた技をけんごにかけてもらったら僕の腕が複雑骨折して、その日の給食をけんごが食べれないぐらい落ち込んだり、その数日後に屋上に行く途中の階段に何者かのうんこが着いたパンツが落ちていたり、林間学校の写真撮影でお風呂でみんなちんちん出したり、リカちゃんに電話したり、麻原〇晃に電話して宇宙のパワーもらったり、書けない事とかとにかく色んなことを思い出して家に到着しました。


そして母親(マダム)に僕はこう告げました。

「おれ、けんごと同じ学校受験する」


そこから僕の猛勉強がはじまった。

そしてまさか同級生の浅川までもが同じ学校を受験する事が判明し3人無事合格。

(1次試験は落ちたがなんとか2次試験で自身は合格)


小学校卒業式当日にみんなでやった「ともだちんこ」特にけんごにやられた奴は強烈すぎて普通に死にました。ネジ切れた…


そしてめちゃくちゃおじいちゃんに溺愛されていた僕は、おじいちゃんと釣り堀で釣って学校の水槽で育てていた鯉を小学校の池に放流して無事卒業。

(おじいちゃんは僕を溺愛しすぎて、香川の坂出市から東京にある小学校の目の前にアパートを借りほぼ6年間住んでました。僕の日課はおじいちゃんの家に行きピルクルを毎日飲み、戦争の話聞き相撲を見て、世界一美味い味噌汁を食べるのとスーパーでおもちゃを買ってもらうことでした。

おじいちゃんは癌が転移しまくっても長生きしまくったスーパーガイでだいたい話す時、僕に唾を飛ばしながら仁丹を貪ってました。
釣り堀に言った時、おじいちゃんの膝蹴りがたまたまヒットして僕は釣り堀に落ち、全裸で濡れた衣類が乾くまで待機した事は一生忘れません。でもそんなおじいちゃんが大好きでした。)



そしてここから僕達の中学生活(高校まで一緒)がはじまる。

けんごと浅川は元々地元の少年野球チームに入ってたので野球部。

けんご達と僕はクラスが別々になってしまったので同じクラスで仲良くなった、
マウイ君とテニス部に入ることにした。


この後3年生までけんご達と同じクラスになる事はなかった。

お互いに部活動・勉学に励み割と真面目に中学生活を送っていた。

てか小学校生活がヤバすぎて、ずっと自分がヤバい事を隠し真面目なヤツに生まれ変わろうとしていた。(いわゆる中学デビューだ)


中学2年に上がり小学校から好きだったBUMP OF CHICKENやw-inds.、ORANGERANGEやL'Arc~en~CielをMDでずっと聞いていた。


ある朝、姉のiPodを勝手に持ち出し何気なく
Hi-standardというバンドを選択して聞いてみた。


衝撃だった、


例えるなら脳みそをずっと殴られながら、中学1~3年全生徒で毎年競う8キロマラソンを1回も息切れすることなくBPM200で完走して、順位1位取れる程の衝撃だった。


その衝撃から1週間後に小学校から貯めていた、お小遣いの500円玉貯金を全部集めて楽器屋さん僕はギターを買いに走っていた。

(姉に相談してギターを買うことを決めたのを覚えている。この時期、姉の彼氏の影響で沢山の音楽を聞かなければ今の音楽生活はないだろう。)


しかしギターを買ったものの、ドレミファソラシドしか弾けず結構経ってしまった。


そんな時、進学校の勉強に割としっかりついていけてなかった僕に家庭教師がやってきた。

(中学2年生の担任のあだ名はパイプだ。パイプスはパイプで頭のおでこを殴られてへこんだ由来からその名前だった。
パイプスは赤点だらけの俺には何故か優しかった。お昼に良くコロッケパンをくれた。
数学の先生はペニョーラって呼ばれててその理由は多分みんな知らなかった。)


家庭教師の先生は山梨県出身の堀口先生
(しっかり元ヤンキーだ)


