見出し画像

自己紹介続き

大学選びはとても苦労しました。
大学進学の際、関東の強豪大学サッカー部のセレクション1つと、練習参加に1つ行きましたが、どちらも結果は「不合格」でした。
個人的には手応えがあったので、2つのうちのどちらかは合格だろうと思っていたので、とても落ち込んだと同時に、行く大学の選択肢がゼロになってしまいました。

自分の周りではどんどん進路が決まっていく中で焦っていると、当時の高校の担任から埼玉県の城西大学を勧められました。
勧められた時、「どこだそれ?初めて聞いたわ」と内心思いましたが、行くあてが無かったこともあり、渋々城西大学について調べてみると、サッカー部は当時の埼玉県リーグで3連覇していました。
ここなら自分がいる4年間で関東リーグに昇格して、プロになれるかもしれない。と思い、受験することに決めました。
受験は指定校推薦ということもあり、無事に合格することができたのは、高校3年の12月です。

翌年4月、城西大学経営学部に入学しました。

城西大学は部員が200人近くおり、今までJリーグユースの少人数精鋭でやってきて自分にとって難しい環境でした。

入学してから最初の1ヶ月は新一年生だけでの練習期間で、その後部内のトップチームから1番下のサテライト2という5つのカテゴリーに振り分けられました。
入学早々に怪我をしてしまった自分は、1番下の「サテライト2」に振り分けられました。

どうせすぐに上のカテゴリーに上がれるだろうと、変な自信がありました。しかし蓋を開けてみるとその後なかなか1番下のカテゴリー抜け出せずにいました。
「なんであいつが、自分より上のカテゴリーにいるんだ、俺の方が上手いのに」と思っていました。ベクトルが自分ではなく、外部要因に向いていました。

結局は最初の2年間は1番下と、下から2番目のカテゴリーを行き来して終わりました。

「大学に来て、一人暮らしをさせてもらってまでサッカーをさせてもらっているのに、俺は何をしているんだ。」と葛藤の日々。

山雅ユースの集まりに行き、近況報告の話になると、他のみんなは早々にトップチームやトップサブでプレーしているのに、自分は「1番下のカテゴリーでやっている。」というのが恥ずかしく、当時その話になるのが怖かったのを覚えています。

このままで終わらない、絶対這い上がると思っていた矢先の大学2年11月、自主練習中に膝を負傷しました。
病院に検査に行くと、全治3ヶ月を言い渡されました。しかし思いの外、落ち込むことはなく、むしろ成長のチャンスと思いました。
この機会に1から体を鍛え直して、復帰するイメージがあったからです。
またこのリハビリ期間にサッカーについても勉強し直そうと思い、海外サッカーをたくさん観ました。

予想以上に膝の痛みが引かずに苦労して、復帰したのは怪我から8ヶ月経った頃でした。
怪我から復帰すると、衰えているどころかコンディションが良く、どんどん良いプレーが出来るようになったいました。これはリハビリ期間に筋力トレーニングに励み、海外サッカーを観てイメージトレーニングをしていた成果だと自負しています。
怪我はプレーできない分、マイナスであることは間違いないけど、自分のプレーを再度見つめ直したり、肉体改造をするキッカケで成長出来るチャンスがあると気がつくことが出来ました。

大学4年になるタイミングで監督が代わり、サッカー部の体制が大きく変わりました。

部内のカテゴリーが5つから、3つに変わり、大学4年目にして初めてトップチームに入ることが出来ました。

ここで試合に出て、関東リーグに昇格することが出来れば、プロになる可能性がある。
そう思ってリーグ開幕でレギュラーになる為に必死で練習しました。
しかし、トップチームで一度も公式戦に出場することは出来ませんでした。

大学4年間が今までの自分のサッカー人生において1番頑張ったと自分で言えます。

自分に何が足りないかを考え、身体づくりに励み、海外サッカーを観て戦術を学び、居残り練習をし、仲の良い後輩を誘って一緒に朝のコソ練もしました。
その結果、ずっと部内において下の方のカテゴリーだった自分が最終的にトップチームまで登り詰めることが出来たのです。
どんな立場にいる人も成長出来るんだと身をもって実感しました。

今日はここまでにして、次で僕がフットサルに転向した理由と現在について書こうと思います。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?