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【長編小説】「水槽の魚」


 七時になろうとしているのに、今朝はまだ薄暗く、青い。庭を見ると、まるで水の中のように静かだ。しんしんと雪が降っている。

 そろそろ娘を起こさないとならない。なのに、青い景色が愛梨を神妙な気持ちにさせる。体が思うように動かせない。
 いまだ忘れられない思い出を揺り起こした。

 こんなだからわたしはダメなのだ。家庭ひとつ守れない。自分を責める。

 一度目の結婚も失敗した。あれは若気の至りだと言ってしまえば片付けられるが、今回は子供もいるのだ。

 夫は車のダッシュボードに入れてある離婚届に気づいただろうか。
気づいて平静を装っているのなら、彼はかなりの役者だ。
 しかし、裏表のない極めて善人な夫が、そう器用に立ち回れるはずがない。まだ気づいていないのだ。
 どうしようか、いっそのこと、夫の鼻面に叩きつけようか。
 夫は、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするだろう。そして微笑むだろう。
「話してごらん。君の中に渦巻く思いを」
 そう言ってわたしの手を優しく包むだろう。

 優しいのが、いやなの。

 まかり通る言い分じゃない。かえって彼は笑うだろう。
「愛梨、おいで」
 彼はわたしを抱きしめようとするだろう。

「やめて! だからわたしは苦しいの!」
 あなたを愛していないの。どう頑張ってもあなたを愛せないの。わたしが愛しているのはあなたじゃないの。

「じゃあ、どこの誰なんだい?」
 訊かれても答えに困る。なぜなら、どこに存在しているのかなんて、もうわからなくなってしまったからだ。遠い昔に。

 涙を堪えた。静かに涙を流すだけでは済まなさそうだからだ。いったん涙が流れたら、発狂したように泣くだろう。
 あの夜のように。

1.
 兄にメールを送って一週間経ったが、返事がこない。いつもそうだからあまり期待はしていなかったが。
 東向きの兄の部屋は、もう何年も使われていない。帰ってこないのだ。
 大学を卒業すると早々に独立し、単身アメリカへ渡った。家族の誰がかけても電話にはまず出ない。
「私たちが死んでもああなのかしら」母はよくこぼす。
 愛梨とは九歳離れている。兄ももう自分の人生をしっかりと固めているのだろう。
 愛梨の誕生日にだけは短いメールをくれるが、どこで何をしているかの問いに返事が来ることはなかった。
 それでも、メールに綴った弱音に対して、何かひとことだけでも欲しかった。

 階下が何やら騒がしい。愛梨は流していたCDを止め、部屋から出た。
 廊下の欄干に手をかけてそっと覗く。母親が吹き抜けの玄関ホールに立ち、二階を見上げて愛梨の名を連呼していた。観葉植物に隠れるようにしていた愛梨と目が合った。
「やだ、気持ち悪い。幽霊かと思ったじゃない。いるなら返事くらいしなさいよ」
「なあに?」
「お父さまが今夜香港から帰ってくるのよ。さっき電話があって」
「そう」
「そう、じゃないわよ。あなた、お父さまにはきちんと説明しなさいよ」
「なにを?」
「離婚のことに決まってるじゃない。他に何があるのよ」
 えええ、愛梨はうなった。
「そんな調子だからあなたは何をやっても上手くいかないのよ。すこしは頭を使いなさい。あと、引きこもっているのは勝手だけど、一日中部屋着でいるの、いい加減やめなさい、だらしない。わかったわね」
 あくびめいた愛梨の返事が気に入らなかったのか、母親はまくしたてた。
「その陰気な顔、何とかしなさい。またお父さまを怒らせるのだけはやめてよね。あなた、自分は人を怒らせる天才だって認識はある? あるのならもっとちゃんとしなさい。わかったわね、返事は?」
 愛梨は息を吸ってやけっぱちのように叫んだ。「わかってるわよ!」
 ドアを閉めると、今度は家政婦の道子を呼ぶ声が響いた。主の久しぶりのご帰還とあって、異常なテンションだ。

 窓の外を見て深いため息を吐いた。父親の重苦しいうなるような声を思い出した。
 若い頃に自ら立ち上げた会社を海外にまで広げた父親は、今も精力的に外国を飛び回っている。数ヶ月に一度急に帰り、何日かを家で過ごす。いないことの方に慣れてしまったからか、父親が家にいるとひどく疲れる。
 幼い頃は手土産の人形やお菓子に愛梨も飛びついていたが、やがて興味は外国の紙幣へと移り、思春期になると父親とは必要以上の接触を避けるようになった。

 庭を見下ろすと、ずんぐりむっくりとした作業着の男がバラの中に顔を突っ込み背を丸めている。
 バラは毎年春と秋に色鮮やかな花を咲かせる。
どれも母親こだわりの品種らしいが、手入れは庭師の柴田にすべて任せている。
 この柴田という男は曲者で、母親に対しては調子よく振る舞っているが、愛梨が側を通ると、じっとりと絡みつくような視線を送ってくる。たまに柴田が昼食の手弁当を食べる時間に、お茶を持っていくよう母親に命じられるが、愛梨はそれが嫌で、正午近くになるとわざと弾きたくもないグランドピアノの蓋を開けた。