だが堀口先生はなんとHi-standard大好きマンでギターまで弾けちゃうイケてる先生だった。

すぐ意気投合し、毎週2回ぐらい授業受け、終わって時間が許す限り僕にギターを教えてくれた。


はじめて弾いた曲は、Hi-standardの
「Stop the time」だ。

毎日4時間練習して先生をビビり散らかした。

この頃改めて自分が音楽が好きなことを再認識しはじめる。


先生はホントにお兄ちゃんみたいで、授業中は僕がすぐに話し出してしまうので中々授業にならなかった。

でも厳しく叱る時はちゃんと怒ってくれた。


そして中学3年頃に事件は起きる


こよなく愛していた愛犬の龍が、

堀口先生との授業中に亡くなってしまった。

姉が塾の帰り道ダンボールに捨てられた大量のワンコを見つけ、その中に拾って帰りたい子がいたのだが塾の帰り道でトイレを限界まで我慢していた姉は、マックのトイレに行き戻ってきた時には1匹しか残っていなかったのが龍だ。


小さい時の目は青色で4本足の白いソックスを履いた、ウルフドッグを小さくした様な見た目の雑種だった。


庭に放し飼いだった龍は僕に似てとってもやんちゃだった。

蝶や鳥やネズミや野良猫を拾ってはよく家族に見せびらかしたり、勝手に脱走して近所の犬と喧嘩して傷だらけで1週間後に突然帰ってきたりするワイルドなやつだった。


小学生だった頃は龍の小屋で一緒に寝たり、犬用ビーフジャーキーを一緒に食べた仲だ。

あと龍専用に作ってたお粥もめっちゃ食べてた。美味しかった。

頭もとても賢く1度仕掛けた罠には2回引っかかってくれなかった。


あの日動かなくなった龍を必死に心臓マッサージしたのは今でも忘れない…

そしてあの日、堀口先生が居てくれなかったら僕はどうなってたんだろう。

姉のショックも計り知れなかっただろう。


中学3年生になって、けんごと同じクラスになりお互い部活動に励みながらちょくちょく遊ぶ仲に戻っていたが、3年生が終わる頃には僕はグレて不登校気味になっていた。

不登校になってしまった理由は色々あったけど、家族とも毎日喧嘩してた。

堀口先生の授業もまだ続いていて、この頃辺りで僕は堀口先生より少しギターが上手くなっていた。


何故なら同級生の小宮君、唯一のギター友達でよく楽器屋に行ったり一緒にギターを弾きあって切磋琢磨していたからだ。

彼はビジュアル系が好きでナイトメアやGazettEを好んで聴いていた。


この時代はバンド黄金時代でとにかくレコードを聞き漁ってた。

ASIAN KUNG-FU GENERATION・STRAIGHTENER・10-FEET・ELLEGARDEN・ACIDMAN・RIZE等


海外アーティストは、Blink182やZEBRAHEAD・GREEN DAY・SAM41・NEWFOUNDGLORYや特に好きだったのはFall Out Boyだ。


テニス部もこの頃辞めてしまい、小学校からずっと憧れていたサッカー部に転部した。

だけどあまりの練習量の少なさにビックリしてしまいコレではサッカーが上手くなる気が1ミリも起きずに何ヶ月かして退部した。

そもそも中学に入る前、水泳部があると聞いていたのに僕が入った時には水泳部が廃部になってしまっていて、マウイ君と一緒にテニス部に入ったのだが今ではいい思い出だ。

(廃部の理由は屋上辺りから水のないプールに飛び込んで自殺してしまった子がいたとかいないとか)


中学卒業頃、遂に堀口先生ともお別れの時期が近ずく。

堀口先生も大学を卒業して就職することになったんだ。


僕を沢山叱ってくれて、将来の事も一緒に考えてくれて、ご飯連れて行ってくれたり、先生の家に泊まったり。

そんな先生と最後に僕は約束をした。


「ワンマンライブできるようになったらライブに呼んで」


情けないことにまだ叶えられてないけどいつか必ず叶える夢の1つ


この頃ぐらいに新たな家族、天太が家に来る。
彼はチワワとジャックラッセルテリアのハーフでとても賢く、人間の言葉を全て理解していた。

犬でなくきっと人間だったのだろう

彼はすぐ怒る怒りん坊ボーイだったが、
2020年老衰で亡くなってしまった日、僕が実家に到着するまで天国に行くのを待っててくれた心の優しいやつだ。


そして高校にエスカレーターで上がり、相変わらず学校のサボり癖は抜けず、午後から学校に行き放課後はしょっちゅうけんごと、中学で仲良くなった服部と、体重120kgある機関車みたいなラガーマンの夏目と毎日遊んだ。

