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父の教え

父は日本の食事マナーに厳しかった。
お箸の禁じ手、咀嚼音、立て膝や肘付きなど指摘されることは多かった。

だから大人になってから箸渡しをしてる人たちを目の当たりにした際は、罪人を見るような眼差しを向けてしまった。
しかし、自分の頭でよく考えてみると、どうして箸渡しや、寄せ箸、立て膝などがいけないのかはよく分からなかった。他人に聞かれたらどう答えよう。「箸渡しは亡くなった方の遺骨を拾う動作と同じで縁起が悪いから。」と答えても、「縁起なんて私は気にしません。」と言われたらそれまでだ。立て膝や肘付きがいけない理由も、「いけないことだと教わってきたから。」としか答えられない。

物心ついた時から父から「クチャクチャ」という咀嚼音は他人に聞かせてはいけないと言い聞かせられてきて、不意に音を出してしまった時には引っ叩かれることもあった。また、咀嚼した食べ物を人に見せることも禁じられていた。だから口に物が入っている状態で話すと叱られた。やるなと言われるとやってみたくなるもので、一人でおやつを食べている時に鏡の前で思いっきり口を開けて咀嚼してみたことがある。唾液と混ざってペースト状になっていくまるごとソーセージ。動きがゴミ収集車みたいだった。こりゃ人様に見せられる代物ではないなと納得した。

大人になってから所謂‘‘クチャラー’’に出会した時は驚いた。不快な音と共に、口の中で咀嚼された食べ物がリズミカルに顔を出すのだ。
裸の人を見ているみたいな感覚だった。
注意すべきか考えたが、その時、幼い頃の記憶が蘇ってきた。幼馴染一家と食事をしている時、幼馴染の大きな咀嚼音が気になった。私の両親と兄姉、幼馴染の両親、兄妹がいる前で注意したところ、幼馴染一家が帰宅した後、私が父に叱られた。幼馴染にも、その両親にも恥をかかせたのだぞ、と。父にいけないことだと教わってきたからいけないことをしている幼馴染を咎めただけなのに、なにが悪いのか分からなかった。父の言い分は、幼馴染のことはわざわざ複数人の前で咎めて晒し者にするのではなくあとでこっそり教えてやれと、幼馴染の両親については親の顔が見たい理論で場都合が悪いだろうというものだった。私は空気の読めない子供だったが、それにしても齢一桁の子供にそこまで慮れというのは酷のような気がする。

とにかく、クチャクチャ音を立てることについて指摘する際は慎重にせねばならないという認識があったため、面倒臭くなってしまって特に注意しなかった。
後日その方のご家族も交えて食事をした際、一家総出で同じ音を奏でていた。生まれた時からその環境にいたら、そうなるものなのだろう。
私は親の刷り込みで、それが不快なものだという認識をしているから不快に感じるだけなのかもしれない。

とかなんとか思考を巡らせてみたけれど、黒板を引っ掻く音は誰に教わらなくとも不快に感じるから、クチャラーが奏でる音もそれと同じで単に多くの人の鼓膜が喜ばない音だから忌み嫌われている、ただそれだけだ。
立て膝や肘付きも、何が悪いってそれを見る人の気分が良くないから、ただそれだけなのだ。

大人になった今、一人で食事する時は足が痺れるからと膝を立てて食べることもある。ヨーグルトの蓋も舐める。毎食味噌汁があるわけでもないからねぶり箸もする。
だが、それらの所作が、私にとってのクチャラーと同じ様に誰かを不快にさせてしまう可能性があるから、他所ではやらない。
取りこぼしてしまっているマナーはまだまだあるのだろうが、最低限のマナーを教えてくれた父と母には感謝をしている。

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