 三歳から習い始めたピアノだけが愛梨の唯一の取り柄で、母親は音大を目指すことを娘に強いた。
 中高一貫の女子校を卒業し、音大受験は難なく成功した。そこまではよかった。しかし夢なり目標なりをまるで抱くことなく入学した愛梨は、学生たちの異様なまでの競争心と殺気立った練習風景を目の当たりにし、怖じ気づいた。
 それでもついていこうと必死で練習をした。食事をとることを忘れ、気づいたら半日経っていたというのもざらだった。
 やがて自らの音楽価値観を見失い、教員免許でも取って適当に卒業しようと、他の器楽科の男子学生たちと遊び惚けるようになった。
 そんな愛梨を面白くないと思う者がいたのだろう。あることないこと悪口を吹聴され、次第に孤立していった。
 愛梨は母親に相談することもなく、二年になるのを待たずに退学届けを出した。

 それからは新たに何かを見出だそうとする気力も湧かず、仕事に就くわけでもなく家に寄生し、ぐうたらと過ごしていた。それについて咎める両親でもなかった。クレジットカードを作って渡してくれもした。その代わりに母親からは強い干渉を受けた。

 その干渉から逃れるためでもあった。友人宅でのバーベキューパーティで知り合い、何となく付き合っていた男に求められるがままに結婚した。

 相手の男は経済力は並みなサラリーマンで、理系で賢く見える外見もあり、両親は何の反対もしなかった。
 むしろ母親は手放しで喜び、披露宴の準備を仕切る張り切りようで、父親はマンションの一室と車を買い与えてくれた。
 ハワイで派手な結婚式を挙げ、愛梨も自由で安定した生活を確保できたものとたかをくくっていた。
 早朝から起きて夫の弁当を作り、夕食はインターネットのレシピを見て手の込んだ料理を食卓に並べた。掃除も洗濯も難しいことではなかった。家庭的なことの方が向くのではないかとさえ思えた。

 夫は一晩中パソコンに向かっていたが、仕事に打ち込める環境を作るのは自分の役割だと思っていた。
 夫の言動が少々荒いのも、自分に何か落ち度があるのだろうと考えた。
 そう操っていたのは夫だということになかなか気づけなかった。

 半年ほど経ったある晩のことだ。深夜に起き、水を飲みにそっとリビングへ行った。
 灯りも消された中、夫が熱心に見入るパソコンの画面は、二次元の幼女のあられもない画像で溢れていた。小刻みに動く夫の背中にいわれようもない吐き気を覚えた。
 何故か結婚後も愛梨には触れようともしない夫。そういう類いの人間ほど特殊な性癖をひた隠し、社会的な面目を大切にする。愛梨はやっと気がついた。自分はいいかもにされたのだ、と。

 愛梨がその性癖に気づいたことを感じ取ったのか、夫の態度はあからさまなものになった。
「三食昼寝つきのお前とはちがうんだよ」「熟睡できないからお前はあっちで寝ろよ」などと言い放ち、激昂すると家具を蹴る。
 ソファで寝る日が続き、終始身を固くし、神経は疲弊していった。
 不眠症に陥り、まともに思考も働かなくなった。体重が四十キロを切ったのを折りに、愛梨は夫に尋ねた。
「わたし、どうしたらいいの」
 夫は喉を鳴らして缶チューハイを飲み、言った。「首でも吊れよ」
 夫のネクタイを手に取って見つめていたが、実行はしなかった。そして身ひとつで家を出た。

 何も話したがらない愛梨を尻目に、母親は裁判だ慰謝料だと息巻いていたが、手紙のひとつも添えられずに送りつけられてきた離婚届に、愛梨があっさりと署名し提出してしまったので、それ以上の干渉は止めた。

 父親は簡潔さに欠ける会話を嫌う。必ず「要点だけを話しなさい」と言う。そう言われると萎縮し、かえってしどろもどろになる。そして頭からやり直しさせられるか、「もういい」と部屋に帰されるのだ。
 高校生の頃だったか、ノートに箇条書きにしてくるようにと言われたことを思い出し、愛梨はデスクにノートを広げた。
 頬杖をつき、指先でリズムを刻む。シャープペンの芯をカチカチと出したりデスクに当てて引っ込めたりする。何も思い浮かばない。文章を書くことは昔から苦手だった。夏休みの読書感想文も、ほとんどを家庭教師に書かせていた。
 もうどうにでもなれ、とノートに書くことはあきらめてペンを置き、父親を出迎える服を選ぶことにした。