(服部は中1から同じ部活だったけど何となく嫌いで部活いる時も合宿の時も1回も話さなかったのに、中3ぐらいでめっちゃレアなポケモン俺にくれてから仲良くなった結果良いやつ。
彼はNARUTOの螺旋丸の真似をして、よく学校の窓ガラスを割りながら手から大量に血を流してた。)

そして僕は学校行かないくせに、謎にバイトだけはちゃんと行ってた…


(そんな僕を見兼ねた母親がバイト先に乗り込みオーナーにブチ切れてたけど、オーナーは俺の事を庇ってくれるホントに芯のある人だった。家族経営でみんな優しくしてくれた。)


そして相変わらずのアホさ加減で、書けないような事を沢山したけどそれもいい思い出だ。


てかマジでアホすぎてホントに書けない。


服部は俺の影響でギターもはじめて、一緒にバンド組んだりする仲になった。

とか何とかしてるうちにあっという間に高校1年生活も終わる頃、何と言うことでしょう、神のイタズラか僕の出席日数が足りなくなり高校を転入せざるおえなくなり、突然のみんなとのお別れが訪れました。

お別れの挨拶をするのがナチュラルに恥ずかしくてみんなにお別れの挨拶をせずに僕は転入しました。

(僕が転入する事になり学年が大騒ぎだったらしい。バイト先のオーナーとは学校にちゃんと通う約束してたのに約束を破ってしまった気がしてバイトは辞めてしまった。)



その後千葉県にある私立の通信学校に通い始めた僕は、本格的にバンドをはじめた。

はじめてちゃんと組んだバンドは、地元ヤンキーの先輩達と組んだバンドだ。

しばらくして空中分裂。(はじめてライブハウスでhideのROCKET DIVEをコピーしたのは最高に楽しかった。)


週に何日間か学校に行き、週に5日9-17時までバイトをしながら、with9と言うネットのバンドメンバー募集サイトで同級生のメンバーを集いSTAGGという名前で新しくバンド活動をはじめました。

(この頃働き始めたケン〇ッキーは全員家族みたいに仲良くて最高に楽しかった。)


メンバーのギター亮は僕と誕生日が同じで運命を感じ、ドラムはELLEGARDENを叩ける珍しい左利きドラマー、ベースは高校生なのにめっちゃ胸毛が濃いちんちんがとてつもなくでかいヤツでした。

(でもベースはしっかり上手かった)


高校生ながらに精力的にバンド活動して、当時では珍しいメロコアというジャンルで青二祭や閃光ライオットや当時音楽好きの学生がみんな見ていたストリーファイターズと言う音楽番組にも出演して、レコチョクで音源も配信していた。

(閃光ライオットの何ヶ月か前にメンバーのドラムが少年院にしばらく入ることにになり、閃光ライオット当日まであまり練習出来ずにオーディションしたのはとても苦い思い出です。そいつの名前はゴッチ。)

STAGG音源
https://www.audioleaf.com/stagg


服部の話に戻るが、服部は俺と同じレベルの不登校野郎で、「一緒のタイミングで学校転入するか〜」って言ってたのに、急に俺を裏切って出席日数残ってるからまだ頑張るとか謎なことを言い出し、1人寂しく俺は転入していた。

時は変わり、高2になってから服部がまた学校に行かなくなったと服部の母ちゃんから相談を受け、それを聞いた俺は服部を元気づけに後日家に行ったものの結果服部も出席日数が足りなくなり、俺の学校に転入してくる中々のあたおかだ。

