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茂木幹事長「例えば左翼的過激団体と共産党の関係、ずっと言われてきた。関係ない、全く調べないというのも問題」という発言について調べてみた。

左翼的な過激団体と共産党に関係がある!と言われて怒る小池書記局長

数日前、面白い動画が流れてきました。

茂木:例えばですね、左翼的な過激団体と共産党の関係、ずっと言われてきました…
小池:(遮る様に)全く関係ありませんから。
茂木:…そこについて…
小池:…そういう…全く…
茂木:そこについて全く調べないというのも問題だと思いますけど。
小池:公共の電波を使って、自民党の幹事長が全く事実無根の話をしないでください。撤回してください。過激な団体と最も厳しく対処してきた政党ですよ。撤回してください。
茂木:そういう指摘(がある)

自身の発言を撤回しないという茂木氏、徹底対決の構えですね。
確かに関係ない、全く調べないというのも問題だと思い調べてみました。

左翼的な過激団体の歴史

左翼的な過激団体といえば普通は所謂新左翼を指すと思います。しかし新左翼と共産党は非常に仲が悪いはず。
一応說明しますと、新左翼とは共産党や社会党ではない共産主義者のことで、最盛期には5流22派を数え、様々なテロ行為や暴力沙汰を行った団体もありました。なぜ新左翼が生まれたかというと、51年に武力闘争路線をとっていた共産党が55年に平和方針に転換したからです。このとき武力闘争路線を担っていた急進的学生に深刻な動揺が起きたそうです。そこで共産党に背いて武力闘争路線を継続する人々があらわれました。それが新左翼の始まりです。この経緯から今でも新左翼と共産党は犬猿の仲です。

じゃあ全くの事実無根なの?

そうではないでしょう。まず共産党の方針転換で新左翼に転向した人は共産党の関係者といえます。
しかし、それだけで茂木幹事長の自信満々の態度にはならないでしょう。
そこで詳しい方にきいてみました。
そうすると面白いお話が。茂木幹事長が暗に指してるのはそもそも新左翼じゃなく民青(日本民主青年同盟)ではないか?と。

民青について

民青について一応說明しますと、日本共産党の下部団体の一つです。ただし 日本共産党はそうは認めずあくまで別個の団体ということになってるらしいです。

民青の規約によると

組織の名称は、日本民主青年同盟(略称「民青」「民青同盟」) とする。

民青は、青年の切実な要求にこたえ、生活の向上、平和、独立、民主主義、社会進歩をめざす自主的な青年組織である。

科学的社会主義と日本共産党綱領を学び、自然や社会、文化について広く学んで人間性をはぐくみ、社会の担い手として成長することをめざす。

日本共産党を相談相手に、援助を受けて活動する。

当時の民青について

当時の民青については詳しいツイートがありました。

かなり暴力を振るっていたようです。民青の暴力を調べると、その実働部隊は「あかつき行動隊」という名前でした。新左翼は各セクト毎にヘルメットのデザインが違うものですが、あかつき行動隊は黄色のヘルメットを被っていたそうです。
あかつき行動隊で新聞記事を検索すると3本ヒットしました。

民青実行部隊、あかつき行動隊の興廃

[昭和時代]戦後転換期(9)若者たちの反乱=上 全共闘 大学に反旗(連載)
2012.06.02 東京朝刊 17頁
◆全共闘運動 大学に反旗
1968(昭和43)年、日大、東大をはじめ全国の大学で紛争が激化した。主役は、いわゆる団塊の世代の若者たち。
(中略)
■「登録医」反対スト
東大紛争は、登録医制の導入反対を訴えて、68(昭和43)年1月29日に始まった医学部の学生ストライキに端を発する。
中略
7月2日、山本ら全闘連の院生や学生250人が安田講堂を再び占拠し、入り口を封鎖した。翌年1月の「落城」まで、半年間の籠城の始まりだった。
翌日、共産党・民青系(代々木系)の学生や職員が、安田講堂の周りに集まり、講堂封鎖に対する抗議の輪を広げようとした。
中略