 夕方五時を回った頃、インターホンが鳴った。父親の帰宅を知らせるものだ。
 母親と愛梨と道子が玄関ホールに並ぶ。扉が開いた。父親が入ってきたが、本来ここにいないはずの愛梨が立っていることには特には何も触れずに靴を脱いでいた。
 父親の背後から白い手袋の手が伸びた。父親の鞄を持っている。鞄は母親に手渡された。手袋の男が一礼する。愛梨の知る人物ではなかった。新しい運転手といったところか。母親は気に入らないことがあると使用人をすぐクビにする。出入りする人間がしょっちゅう入れ替わるのも珍しいことではなかった。
「また運転手替わったのね」愛梨が母親に耳打ちする。
「あら、今まで気づかなかったの? ああ、あなた引きこもりだったわね」母親は男の方に向き直った。
「山本、この子、娘の愛梨。これからお願いすることもあるだろうからよろしく頼むわ」
「山本と申します。お出かけの際はいつでもお電話いただければすぐにまいります。以後よろしくお願い申し上げます、お嬢さま」
 男は直立不動で玄関ホールによく通るバリトンの声を響かせた。
 黒いスーツを身にまとい、髪はうしろに撫でつけられている。四十そこそこだろうか。ずいぶんと体の大きな男だ。バッファローを想起させる。
「そう、新しい方なのね。よろしくね、山本さん」
 愛梨はつとめてにこやかに首を傾げてみせた。
「さん等の敬称は必要ありません。山本で結構です」男は即座に返した。
 え、なんなの? それが顔に出たのだろう。
「申し訳ごさいません。協会の決まりですので」
 そう言って男は身を屈したが、ちっとも申し訳なさそうではない。筋肉なのかやたら張った肩の厚みと冷ややかな眼差し。ふてぶてしくも見える。
「それではみなさま、おやすみなさいませ」
 山本という男は深く一礼して玄関から出ていった。

「なんなのよ、あの人。感じ悪いのね」
 腹に溜めていられず、愛梨は道子の背中に向かって吐いた。道子は食卓に皿を並べている。
「山本さんですか?」
「いつから家に?」
 道子は手を止め考えた。
「愛梨さまがお嫁に行かれたすぐ後でしたでしょうか」
「そう、あんな態度でよく続いてるわね」
「奥さまは、勘がよくてできる方だ、とおっしゃっていましたよ」
 ふうん。愛梨は色とりどりなオードブルに手を伸ばした。好物の鶏レバーのパテが乗ったクラッカーがある。
「愛梨さま、今日はお行儀よくなさった方がよろしいかと思いますよ」
 道子は笑った。こうして笑って叱ってくれる道子が愛梨は大好きだった。幼い頃は道子が本当の母親だったらよかったのに、と思っていた。
 母親とできなかったスキンシップを、道子は思い切り取らせてくれた。腰に腕を回すと頭を撫でてくれ、出戻った時も、訳など聞かずに迎え入れ、真っ先にご飯を食べさせてくれた。

「ねえ道子さん、わたしが離婚したこと、お父さまは知ってるのかしら」
「ご存知だと思いますよ」ピッチャーでグラスに水を注いでいる。
「だったらあらためて話す必要なんかないわよね。そんな話をしたら食事がまずくなるって怒られるわよね。いいわよね、別に。説明なんかしなくたって」
 ひとりごとなのか相談されているのか察することができないようで、道子はピッチャーを片手に突っ立っている。
「お母さまがね、自分で説明しなさいって言うのよ。なんて説明すればいいのかわからないわ。だって何をどう言ったってわたしが至らなかったってことにされるのよ」
「そうなんですか?」
「そうよ、お父さまは昔からそうなの。いつもわたしが悪いのよ」
「いえ、そうではなくて」
 え? 愛梨は道子を見た。
「本当に愛梨さまが至らなかったからなんですか?」
 じっと観察するような道子の視線をかわし、そそくさと台所へ行き、冷蔵庫を開けた。
「今のうちにビール飲んじゃお」
 出戻ってからの愛梨は、夕食時になると台所に立つ道子を相手に談笑し、ビールを飲んだ。
 母親には「行儀が悪い」と小言を言われるが、変化も刺激もない毎日の、いっときの気晴らしでもあった。
「奥さまに叱られますよ」
 そう言いながらも道子は棚からグラスを出そうとしている。愛梨の背中に母親の声が降った。
「ビールはだめよ、早く席に着きなさい」
 ダイニングを覗くと、着替えを済ませた父親が椅子に座ろうとしていた。肘掛けに肘を乗せ、父親は言った。
「なんだ愛梨、お前ビールを飲むのか。大人になったな」
「台所で飲んでいるのよ、何とか言ってくださいな」
 さっそく始まった。愛梨は着席し、身構えた。ところが父親が言った。
「ビールか、いいな。おい、運んでもらってくれ」
 仕事でさんざん接待を受けているからか、父親が家で酒を飲むことはまずない。
 母親が愛梨に向け、顎を振った。愛梨は父親の気が変わらないうちに、と椅子から飛び上がる。