服部とも沢山喧嘩したが、彼は身体がデカくイケメンなだけで弱かった。だがいいやつ。

そして高校卒業式の日、服部と待ち合わせの駅でオーストラリア人に突然ケツを蹴られて喧嘩になったのもいい思い出だ


また話は戻り高校生ながら精力的にバンド活動しましたが、19歳になる前惜しくも環境の変化により解散。

(その後はとりあえず人生経験しとこうと思って色んなバイトをしまくってた。)

僕はどうしても音楽を諦めきれず、1年遅れでSTAGGのメンバーだった亮と同じメーザーハウス音楽院に通いはじめます。


ここでもまた素敵な出会いがあり、入学するなりそうそう亮がバンドメンバーを紹介してくれて、

当時人気だったバンド「Fear,and Loathing in Las Vegas」をオマージュする名前の、Florida(フロリダ)という名前を命名され速攻でバンドを新たにはじめる。

(フロリダって名前はダサすぎて速攻で名前は変えました。Days Nvere Regretに改名)

この頃から一人暮らしをはじめて、新たな音楽生活がはじまります。

(一人暮らしをはじめてから、散々苦労して僕を育ててくれた母を今でも尊敬している。)


今で言うポストハードコアの先駆けエモーショナルロックバンドとして、


月に4〜5本ライブをし週に2回必ずスタジオに入り、しっかりお酒も覚えさせられライブ終わりは毎回ベロベロになるまで打ち上げで先輩バンドにどれだけ傷跡を残せるかメンバー全員で戦っていました。


(ベースのこうすけ君はお酒が入ると徘徊癖があって毎回探すのが大変でした。
散々探した挙句、中国時の立ちんぼとずっと話してたのを見つけた時は呆れました。
こうすけはSTAGG時代もベース弾いてくれていて、Daysのライブ中にアキレス腱を切ってしまうぐらいパワフルで一言で言うと良い奴)


下北沢Regにて自主企画120人動員するなど結構頑張ってた。

はじめてメンバー1人ずつにしっかりバックを貰えたのは感動した。



しかし2年ほど精力的に活動したが、それぞれ新たな道に進むべく円満解散。

Days時代のメンバーとは今でもよく飲みに行く。


解散後19歳頃から働きはじめてた飲食店でとにかく働きまくる新生活がスタート。

(料理の腕をとにかく謎に磨きまくった。毎日料理長と山口県出身のヤンキー先輩に怒鳴られながら、見返す為に朝から終電までめっちゃ努力した。)

ここから空白の期間だがしっかりバンドちょこちょこやりつつ、しっかり大人になってしまった22歳頃、Days時代に対バンしたHELENAと言う当時イケイケで鬼かっこ良かったバンドのメンバーにコンタクトを取ってみる。

あっさり返事が返ってきて、

While I Breatheと言う名前でポストハードコアバンドをスタート。


ベーシストにさんざん悩んだが、高校生の頃から腐れ縁がある一平ちゃんにベースをお願いする事に。

一平ちゃんはとんでもなくフットワークが軽く、彼の主催するDJイベントのおかげで、ELLEGARDENの細美さんにも会えた。

(細美さんを見た時、その場にいた全員がベロベロになりながら「風邪の日」って叫んだのは忘れない…)



ポストハードコア界隈唯一の正統派スクリーモとして注目度も高かった。

https://youtu.be/OPq0-3VSx4g

レーベルGo WitheMeの主催ライブなどにも出演して結構登り調子だったが、

一平ちゃんが発狂する自体が起きて1年程で解散。
(だが一平ちゃんは悪くない)



その後一平ちゃんとHeartworksってバンドを立ち上げるも、僕自身も彼自身も中々活動する時間を作れず一旦解散。

解散する直後に一平ちゃんが紹介してくれたバンドメンバー、通称ジャリー(ギタリスト)となんかとっても意気投合してしまい、これまで英語詩で歌っていたのを辞めてはじめて日本語を歌うロックバンドする事を決意。