補足說明:ストしている学生、全闘連側は共産主義者で共産党員じゃない人々です。それと共産党が東大で争ってるわけですね。

前略
7月5日、4000人の学生、院生、助手が講堂に集まり、東大全共闘が結成された。
中略
■全共闘VS民青の乱闘
全共闘は交渉を打ち切り、全学バリケード封鎖へと向かう。だが、全学封鎖の突破口に位置づけた総合図書館の前には、民青のゲバルト部隊が陣取り、全共闘との間でゲバ棒を振るっての大乱闘になった。結果は民青が防衛した。11月12日のことだ。
当時医学部生で、民青系の東大民主化行動委員会議長だった三浦聡雄(医師)は、「総合図書館の攻防は関ヶ原の戦いだった。図書館封鎖を阻止し、駒場キャンパス(教養学部)の封鎖も阻止したことで、決着がついた。その後は完全に我々が多数派になった」と振り返る。
全共闘の「暴力」を糾弾していた共産党・民青も、「正当防衛」を根拠に、都内の私大生を中心としたゲバルト部隊を編成し、東大闘争に投入していた。
民青のゲバルト部隊は「あかつき行動隊」と呼ばれた。リーダーは、当時、早大生だった作家の宮崎学。宮崎は「共産党に入党して暴力を振るっちゃいけない、殴られたら殴られたままにしろと言われ、言うことを聞いていた。それがパーンと解放された。あかつき行動隊は、新左翼党派との衝突で百戦百勝だった」と回想する。

このストのとき、あまりの騒乱、そして患者と病院を守る為に大学側が政府へ機動隊の投入をお願いしていたようです。そうなると東大に強い勢力をもっていた共産党にとっては非常な痛手です。ここで全共闘を排除しなければ!ということで実働部隊が結成されたようです。

【さらば革命的世代 第2部 バリケードの外から】(5)「民青」宮崎学の目
2008.09.26 大阪朝刊 27頁 第3社会
(あかつき行動隊の名前は)
突然現れたゲバルト部隊に驚いた全共闘が、当時日共の機関誌などを印刷 していた「あかつき印刷」の労働者集団と勘違いしたのが名の由来だという。宮崎さんは、その隊長だっ た。
「ヤクザの世界と一緒やな。全く別組織との抗争は簡単に手打ちできるが、同じ組の中での内部抗争はたちが悪い。左翼も新左翼も根っこの部分では同じであり、だからこそ近親憎悪の感情から対立が深まっていった」
中略
当時、民青の中にも「暴力」に飢えていた学生が多かったという。 宮崎さんは「日共は選挙の票がほしいがために『あれやっちゃいかん』『これもあかん』という制約が多すぎた。一方で僕らがなんぼデモで人集めても、赤旗の集金を多く集めた人のほうが評価される。ものすごく官僚的な組織だった」
ただ、官僚的であったがゆえに、行動隊は数千人規模の全共闘相手に200~500人で対峙(たいじ) し、練られた闘争計画と結束力で圧倒することもあった。
以下略

そしてあかつき行動隊に最後の時がきます。

文化人 宮崎学(現代の肖像)
2000.02.21 AERA 60頁 
中略
一九六九年の東大闘争・安田講堂決戦(機動隊八千名導入)を前にして、共産党本部は平和路線に転換。あかつき行動隊のゲバルト隊長だった宮崎は、暴力異端分子としてパージされたからだ。〈共産党の鉄砲玉〉として使い棄てにされたと言って良かった。
以下略

なるほど、小池書紀局長の言う通り厳しい対処ですな。

茂木幹事長と小池書記局長の話の意味とは

茂木幹事長の自信の内訳は多分あかつき行動隊の話なんでしょうね。
小池書記局長の話も別の意味なのがわかります。
「過激な団体と最も厳しく対処してきた政党ですよ。撤回してください。」とは直接手を汚さず、下部団体の民青配下に武装組織を置き、その武装組織で新左翼を排除して、危険になったら組織ごと切り捨てたということです。

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