 道子に運んでもらったビールのグラスに父親が口をつけるのを見て、愛梨はビールをぐいとあおった。
 アルコールさえ回ってしまえば気が大きくなる。このまま食事が済むことを願い、急いた気持ちで入れ替わる皿の料理をたいらげていった。デザートのレモンジェラートを口に運んだ時だ。
「離婚したとはどういうことなんだ」
 ジェラートが鼻の奥に入り、レモンの酸味でむせた。
「安い芝居ね」母親が冷めた口調で言う。
 こんこんと咳をしながら父親の顔を盗み見た。
「訊かれてばつが悪いか」
 笑ったように見えたのは気のせいか。父親はまだビアグラスを傾けていた。数えていたが、三杯目だ。
 質問をされたら間をあけずに答えなければ父親は怒る。そしてシャッターを閉じるように拒絶されるのだ。早く何か言わないと。焦りが喉を詰まらせる。もういい、父親は言うだろう。
「······ごめんなさい」
「何がごめんなさいなんだ」
 愛梨は唇をかんでうつむいた。涙がにじむ。両親の視線が痛い。敗北感が襲いかかる。
「家を飛び出してきたらしいが、何かしでかしたのか」
 愛梨は黙って首を振った。
「ちがうのか。じゃあ何が我慢できなかったんだ」
 答えようがない。洗いざらい話したところで理解など得られないからだ。お前にも非があったのだろう。かえって責められるかもしれない。ぽとぽとと涙が腿に落ちる。
「何をされた?」父親が訊く。
 また首を振った。下顎が震えだしていた。もうどうなってもいいから席を立ちたかった。
「言えないほどひどいことをされたのか」
 父親の口調はどこか柔らかかった。それが愛梨の痛みを刺激した。
「死ねって言われたの······」
「そうだったか」父親は大きなため息をひとつ吐いた。「すまなかったな、愛梨。よく調べもせんまま送り出した俺たちにも責任はあるのかもしれないな」
「あなた!」母親が叫んだ。
「わたしだって······いっしょうけんめい、がんばったけど······」
 愛梨は話してしまおうかと思った。信じてもらえるかわからないが、胸にしまいつづけるのにも限界があった。「でも」と言いかけた時、母親が遮った。
「そんな甘いことをおっしゃるから愛梨は堪え性がないんですよ。何でもかんでも途中で投げ出して。大学だってそうだったわ。結婚しても一年も持たずに逃げ帰ってくるなんて世間様がどう見てるか」
 父親が笑った。声をあげて笑っている。父親のそんな姿を見るのは初めてだ。こころなしか頬が赤い。酔っているのだろうか。
「世間様などいちいち見とらんよ。みなそんなに暇じゃない。愛梨が失踪せずにちゃんと家へ帰ってきた。それでいいじゃないか。辛い過去はさっさと忘れることだ」
 ひどい顔だな、洗ってきなさい。父親にうながされ、愛梨は洗面所へ行った。目の下に溶けたマスカラが広がっていて、本当にひどい顔だった。
小さな頃から容姿だけは褒められてきた。だが実際、愛梨にとってこの顔が武器にも盾にもなった試しがない。
 中学時代に数人から嫌がらせを受けたりもした。「かわいこぶりっこ」机になぐり書きをされた。
 学校での生活や成績を親から気にかけられたこともなかった。だからすべて自分の中で処理をしていた。そうする癖が染み込んでいただけなのかもしれない。

2.
 翌朝目を覚ますと、時計は八時半を回っていた。いつもならもうひと眠りしてしまえ、と再び布団をかぶる時間だが、愛梨は急いで着替え、リビングに下りて行った。
 父親はソファに座り、新聞を広げていた。顔が隠れて表情がわからない。
「おはようございます」
 声を掛けると、父親は小さくうなった。
昨晩父親が笑ったのは夢だったのかもしれない、と思った。
 台所へ行く。皿を洗っていた道子が振り向き目を丸くした。
「あら愛梨さま、お珍しい。ずいぶんと早起きなさったじゃありませんか」
「お父さまは何時に起きたの?」
「六時半頃でしょうか」
 よく怒られなかったな、と一瞬ひやりとした。
「コーヒー淹れてくれる。ミルクと砂糖たっぷりでお願い」
「かしこまりました」
 やけに静かだと思ったら、母親の姿が見当たらない。
「お母さまは?」
「お支度をなさってます。旦那さまとお出かけになられるそうで」
 あらそう。愛梨はマグカップを受け取って、リビングへ戻った。
「どこかへお出かけになるの?」
 尋ねると、父親はまたひとつうなった。そして新聞を畳んでテーブルに置いた。表情が重々しい。何か言われるのだ。
「いつも部屋に閉じこもっているそうだが、友達と会ったりはしないのか」
「······はい」
「なぜだ」
「ノリが合わなくなって。バツイチだってみんな気を遣っているのよ、きっと」
「そんなことを言っていると、ますます距離を置かれるんじゃないのか」 
「別にいいの。何でも話せないなんて本当の友達じゃないわ。だから離れていくならそれでもいいの」
「お前がいいならいいんだが」父親はコーヒーをひと口含む。「しかし、一歩も外へ出ないというのも不健全だな」そしてしばらく壁の額縁を睨んでいた。
 二十号ほどの大きさで、幾何学的模様がいくつも塗り重ねられた抽象絵画だ。何年か前に父親が海外で購入してきたものだ。父親はよほどこの絵が気に入ったのか、船で運んでもらったらしい。
「山本を使え」
 え? 愛梨は聞き返した。
「今日はお前が山本を自由に使いなさい。好きなところへ連れていってもらって、外の空気を吸ってくるといい」
「お父さまたちはどうなさるの?」
「どうとでもなる、気にするな」
「でも、特に行きたいところなんてないわ」
「それなら適当に車を走らせればいい。山本に考えてもらうという手もある」
「でも、今から準備したって時間がかかるわ」
「とにかく家に閉じこもりっきりというのは体に毒だ。精神衛生上もよくない。いいな、山本は十時に来る。すぐに準備しなさい」
 これ以上ぐずる余地はなかった。愛梨は「はい」と答え、重い腰を上げた。