現在はeminaと言う名前で活動中


(日本語でどこまで自分が挑戦できるかチャレンジしてみたくなったのと、日本人である自分が日本語の素晴ら、日本人の耳にあった旋律と日本らしい和音に少し前から気づきはじめていたからだ。

前述の空白の期間にめちゃめちゃ邦楽を聞くようになっており、特に大好きになったのは岡村靖幸さんを彷彿とさせる米倉利紀さんだ。
あとPINK SAPPHIREも大好き。)



そして一平ちゃんは新たな道に進んだ。

放送作家になると言い出して、養成所に通いだしたんだ。

(芸人有吉さんのラジオに毎回広瀬すずネタを投稿していたら結構読まれるようになったのがきっかけらしい。その時のペンネームはエモぺいだ。)


なんやかんや自身も25歳ぐらいになっていて、そろそろ音楽をする事に対してかなり焦りを感じはじめる。

(25歳というなんとなくの境界線で、プレイヤーとして残るか辞めるかの2択に迫られる気がする。)


そして曲だけは作るけど一向に世界に発信することもしない独りよがり野郎になる。


結構ここから暗黒時代に突入する。


週に1回集まるか集まらないかレベルでジャリーと曲を作りながら、心境を報告しあってゲラゲラ話してを繰り返す日々。


この当時働いていたお店に中高の同級生の種ちゃんがたまたま良く飲みに来ていて、タモリ倶楽部のADである彼に僕は一平ちゃんを紹介してみた。

一平ちゃんの企画書は気に入られ、彼は今では売れっ子放送作家だ。

(いつか自分の曲をなにかの番組で流してもらう約束をこの時にした気がする。)


音楽活動はと言うとバンド活動再開に向けてメンバーを集めるも、中々理想のメンバーに出会えずあっという間に3年ほど経ってた。

日々環境も変わり、ずっと続けていた飲食に身を置くのも悪くないかなと思い、某有名シェフの元でイタリアンを学んでみたり飲食店を経営してみるのも悪くないかなと夢をすり替えようとしてた。

2020年にはコロナも蔓延し、僕自身は2020年4月にコロナになり、働いていた飲食店もちょうど休業のタイミングで1ヶ月間仕事休まざるを得なかった。


2020年5月頃には転職を決め、営業会社に勤務。

元々陽キャで接客も好きだった自分はポテンシャルを最大限に発揮して営業案件を取りまくった。





でも忘れもしない2017年頃の事を思い出す。

父親方の祖母が亡くなったことだ。


祖母の事は小さな頃あまり好きじゃなかった。

母にも原因があるかもだが、家族を置いていった親父を僕は心のどこかでずっと許せず、夏休みの時だけ父親に祖母の所に連れて行かれるのがなんとなく嫌だっのもあるんだろう。


祖母は若い頃学校の先生をしていた為か、めちゃくちゃ夏休みの宿題という名の勉強をさせられた。

その時間が子供の僕にとっては苦痛だった。

(僕は思う。勉強を苦と思わないで知識欲がひたすら強いひとだけが天才なんだと、そして親父はそんな天才型で社会的地位はあっても常識的に欠落してしまったように見える。)



