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カエルの子

私が大学受験に失敗して予備校生になった頃、父の病気が発覚した。1995年、平成7年のことだ。

父の病気はかなり重かった。医師からは、もしこのまま放っておいたら2ヶ月も持たずに亡くなっていただろうと言われた。それほど、深刻な状態だった。

父は住んでいた街から30キロ離れた、その道の権威の医師と、専門の医療設備のある大病院に入院した。

その病院はたまたま私が通う予備校に近かったので、私はその日から、父の着替えの交換などの世話を担当することになり、その流れで私はほぼ毎日、病院の待合室で受験勉強をすることになった。

そのときに、おそらく人生ではじめて、父と”雑談”をする機会に恵まれた。

中学の教師だった父は、特に受験生のクラスの担任をしている時などはとても忙しく、家庭ではあまり饒舌ではなかった。むしろ機嫌が悪いことが多く、小さな頃の記憶は叱られたことばかりだ。息子の私からすると、父はいわゆる「厳格な父親」でしかなかった。

そんな父としたこのときの”雑談”は、とてもたくさんの影響と効果を私にもたらした。何より大きかったのは、父に認めてもらえた、と思えたことかもしれない。

ほぼ毎日待合室で勉強をしている、病院には似つかわしくない若者は、決して短くない入院期間を過ごしていた患者さんたちからすると、暇つぶしの対象となったのだろう。何人かの患者さんは私によく話しかけてくれて、やがて自然と仲良くなった。

いろいろな話を聞く中でも、彼らが話す同室の患者である父とのエピソードは新鮮だった。「ジュニア(と彼らは私のことを呼んだ)の親父がこの前患者さん同士の言い争いをみごとに収めてさ。ホントすごいんだよ。みんな困ったときは竹田先生に相談してるよ。」

そんな話から見えてきた父は、柔軟でフェアで、傾聴の人だった。

知らなかった父の一面を知り、父の人間性を知り、誇らしく思えるようになったこの期間は、私の人生のターニングポイントになっている。この時を境に、私は以前よりも自分に自信を持つことができるようになった気がする。

父はいつも前向きに、気丈に日々を過ごし、終始泰然自若とした姿勢で闘病しつづけたが、残念ながらそれから6年後になくなった。

小康状態だった父の病状が突然悪化したのは2月に入った頃だった。もう何度目になるのかわからない入院をした日、父の病室にいると、担当医が私と母を個室に呼んで言った。「吐血が始まってしまったらあと3日だと思ってください。」

この頃私はすでに社会人になっていた。母の実家があったこともあり、いつか住みたいと思っていた東京で大学生活を過ごした私は、そのまま東京のベンチャー企業に新卒入社し、1年が経っていた。当時は働き方改革もなければ「ブラック企業」という言葉もない時代。慣れない仕事にまみれ、深夜の帰宅になる日々の中、土日になるべく時間をつくって4時間ほどかけて実家に帰って父を見舞う日々だった。

担当医から宣告を受けたそのときも、そんな日々の中を縫って帰ってきた週末だった。

2日ほど過ごした日曜日の夕方、ベッドに横たわる父に「またくるよ」と声をかけ、帰りの特急に乗った。

夜10時に近づいた頃だっただろうか。
東京に着き、住んでいる一人暮らしの家のある駅まであと少しというところで携帯電話が鳴った。弟からだった。
「親父の吐血が始まったよ。でもそんなに急ぐことはないってお医者さんも言ってるから。もしできたら明日、帰って来れる?」
短いやりとりをかわし、明日帰ることを約束して電話を切った。

それからしばらく電車に揺られながら、眺めるでもなく外の景色を目で追っていた私は、突然何かに背中を押されたように立ち上がって、向かい側のホームに来た電車に飛び乗った。

なぜそうしたのかはわからない。
ただ、今帰らないといけないように思ったのだ。

以前一度乗ったことがあったので、夜行の特急があることはわかっていた。


1週間ほど前から、東京から祖父母が実家に来てくれていた。少し前まで安定した容体だった父の様子をちょっと見に来たつもりだった二人は、大した準備もしていない中、急な父の容体の変化に、予定をだいぶ延長して手伝ってくれていた。
そんな状況だったから、二人はさすがに一度、東京に帰って用事を片付ける必要があった。
でもその日は、私が戻ってきた明け方過ぎから降り出した雪がものすごい勢いで積もり続け、近くの駅から乗れるローカル線はかなり遅れているようだった。

やむなく、特急が出る隣町の駅まで私が車を運転して二人を送ることになった。当時運転免許を持っていたのは私と母だけ。母はとてもじゃないが車を運転できる状態ではなかった。