 クローゼットを開け、目についた服に着替え、姿見の前でくるりと回った。「めんどくさ」そう口をついて出たが、時計を見て、スマートフォンをバッグにしまった。
 リビングでは母親がかんかんに怒っていた。
「いやよ、ハイヤーなんて冗談じゃないわ。愛梨だって出かけたくないのよ。放っておけばいいじゃない。なんで愛梨に山本を取られなきゃならないのよ」
「愛梨にだって山本を使う権利があるだろう。お前のものじゃない」
「でも、今日は買いたいものがたくさんあるの。山本じゃないと全部回ってくれないわ」
 父親はしばらくこめかみをかいていたが、やがてこう言った。
「そうか、そんなに買うものがあるのか。それなら車も大きい方がいいんじゃないのか。久しぶりにリムジンを借りるか」
 リムジン、と父親が口にした瞬間、母親の顔には花でも咲いたような輝きが宿った。ころりと機嫌を直す現金さだが、そんな母親を操る父親もさすがである。

 昨夜のカラスみたいな気配の男が玄関にあらわれた。父親は男に説明をし、男はひとつうなずいた。
「お嬢さま、すぐにお出になられますか、それともお支度が整うまで車で待機していた方がよろしいでしょうか」
 バッグを手にしている姿を見ればわかるだろうに、と腹で思ったが、「すぐ出るわ、よろしくね、山本」と無理やり笑顔を作った。
「頼むよ」
 父親がそういうと、山本は「は」と兵隊のように身を屈した。

 門の前に横付けされている車は父親所有のものではなかった。これまでは個人のドライバーと契約し、父親の車で送迎などしてくれていたのだが、今回は勝手がちがうようだ。
見たことのない黒いセダンが停まっている。大きくてつるりと光るボンネットがくじらを思わせた。
 山本は後部座席のドアを開け、右手をひらりと差し出した。山本を見ると「どうぞ」というように軽く首を傾げた。愛梨がそこに手を置くと、もう片方の腕で愛梨がぶつけないように頭をカヴァし、乗り込むのを誘導した。ちょっとだけお姫様にでもなった気分だ。

 ドアが静かに閉められる。山本は大きな体を運転席におさめるとシートベルトを装着し、エンジンをかけた。
「どちらへ向かえばよろしいでしょうか」
 愛梨は広い車内を見回していた。塵ひとつ落ちていない。よく他人の家に行くと独特な匂いを放っていることがあるが、そんな匂いがした。そこまで嫌な匂いではないが。
「まだお決めになっていらっしゃないのでしたら、いくつかプランをご提案いたしましょうか」
「プラン?」
「はい、二、三ですが」
 いやに乾いたしゃべり方が鼻につく。そして前を見据え、こちらを見ることもしない。
「ひとつは、静かに絵画なり水槽の魚なりを観賞するプランです。ひとつは、何か召し上がりたいものをおっしゃってくださればご予約をお取りしますので、ゆっくりとご昼食をとっていただき、あとはショッピングなどを思う存分楽しんでいただくプランです。ひとつは、すこし歩いていただくことになりますが、神社仏閣などの観光名所を巡るプランです。お時間は気になさらずお考えくださって結構です。また、行ってみたい場所がございましたら何なりとお申し出ください」
 まるで淀みがない。こういう事態も想定していたということか。すこし癪に障る。
「ほかにもっと面白いプランはないの?」
「面白いプランでございますか」
 山本は手袋をはめた白い人差し指を立てた。
「では、こういうのはいかがでしょう」
 こういうのとはどういうのだ。訊くのも面倒だった。どんな提案だろうがどうでもよかった。なかば強制的に外へ出されたのだ。適当に時間を潰して早く戻りたかった。
「到着するまでわからない、というプランです」
「なに?」愛梨はシートから背を浮かせた。「どういうこと?」
「着いてみてのお楽しみ、ということでございます」
 お楽しみ、とはずいぶん子供扱いされたものだと思ったが、いっぽうで心がくすぐられたのもたしかだった。
「まあいいわ。それでいきましょ」
「かしこまりました」山本がギアを入れ、車は走り出した。