まあそれはさておき、

祖母が亡くなる前のお正月に僕は祖母に1人でたまたま会いに行っていた。


その時祖母は僕にこう言った、

「あんた音楽はやりきったんか?」

元気のない祖母に僕は嘘をついた、

「やりきったよ」と笑顔で言った。


なんにもやりきってないのに。


「でもあんたはそれでもホントにええ子に育った。

親父があんなんでも、あんたは心がある子に育った」

「苦労したでしょう」


しばらく経って祖母は天国に行った。

何故か祖母と別れた帰り、たまにしか帰らない実家に寄っておもむろに小学校の卒業文春を探し出して読んでみた。


自分が書いていた内容に驚いた。


「w-inds.みたいな歌手になるのが夢」


薄らと記憶に残っていたけど、記憶が昔すぎて本当に書いたのかどうか曖昧だった事がそこは詳しく書かれてた。


まだおばあちゃんは俺に音楽続けろって言ってんのかなって思わず涙が出た。

今でも思い出す天国行った日、病院のカーテンが風で揺れてるのを。



2021年営業の仕事にも慣れてきた頃、

歌える場所ないかな〜と思い立ってライブ配信に興味が沸いた。


はじめて触れる世界に興味津々の僕は

配信をはじめて、歌える場所をまた見つけられました。


僕の音楽生活がまた動きだした

ソロでの活動もはじめ、都内で弾き語りでライブもするようになる。


きっかけって実は案外近くにあって、

これを読んだあなたにもどこか心を動かせるようなきっかけになれたら良いなと長い分を書いてしまいました。



前置きはそんな感じで、去年を振り返ってみて僕のベストを尽くした1年だったかなと思います。


自分自身を自分が1番理解してると思ってたけど、挑戦することでまだ知らない自分がそこにはありました。

Pocochaというライブ配信によって

生きて学んだことが無駄じゃなかったこと

自分の可能性が広がったこと

沢山の人に支えられた事で気づけたこと

喜びも悲しみも出会いも別れも全部が詰まった1年でした。

そして今の僕があるのも紛れもなくこれまで応援くれたリスナー全員のおかげです。


自分自身にも限られた時間の中でライブ配信・音楽活動を並行してやれたなと、ある意味充実した日々を送れたんじゃないかなと感慨深いです。

応援してくれるリスナー全員も限りある時間の中で駆けつけ応援してくれて、

いつも「ありがとう」の感謝の気持ちでいっぱいです。

毎日ありがとうって言ってるかもだけど、ありがとうだからありがとうって言います。


そしてこんな文を書こうと思ったのも自信の成長の一環ではないかと前向きにとらえてるので僕はきっとアホです。

でも何にハマってしまったら追求して研究して、他のことを忘れる癖は早く治したいです。


やりたいこと、叶えたいことまだまだ沢山あります。

そこに向かって準備という名の装備を整えてる途中、てかスタートラインだとずっと思ってます。まだ最初の町です


ただ自分も1人の人間、限りある時間の中で出来ること出来ないことがあります

例えて言うなら映画ランボーのように、1人で戦場に飛び込んで銃とナイフで戦ってレーション食べて応急処置して通信兵までこなしてる気分になります。


限界を感じて頭が爆発しそうになる時、よし!このまま消えて無くなろう!

そんな時もあります


でもそんな時ほど

あ、俺も生身の人間なんだ、傷がついちゃってる事に気づかされます


それじゃあどうしよう…考えます…

答えは単純で「寝て忘れよう」これだけです




って言うのは冗談で答えは、

①とりあえずやるしかない

② 絶対音楽で成功したい(これは意地)

③ 逃げたら負け


簡単に思いつきそうでも、昔の僕だったら全部後回しにしたり、誰かのせいにしたりしてずーーーーーっと遠回りしてこの答えにたどり着いてたなってつくづく思う。

アホっぽい考え方だと思う人もいると思うけど答えはシンプルな方が自分に合ってる。


そして今この答えが出せるのも純粋な気持ちで応援してくれて、自分の歌を好きになってくれる「あなた」のおかげです。


「あなた」ってめっちゃカッコイイ言葉で言ってみたけど、1人でも僕を待っててくれる人がいるはず、帰る場所になれてるはず。

紛れもなくコレが今の僕を支えてる原動力です。

さっき書いた僕みたいな気持ちになったり、つまづいちゃったり、転んだり、誰かのせいにしたり、自分を責めたり、前に進めなくなちゃったり、人を愛したり

人間ってほんと不完全で、だからこそ人って輝いてみえるんじゃないかなって


そんなあなたを笑顔にできたらいいなって、ひかりになれたらいいなって、そう思って毎日配信してます。


僕は口下手だし、配信でありのまま全部出してるつもりでも見えない部分も伝えきれてない部分もきっと沢山あって、

「見えない部分の努力もできるだけ形にしよう」出来るようにこれからも伝えていこうそう思ってるけど、足りてなかったらごめんね。


ラブアンドピースって感じでこれからも歌ってくんでよろしくです!






























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