出かける前、重苦しい空気に包まれた病室を少しでも和ませることができたらと、私は弟に軽口を言った。
「オレが戻ってくるまで親父を生かしとけよー」

その日はその年一番の積雪だった。通常であれば20分程度の駅までの道のりは、視界の悪さと渋滞で、結局1時間かかってしまった。
二人を見送って、狭い駅の構内でしばらく会話を交わす。雪がだいぶ積もっているせいか、壁の温度計が示す気温の割に、そこまで寒くは感じなかった。しばらくして特急が到着し、気をつけてねと見送って、さあ戻ろうと外に出た。

その時だった。

目の前に驚くような光景が広がっていた。さっきまで降っていた雪が止んでいる。そればかりか、大雪が嘘だったかのように空が青く晴れ渡っていたのだ。

今も目に焼き付いているその空の青さは、はるか遠くまで澄んでいるように見えた。

何が起きたのかとしばらく立ちすくんだあと、気を取り直して車に乗る。
でも駅の前の道を左折したときに、またしても私は驚く光景に出くわした。直線道路の信号が見える限り先まで全部青だったのだ。
私はそのまま、まるで何かに導かれるかのように、あっという間に病院にたどり着いた。時間にして15分もかからなかった。

父の病室の前には見慣れない機械が置かれていた。さっきはこんなのなかったのになんだろう。そう思いながら部屋に入ると、担当医が心臓マッサージをしていた。
慌ててベッドに駆け寄ると傍らに立っていた母が泣きながら言った。
「あなたが帰ってくるまではって、もうずっと心臓マッサージしてくださってるんだよ」
やり遂げたように私を見た担当医が手を止めて私に場所を譲る。
「ごめん親父。待たせたな。ごめんな!」
わずかに鳴っていた心電図の音の間隔が少しずつ広くなっていく。
やがて一定のブザー音のようになった。


あとで聞いたら、心臓が止まり出したのは私が病室に着く20分ほど前だったそうだ。
それはちょうど空が突然青く晴れ渡ったあの時と同じ時間だった。

父はおもむろに大きな深呼吸をしたあと、そのまま息をするのをやめ、やがて心臓の鼓動が弱くなりだしたのだそうだ。慌てて駆けつけた担当医が心臓マッサージを始める。しかし心臓の鼓動はなかなか自律しない。5分、10分と続ける中、母は言ったそうだ。「お父さんが痛そうだからもうやめてください。」

でもそれを弟が止めていた。「アニキにさっき生かしとけよって言われたんだよ」担当医はご長男さんが来るまでと、ずっと心臓マッサージを続けてくれたのだそうだ。
おかげで私は父の死に目に会うことができた。


この経験は私に「自分は生かされている」ということを強く感じさせる出来事になった。自分は自分一人で生きている。どこかでいつもそう思っていたし、そう思うことが大人になることなのかもしれないとすら思っていた。

でもそれは違った。

なぜ、明日で良いと言われたのに、向かいのホームの電車に乗ったのか。
なぜあんなに降り続いていた雪がやみ、空が青く晴れ渡ったのか。
どうして信号が全部青になったのか。
そして、弟に言った軽口。心臓マッサージを続けてくれた担当医さん。

実は知らないうちに、いろんな人に助けられ、人ではない何かからもパワーをもらい、そうして自分が生きているんだと思わざるを得なかった。


後日、父の弔問に何人もの方々がいらしてくれた。その中には父の教え子も何人かいた。どうやら私は父の若い頃に似ているらしい。まるで父に話すかのように、私にたくさんの人が思い出話をしてくれた。

そのうちの何人かは、父の影響で自分もいま教師をやっているんだと言った。ふと、親父が生きた意味はこういうことなのかも知れないと思った。

50歳になる直前で亡くなった父の一生は決して長いものではなかった。心残りもやり残しもきっとたくさんあっただろう。
でも、父はとても大きな生きた証を残していた。父が生きていなければ、この人たちは教師になっていない。

父は世界を変えていた。

このとき私は、自分の使命のようなものを知った気がした。
自分が存在することによって、誰かによい影響を与え、その影響を受けたその人が何かしらを世の中に残し、そしてまた誰かによい影響を与えてゆく。そういう連鎖を作っていくことはものすごく大きく、意義のあることなんだ。
これは父からの、最後にして最大の教えだった。


父が亡くなる少し前のことだ。かなり長く乗っていた車にいよいよガタがきていた。その時父はもう、病気が進行していて、自分で運転することはできなくなっていた。だから、母が取り回ししやすい軽自動車に買い替えたのだった。

その新車が納車された日に父が言った言葉が忘れられない。
「オレが最後に乗る車は軽自動車だ。結局カエルの子はカエルだから、オマエも無理すんな。」

私は父のように人を残せる人間になる。
そして、いつかあの世で父に会ったときにこう言いたい。

「カエルの子はカエルだっただろ」と。

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