 公道をいくつか折れ、北西に横たわるふたつの低い山の方へと向かっていた。
 山本の運転は、ブレーキ時にも右左折時にも不快な揺れがないなめらかな走りだった。よくブレーキを何段階にも分けてかけるせいで、こちらの首がぐらぐらと揺れる運転手もいたが、山本の運転技術は過去の運転手と比較してもトップクラスだ。

 山をひとつ越えると、景色は見知らぬものへと変わった。閑散としていて住宅地も途切れた。にわかに不安がよぎる。
「ねえ、ここどこ? どこへ行くの?」
 カーナビはワンセグに切り替えられており、料理番組が映し出されていた。
「お楽しみでごさいます」山本は平べったい言い方で繰り返した。
「お楽しみって言うけど、行き先がわかっちゃったらお楽しみじゃなくなるわね」
「そうでございますね、ただし、わかってしまったらの話ですが」
 ほう、と愛梨は目を細めた。それならば、とバッグからスマートフォンを取り出す。画面をタップする。現在地が表示された。間違いない、やはり北西の山の辺りにいる。
 指でずらすが、画面上には目印になるような建物などはない。
「もしわたしが当てたら山本の負けね」
「負け、でございますか」
「そうよ、お楽しみプランが台無しじゃない。あなたの負けよ。でしょ?」
「そう、ですね」
 山本の声がトーンダウンした。笑いが込み上げる。画面をスライドしつづけた。
「何を賭ける?」
「賭ける、とは」
「この勝負よ。わたしが目的地を当てたら山本の負け。わたしが当てられなかったらわたしの負け。ねえ、何を賭ける?」
「申し訳ございません。賭け事はおろか、わたくしはお嬢さまとだけでなくご家族のみなさまと遊ぶような行為は一切禁じられておりますので」
「何よそれ」愛梨の顔から笑みが消えた。
「わたくしは運転のみに徹し、送迎以上の行為を許されてはおりません」
「行為って、ただの会話のはずみじゃない」
「申し訳ございません。協会の決まりですので」
 昨夜も聞いた台詞だ。そしてやはり詫びている響きではない。
 愛梨は口を曲げてマップを閉じ、スマートフォンをバッグに投げ入れた。

 ビニールハウスや畑のあるのんびりとした未舗装の道路を走る。ゴロゴロとしたタイヤの振動が心地いい。やがて景色は木々が鬱蒼と茂る山道に変わった。すると狭いが駐車場らしき場所に着いた。車が五台分停められる規模だ。そのうち三台が埋まっていた。
 山本がそこに車を停車させるとおもむろに言った。
「ここより徒歩で十分ほど進みますと、素敵な景観がのぞめる場所に出られます」
「素敵な景観って?」
「着いてみてのお楽しみです。では、いってらっしゃいませ、お嬢さま」
「わたし一人で?」
「もちろんでございます。わたくしは車を離れ、行動を共にすることができませんので」
「迷ったらどうするのよ」
「一本道ですのでご安心ください。矢印の看板もお見逃しなく」
 愛梨は不承不承に歩みを進めた。

