「初めての海外旅行の思い出」についてみんなで書いてみよう!
みんなでオムニバス形式の記事を書いてみよう!の第四弾です。今回のテーマは「初めての海外旅行の思い出」です。
新型コロナウイルスの感染拡大により、Jリーグの試合が延期されて1か月が経ちました。J3は4月25日、J2は5月2日、J1は5月9日からの再開を目指すと発表されていますが、本当にそうなるのかは予断を許しません。
また、アウェイへの観戦は2か月ほど「自粛」をお願いされることになるようです。しばらくの間、気軽に旅はできない情勢になっています。
今は不要不急な旅はするべきではありません。しかし旅は不急ではあっても、決して不要なものではありません。人間が人間らしく生きていくための、様々な発見を与えてくれるものが旅であると思います。
今回はそんな中でも、己の世界が一気に広がるライフイベントである「初めての海外旅行」についての寄稿をいただきました。それでは今回のお品書きです。
「オーストラリアで女子高生も考えた」 屋下えま
「スタジアムツアーで選手と遭遇した」 Ryu-Y
「雨に溶けた6月の香港で」 shaker。
「19歳の春にカンボジアで、きまぐれオレンジロードを読んでいた。」 サカマキ
「人は世界が広がる時、思わず笑ってしまうのかもしれない」 円子文佳
OWL magazineでは、読者を中心としたコミュニティからの寄稿記事を月2本程度掲載しています。今回は僕(円子)以外の記事については無料部分として公開させていただきます。旅とサッカーについて、自分の考えを世に問いたい!という方は、下記からお問い合わせいただければと思います。
オーストラリアで女子高生も考えた
屋下えま
高校2年生のとき、1ヶ月間オーストラリアに滞在したのが私の初めての海外体験でした。
1週間オーストラリアの観光地を巡ったあとに、3週間の姉妹校への交換留学という旅程だったのですが、たった1ヶ月のオーストラリアでの生活によって思い知らされたことをいくつか紹介したいと思います。
1. オージー、めっちゃ泳ぐ。そしてカラダ強い。
ホームステイしていた先の女子高生、水泳部だったのです。
オーストラリアって水泳に力を入れているというか、素晴らしい選手を輩出し続けている国なんですが、姉妹校ってわりとのんびりしたお嬢様学校かと思ってたのに水泳部ガチムチのガチ。
…早朝、数キロ泳いでから登校している彼女につきあって、何故か私も公営プールで3キロだけ泳いでから登校するという予想外のホームステイ生活を送ることになりました。
なんで断らなかったのかと今なら思いますが、当時は(水泳部じゃなくてバスケ部ですが)部活少女で体がなまるよりはましかなあくらいに思っていたのです。競泳もやっていた時期があり、2−3キロなら普通に泳げたので。
夏休みの訪問だったので、当然オーストラリアは真冬。公営プールは外! 水はかなり温かいんですが、真冬です。
とにかく寒くて寒くて、ガチガチ震えながら泳いでいたのですが、オージーみんな全然平気。湯気出てる。この風景をみて、
あ、これ絶対勝てないやつや
と強く思いました。
素のボディが半端なく強い。
(でもこんなホームステイ生活だったの、一緒に行った人たちの中で私だけでした。自分から飛び込んでいないのに、面白いシチュエーションに巻き込まれがちなのは昔からずっと。今も変わりません。)
2. ワールドワイドな判定における老け顔女子高生
だいたいアジア人って、若く見られがちなはず!
