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モノクロに感じることの正体。

Xでモノクロとカラーで違うテーマで撮っていることやんわりとポストしていた。
そのことをまとめたnoteです。


先日ボソッとこんなことを呟いていた。

このざわざわする気持ち。
そのありかはどこにあるのだろう?
カラーで撮る時とモノクロで撮る時の写真に大きな振れ幅がある。その根拠はどこにあるのだろうか?

その正体を探してみた。

Xではいつも、現実では一回だけだけど懇意にしているShuさんから、モノクロの写真には荒々しい雰囲気が出るということ。
その正体は色が欠損していることが、自らのバックボーンに影響しているのではないかという一つの答えだ。

何かが欠損していることの正体は自分の障害に起因するのだろうと気づいた。


欠損の正体

補聴器のイヤーモールド

一部の人はもう知っているのだろうけど、私自身、高度感音難聴という障害を持っている。上の写真はそれを補う補聴器の重要な部分を撮ったもの。
これが無ければ生きていけないし、コミュニケーションにも大きく影響する。
これのおかげでほぼ問題なく健常の人と渡り合っていける。生きる自信をもたらすものであると同時に、自分の中に大きな対照的な世界を生む。

音が聞こえない世界

本来の聴覚障害者の持つ世界で音というものがほぼ全て、ジェット機の重低音以外消える世界だ。これがざわつきの正体なのだろうと最近気づいた。
モノクロは色という情報を全て消し去る。
なんとなくこんな色なんだろうというのは周辺の情報を照らし合わせて、イメージで再現する。音のない世界でもそれは同じで、口の動き、地面の振動、風の動き、周囲の動き諸々で判断する。

それでも音のない世界は不安をもたらす。
この不安と似たようなものをモノクロには感じる。


カラーで撮る時の静寂

カラーで撮る時、本業がデザイナーであることからか写真を撮る時も瞬時に判断し、整理し始める。建物の水平さ、ものの配置それぞれ全部見るように、俯瞰して撮ってしまう。
調和と生理が静寂を生むと思って撮っている。
どこか安心感を求めている。


モノクロに宿る荒ぶるもの

モノクロで撮る時そういった要素が外れる。
カメラはモノクロモードで写真自体もあまりレタッチしない。加えるものといえば、グレインエフェクトぐらい。
水平とかあらゆる整理を外し、黒と白が形作るものを切り取っていく。

ざわつきと不安定を混ぜていくように。
そこに何か残る気がする。
それがモノクロ写真を撮る一つの答えのように考えている。

ここ最近のテーマは2つある。
写真を筆のように扱うこと。音の閾値を探すこと。

音の閾値と筆で書くような写真。

音の閾値とは。

補聴器をつける最中の聞こえない世界と聞こえる世界の境目。
切り替わる瞬間は自分にしか分からない世界。
これをどうにか表現してみることが、これから作ってみたいと思っているもので、それこそが自分だけの世界を生むと思っている。
モノクロとカラーの境目に何かあるのではと考えてはいるが、まだ最適な表現が見つかっていないもの。

筆で描くような写真

最近試みている手法で、カメラを振り回しながらそれでしか生まれない表情を探している。
色は歪み形も歪む、ただ何が正体なのかわかるもの。

決してSNSに上げるような写真ではないけれど、写真を撮る一つの拠り所になるかなあと願って、花粉が終わったら撮っていこうと思っている。

ではまた







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