 遊歩道は石がでこぼことしてパンプスではかなり歩きづらかった。案内の看板には『龍の尾』という文字と矢印が書かれている。
「りゅうのお? たつのお? 何て読むのかしら?」
 野鳥だろうか、聞き慣れない鳥の声が四方から聞こえてくる。
 八月も終わりだが、山道は木に覆われ空気が澄んでいる。早くも背中を汗が流れた。そろそろ十分経っただろうか。だが見渡しても何もない。相変わらずの遊歩道が続くだけだ。
 背後から声が聞こえた。振り返ると初老の男女がスポーティな服装に身を包み、リュックサックを背負って歩いてきた。愛梨を見るなり二人は驚いたように足を止めた。
「あなた、りゅうのびへ行くの?」女性が愛梨に声を掛けた。
「え? ええ」愛梨は答えた。
「その格好で?」
 格好? ブラウスにスカート、パンプスのことだろうが、いけないのだろうか。
「その靴では龍の尾に下りられないんじゃないかしら」
「そんなに険しい道なんですか?」
「山道は険しくないけど、滝へ下りるところはでこぼこ道で急斜面なのよ」
「でも、もうすぐなんですよね」
「すぐと言えばすぐだけど、大丈夫かしら」
「せっかくここまで歩いてきたんだ。危ないところは手を貸しますよ。一緒に行きましょう」男性が言った。
「あ、ありがとうございます」
 つい先ほど車を降りてきたばかりだなどと言えるはずがなかった。
 男女は夫婦で、気さくに自分たちのことを愛梨に話した。
 夫は昨年会社を定年退職し、子供たちはみな家庭を持っているとのことだ。末の娘が嫁いだのをきっかけに、こうして夫婦水入らずで旅行をしたり、山登りをしている、と語った。
 二歳の孫は食べたくなるくらいに可愛いと目尻を下げて話すが、愛梨のことについてはぶしつけに詮索することはなかった。
 もうかれこれ三十分は歩いただろうか、龍の尾はとうに過ぎてしまったのではないだろうか、と不安がよぎった。靴擦れを起こし、足も痛みはじめていた。
「ここから下りるんですよ」立ち止まった男性が手で示した。
 覗くと、木の根が這う下りの脇道があった。草陰の看板の矢印も斜め下を指している。
 愛梨は肩に下げていたバッグを斜めにかけ直した。男性が先に下りて愛梨の手を引き、後ろで女性が手首を持ち支えてくれた。おかげで木の根が入り組む足元も転ばずに進めた。
 水の音が聞こえていた。やがて覆う木も途絶え、ひらけた場所に出た。
 砂利が広がり、川が流れている。右に二十メートルほどの滝があり、水煙を上げていた。
そう大きな滝ではないのに、登山者が多くいた。こんにちは。こんにちは。そこここで挨拶が交わされる。愛梨も声をかけられた。
「こんにちは」愛梨は小さく返す。
 自分だけ場違いな格好だが、それについて問う者もいない。滝から涼しい風が吹く。ここは水浴びをする場所ではないことだけはわかる。みな滝を仰ぎ、写真を撮っていた。
 愛梨もスマートフォンを取り出し、滝を写真におさめた。しばし滝から注がれるマイナスイオンを浴び、涼を得たら、岩に座って休憩している夫婦に言った。
「ここまで本当にありがとうございました。わたしはもう失礼します」
「あら、一人で大丈夫?」
「はい、登る方が楽だと思いますので」
「そうですか、ではよい一日を」男性が言った。

 愛梨は下りてきた道を一人で登った。急斜面ではあるが、木の根に指を引っかければ登れないことはなかった。ひたいから汗が噴き出す。登り切った時、えもいわれぬ達成感が湧いた。
 鳥のさえずりに耳を傾け、草木の匂いを嗅いだ。帰り道を歩いていると、足の痛みがぶり返してきた。そうだ、滝へは山本が行けと言うから行ったのだ。しかも十分で着く、と平気で嘘をついたのだ。急に腹の底からふつふつと怒りが頭をもたげた。踵がひどく痛い。見ると皮がめくれている。
 山本の顔を見たら、まず何を言ってやろうか、と考えながら歩く。四十分ほど歩いて駐車場にたどり着いた。
 愛梨の姿を認めた山本が車外へ出てきて一礼をした。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
 後部座席のドアを開け、右手を差し出す。愛梨はその手を払った。
「何が十分よ、三十分以上かかるじゃない。嘘つき。見なさいよこの足、どうしてくれるのよ」
「そんなにかかりましたか。わたくしが行った際には十分でたどり着いたのですが」
「登山靴で行ったからでしょ。スカートでパンプス姿はわたししかいなかったわよ」
「それを笑う者はおりましたか?」
 愛梨は黙った。たしかに笑う者などいなかった。愛梨はぐうの音も出なかった。
「お乗りください」
 山本はもう一度右手を差し出した。愛梨は手を乗せ、誘導に任せた。
 まだ何か言ってやりたい思いでいた。
「やだ、スカートに泥がついてる」これは独り言だが、わざと山本に聞こえるように言った。
「お食事かお茶でもなさいますか」ハンドルを操作する山本が言った。
「もう喉がからからよ」
「かしこまりました。隠れ家的なカフェが近くにございますので、そちらへ向かいます」
 隠れ家的? 山本の言葉は鵜呑みにするまい、愛梨は思った。
 山道を下ること十五分、広い空き地に出た。山本は隅に車を寄せ、停めた。
「到着いたしました。ごゆっくりお過ごしください」
 山本に手を引かれ車から降りると、敷地に二つの建物があった。ひとつはバンガローのような建造物。もうひとつはプレハブ小屋で「ガラス工房」と看板に記されていた。愛梨はバンガローに向かった。ドアを開けるとカランコロンとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 中は木の梁がむき出しになっていて、テーブルはなく、カウンター席だけだった。
 愛梨が席に着くと、カウンター内の中年の男性が言った。
「今日のコーヒーはグアテマラですがよろしいでしょうか」
 コーヒー豆の種類を言われても知識のない愛梨は、「はい、それをアイスでお願いします」と答えた。「あと、すこしお腹が空いているのですが、ケーキか何かありますか?」
「バナナシフォンケーキならありますよ」
「じゃあそれもお願いします」