という思い込みを持って、オーストラリアに行きました。
予想通り、殆どの同級生が「あなた12歳位に見えるわ」とか言われて、アジア人ってやっぱり若く見えるのねえって話をしているのに、
引率の先生25歳と間違われた私17歳。ノーメイク、ノーヒール、ノースーツ、でも見た目25歳。
同じ時に女子高生と間違われた25歳の童顔先生(スーツ着用)も私と同じくらいどんよりしていたのを忘れません。
3. 英語生活で明るみに出てしまった「自分」、そしてその自分との別離
母語じゃない言語の生活をすると喋りの癖が丸裸になります。
丸裸もいいところ、素っ裸でした。
しゃべるテンポ、単語の選び方、そして文章の組み立て方。
特に無意識に出てくる言葉のなかで、繰り返し繰り返し出てくる単語があることに気が付きました。
日本語よりも言葉のチョイスが少ない英語ならではのことなのですが、
繰り返す単語はわたしの性質や思想を全部表に出してしまいます。
その単語を一つだけここで告白しておきますと
should (~すべき、しなくちゃならない)
という単語でした。
「should」まみれに気づいてから、私は使う単語を意識的に見直すようにしました。
しなきゃいけない、から したい、への変換。
自分がやりたいことも「should」を使って話していたのです。
たぶん、そのほうが楽だから。
規範を自分だけではなく、ほんの少しでも他に置くほうが何かと楽なのです。
でもそれって本当につまらない。
行動におけるすべての主語を自分にしたほうが幸せになれるな、って気づくことができたのが、1ヶ月のオーストラリア生活で得た一番素晴らしいものでした。
以降、自由人の名を欲しいままに暮らしていますが、反省も後悔もまったくありません。
ただし、飲酒を伴う反省会は大好きなのでいつでもお誘いお待ちしております。
スタジアムツアーで選手と遭遇した
Ryu-Y
~この話は、後に妻となる女性と初めて海外旅行に行った時に遭遇した出来事です~
社会人2年目も半分が過ぎようとしていた2017年10月、入社以来携わっていた大きなプロジェクトが無事に完工。まとまった休暇を頂けることになった。学生時代からルネサンス美術に興味を持っていたこともあって、ウフィツィ美術館など名だたる絵画を鑑賞することが出来るイタリアへ行くことに。
それと同時にサッカーを本格的に観始めるようになっていたので欧州サッカーを生で観たい気持ちもあった。当時、長友選手が所属していたこともありインテルの試合を観に行くことに。対戦相手はサンプドリア。
サンシーロは8万人以上収容出来る巨大なスタジアムなのでミラノダービー等のビッグマッチ以外はわざわざネットで予約する必要は無いことをネットでチェック。そうはいっても当日券で万が一売切れたら困るので、スタジアムツアーついでに購入した。(試合5日前くらい。バックスタンド5列目の良席を確保出来た。)
その、何気なく行ったスタジアムツアーで奇跡が起こる。ガイドなどはいなくて、お金を払えば自由にゆっくり見て回る事が出来るのだが、ロッカールームに入る手前で、背の高い男性が前を歩いていた。その横には彼女とおぼしき女性と、抱きかかえられている小さなワンちゃん。ペット持込可とは緩いなあ、と思っていたら、ロッカールームに入ったところで、中にいたおじさんに声をかけられる。
お「やあ、君たちはインテルファンかい。あの選手知ってる?」
R「へ? 選手?(当時、インテルで知っている選手はイカルディと長友くらいだった・・・)」
お「あそこにいるのは、かの有名なシュクリニアルだよ。」
R「はい? すくりにあー? (誰やろ・・・)」
お「写真撮ってあげるよ!ほら、その背番号のところに座って!」
R「は、、はい! (妻とシュクリニアル選手を挟んで座る)」
パシャリ。パシャリ。
お「OK!Grazie!」
R「セ、、Thank you! (シュクリニアル選手と握手をかわす)」
あっという間の出来事で全然頭の整理が追い付かなかったのですが、後から調べてみるとシュクリニアル選手は、若手ながらセンターバックでバリバリの主力選手でした。その場ではあまり騒げず申し訳ない気も・・・
そして、肝心の試合では、そのシュクリニアル選手がCKからのこぼれ球を押し込み先制!点と点が結び付く衝撃とはまさにこのこと。目の前で会った選手がその後の試合で目の前でゴールを決めるなんて夢のようである。しかもシュクリニアル選手は昨季までサンプドリアに所属しており、古巣相手のゴールである。
こうして、妻との初めての海外旅行は一生忘れられないものになった。
雨に溶けた6月の香港で
shaker。
そもそもが映像撮影の仕事もしていたので「仕事で海外に行ったこと」なら結構あった。
けれど、プライベートでの旅行の機会はあまりなかったし、今も残念ながらない。
初めての海外旅行は新婚旅行なのだろうか。そもそも「新婚旅行」のカテゴリに当てはまるのか定かではないが。
2002年の春に入籍した。結婚式は当初予定になかったが、それぞれの親孝行として秋に親戚を呼んで式を行う事にしていた。
私が当時兼業でアルバイトをしていた会社はいわゆるブラックだった。女性ばかりの部署はマウンティングが激しく、結婚の報告を上司にしても、
「そういうの、ウチ関係ないから。苗字もこれまで通り呼ぶね。給与振込口座は苗字変わったらお給料入れないからね」
と言われたくらいだ。何か悪いことをしてしまったかのようだった。
配偶者の会社が、前年の業績が良かったようで、6月に香港へ2泊3日の社員旅行があった。そこへ、
「旅行代は自腹で良ければ、新婚旅行代わりに奥さんも来る?」
と声をかけられた。せっかくの提案なので行くことにした。自分の会社には、
「親戚の結婚式に出席するから金曜日だけ休みを欲しい」
と申し出た。
休みは取れたが、代わりに前日の夜遅くまで残業を積み上げられたのでパスポートと洗面用具程度しか荷造りをする時間もなかった。
そんなわけで飛行機の中で爆睡し、疲れとPMSの症状でボーッと眠たいまま、曖昧に香港へ降り立った。旅の間じゅう、6月の香港は濃い曇りか雨だった。
仕事も忙しく、社員旅行のパッケージだったのでロクに下調べもしていなかった。
覚えているのは、着いてすぐにどこかの山頂の名勝地?で一行の写真を撮り、その後薄雨に溶け込む下界を眺めたり、売店のジュースを買おうとして咄嗟に英語が出ず配偶者の上司に助けてもらった事とか、その晩に乗って会食に向かう時に乗ったのはスターフェリーと呼ぶのだとか、会食の場で京劇の役者さんが五色の面を次々に早変わりさせていく芸を見たこととか…。
ホテルに帰って酔いも回っていた中、ふいに部屋のドアがノックされた。
「新婚さんにはご挨拶しとかないと、って思ってさ」と40代半ばくらいの2人の男性社員がスパークリングワインの瓶を持って来た。
慌ててベッドの上に座り直し、狭い部屋の椅子を2人にすすめる。
2人も酔っ払っていたし、お構いなしに部屋のテレビをつけ、ワインをプラカップに注いでミックスナッツの袋を広げる。
「これね?そこのコンビニで買ったワインについてたの。今ワールドカップでしょ?あげるよ」
サッカーボール風のおもちゃに各国の国旗をあしらった、テニスボールくらいのミニチュアボールだった。
話しながら見ていたテレビには、雨の中で試合をしている青いユニフォームのチームがいた。日本代表ではなかったようだが、なにぶん画質も悪く文字が見えにくい。
翌日は自由行動で、まずはツアーのオプションで予約してあった足つぼマッサージに行った。
とにかく強烈な肩こり腰痛などを持っているのでどれくらい良くなるか。
……爆睡していた。「キモチヨカッタカー」とお姉さんに言われてぼんやりうなずいた。
「アナタカラダワルイネ。キヲツケテ」と言われて送り出された。深セン(土に川と書いてセンと読む)に駐在している友人と会う約束をしていたが、約束の時間にはまだしばらくあった。着替えも持って来なかった私は服を買うべく、今でいうZARA的な安いカジュアルファッション店の大きめのお店を見つけ、そこで新しいカットソーに着替えて友人の元へ向かった。
深センの友人は元気そうだった。彼とは同じ漫画家のファンサイトBBSの常連組で仲良くなった。大阪に住んでいて年も近く、電話やメール、チャットではよく話していた。しかし実際に会うのはその時が初めてで、それは配偶者と3人で、しかもここは日本ですらない!
(ここの辺りで2002年頃のインターネット事情は少し伺い知れるだろうか。当然まだSNSもない)
「いやー、とんでもない出会い方だ」
「そんな時代なんですかね」
そんな会話をしながらすぐに昔からの顔見知りのように好青年だった友人とも打ち解け、2階建路面電車だかバスだったかに乗って移動した。
連れて行ってくれた飲茶のお店はとても美味しく、ここで飲んだ中国茶が烏龍茶よりあっさりしていてとても美味しかった。
「え?さっきのお茶?…あれ水仙茶だよ。割とどこにでもあるから」
そう言って少し裏通りに案内してもらい、まずは中国茶の古いお店でジップロックにぱんぱんに詰まった水仙茶を手に入れた。
その裏通りをさらに行くと、小さなCDショップがあり、日本のJ-POPのCDがあり得ないパッケージで売られていた。つまり「そういうお店」だった。モーニング娘。も小田和正も平井堅も中国語のパッケージで日本で出ているアルバムの曲構成にないものだった。
「これはこれで買いだねー。よくこんなお店知ってるね」
「こんなん香港どこにでもあるわ」
と言われて3人で笑っていくつかCDをお土産にした。
その後深センに戻る友人と別れて義母のお土産にペニンシュラホテルの紅茶を買って、雨が上がった前の道を歩いたりした。
日韓W杯の結果は皆さんの方が詳しいだろうし、友人はその後日本に戻って来てしばらく中国と日本を行き来しながら、今は美人な中国人の奥様とかわいいお子さんに恵まれて福岡にいる。
新婚旅行と呼ぶにはささやかな旅だったが、思えば友人との出会い方や、買って帰ったパチモノのCD、W杯に便乗したおもちゃをつけたワイン。
いろいろな所に、2000年代始まりの頃の時代の感じが詰まっていると今にして思う。
あの時ぼんやり歩いた香港はきっと今はずいぶん変わってしまった事だろうが、あの日の香港の街は、もしかしたら雨の向こう側をくぐった先に、まだあるのかもしれない。
19歳の春にカンボジアで、きまぐれオレンジロードを読んでいた。
サカマキ
先日、バンコクの伊勢丹が閉店するというニュースを目にした。
バックパッカーに憧れた10年以上前、初めての海外一人旅の最終目的地だったバンコクで、帰りの飛行機の中で読む本を買いに伊勢丹内の紀伊国屋へ行ったのだ。確か買ったのは沢木耕太郎で、ベトナム旅行の紀行文。タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアを巡った後の自分には、耳に馴染みのある地名がいくつも登場し、追体験をしているようだった。当時とはバンコクも変わっているだろう。
スマートフォンの無い時代の暇つぶしの主役は、活字だった。本であり、日記であり。絵心や楽器があれば話は違ったかもしれないが、そんな特技は残念ながら持ち合わせていなかったし、ボールがあれば言葉が通じなくても友達になれるなんてコミュニケーション能力も、身体能力もなかった。
旅行の大部分を占めるのは、移動でも観光でもなく、暇つぶしだ。バンコクからアユタヤまでの鈍行列車の中や、早朝到着した駅では他の旅行者から譲って貰った「深夜特急」を読んでいた。ベトナムコーヒーを飲みながら。ホーチミンでは扇風機が壊れて蒸し暑くて眠れず、偶然部屋に置いてあった三島由紀夫の「金閣寺」と角田光代のエッセイを朝まで読んでいた。ライトノベルに紀行文、歴史小説、エッセイ、ホラーに推理もの。こんな時だからこそ手を出さないジャンルに挑戦し、じっくりと時間をかけて読み進める。読み終えた本を旅行者同士で交換したり、泊まったゲストハウスに1冊置いていく代わりに1冊持っていくなんてのもあった。今でもこんな交流はあるんだろうか。
本で思い出すのはあの頃泊まった日本人宿にはどこも異常なほど漫画が置いてあったことだ。
大抵それなりの冊数が揃っていて、誰かが持ち去ったのかシリーズものが歯抜けになっていたりする。誰がどうやって持ってきたのだろうか。
バンコクのカオサン通りにあった今は無き「さくらゲストハウス」には、マンガルームなるマンガで埋め尽くされた一室があって、そりゃあ150バーツで泊まれて一日中マンガ読んでいられるなら沈没もできるなあと納得した。夜行列車が来るまでの時間潰しに「BECK」を読んだ気がするが、途中までしかなかったので結末は未だに知らないままだ。
カンボジアのシェムリアップという街では、昼間は観光し、夜はひたすらマンガを読んでいた。旅も終盤になると、世界遺産だろうが、いかに文化的価値の高い寺院だろうが、どれも同じように見えてくる。すると観光が少しずつ億劫になってきて、自然とゲストハウスで過ごす時間が増える。そんなとき漫画は格好の暇つぶし道具だ。「きまぐれオレンジロード」、「究極超人あ〜る」、往年の少年漫画はどうしてこの単行本はこんな異国の街に流れ着いてきたのだろうか。棚の一角を占めている「沈黙の艦隊」は全巻揃っているのだろうか。そんな疑問が頭をよぎりながら、ページをめくっているうちに夜は更けていく。
今思うと、この頃の旅はどこでどんな本を読んだか、どんな音楽を聞いたかを明確に思い出すことができていたし、その作品を思い出すと旅先の思い出も一緒にフラッシュバックする。しかし、スマートフォンになった頃からそういったことも減ってしまったように感じる。
初めての海外旅行に思いを馳せて、久しぶりに超人あ〜るを読んでみようと思う。
他の人にはわからない、カンボジアの記憶が蘇ってくるかもしれないから。
人は世界が広がる時、思わず笑ってしまうのかもしれない
円子文佳
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サポーターはあくまでも応援者であり、言ってしまえばサッカー界の脇役といえます。しかしながら、スポーツツーリズムという文脈においては、サポー…
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