 愛梨は洗面所で手を念入りに洗った。鏡を見ると、ブラウスにも泥がついていた。席へ戻ると、店主は言った。
「まさかとは思いますが、登山者ですか」
 やはり泥だらけの服装を見て言っているのだろう。
「無理やり歩かされたの、滝のところまで」
「へえ、龍の尾までですか」
「そうなの。おかげで泥だらけよ」
「それならなおのことご利益があるといいですねえ」
「ご利益?」
「知らないで行ったんですか?」店主は呆れ顔だ。
「ええ。ご利益って何ですか?」
「あそこはパワースポットで有名なんですよ。滝を拝むと、憑き物が払われたように好転する、ってね。お嬢さんも何か災厄に見舞われたりしたんですか?」
「災厄続きの人生よ」
 店主が笑った。「それならもう大丈夫ですね」

 コーヒーは苦く、ケーキは甘かった。愛梨の疲れを癒してくれるには充分だった。
 清算を済ますと、「向かいのガラス工房って見学はできるのかしら」と訊いてみた。
「ええ、できますよ。家内がやってる店なんですよ。ぜひ寄ってください」
 愛梨は礼を言ってカフェを出た。

 向かいの建物に入ると、エアコンがよく効いた室内に、ガラスの作品がところ狭しと並べられていた。
 手に取ると、底に値札が貼ってある。売り物のようだ。大きな花瓶からワイングラス、動物の置物まである。どれもきれいで思わず声が漏れる。しばらく眺めていると、レジカウンターの奥から女性があらわれた。
「あら、気がつかなくてごめんなさい。いらっしゃいませ」
 女性が身につけているTシャツは、汗でぐっしょりと濡れている。
「いま、カフェで美味しいコーヒーとシフォンケーキをいただいてきたんです」
「そうですか、ありがとうございます。もしお気に召しましたら、お持ち帰り用のケーキもこちらにご用意してますので、よろしかったらどうぞ」
 レジの横にリボンで結ばれた袋入りのシフォンケーキがあった。
 愛梨は小さな黒猫の置物と、バナナシフォンケーキを二袋買った。

 ガラス工房を後にし、車に乗り込んだ。こちらもエアコンがよく効いていて涼しい。ハンドルを握る山本に訊いた。
「山本はお昼ご飯は食べたの?」
「わたくしのことならご心配には及びません」
「シフォンケーキがとても美味しかったからお土産に買ったの。よかったら食べて」
「ありがとうございます。ですが、お気持ちだけいただいておきます」
「遠慮なんかしないで。本当に美味しいケーキなの」
 くいとケーキを前へ出すと、山本は手で押し返した。
「わたくしは個人的に金品などを受け取ることができないのです。たとえそれがささやかなお菓子であってもです」
「どうして?」愛梨は尋ねるが、返ってくる言葉の予想はついていた。
「申し訳ございません。協会の決まりですので」
 はいはい、またそれか。録音でもされているのか。愛梨は口を曲げた。
「ずいぶんと厳しい協会なのね。監獄より窮屈そう」
 ひとこと言ってやらないと愛梨も気が済まない。しかし山本は「申し訳ございません」とさして臆する様子もなく繰り返した。
「お疲れになられたでしょう、遠慮なくお眠りください」
 足は痛むし、たしかに疲労感もあるが、出所のわからない笑いが込み上げ、愛梨は眠るどころではなかった。
「ねえ、あなたのせいで足が痛くてしょうがないんだけど」
「絆創膏なら持ち合わせておりますがお使いになられますか」
「どうして滝だったの?」
「お気に召しませんでしたでしょうか」
「わたしの服装見て思いついたのなら、あなた相当などSね。友達いないでしょう」
「ありがとうございます」
「褒めていないんだけど」愛梨は笑う。「滝の写真撮ったのよ、待ち受けにしようかしら」

 門に着けられた車の運転席を降り、山本が後部座席に回り込む間に、愛梨は助手席の山本のセカンドバッグの下にシフォンケーキの袋を隠した。
山本に手を引かれると、やっぱりお姫様になったような気分になる。
「おやすみなさいませ、お嬢さま」
うやうやしく頭を下げる山本に、愛梨は「今日はありがとう」と礼を言った。

 足音を忍ばせて台所へ行くと、トントンと包丁で刻みものをしている道子の背に「ただいま」と叫んだ。一瞬体を浮かせ、道子は振り返った。
「ああ、驚いた。お帰りになられていたんですね、気づかずにすみません」
 道子は愛梨の姿を眺め回した。「愛梨さまどうされたんですか、その泥は」
 愛梨は笑った。「山本にはめられたのよ」
「山本さんに?」
「この格好で山登りを強いられたのよ。泥だらけになるわ靴擦れを起こすわで、散々よ」
「そうですか。それにしても楽しそうじゃありませんか」
 愛梨は道子に今日起こったことを一から話していった。道子は作業の手を進めながらもしきりにうなずいている。
 ボウルでソースを作り、海老や生うにを皿にきれいに盛る。
「海鮮には日本酒よね」愛梨は言った。
「あら、ビールはよろしいのですか?」
「飲むに決まってるじゃない。シャワーを浴びてくるわ。ビール、用意しておいて」

 泥だらけの衣類を洗濯かごに放り込んで、熱いシャワーを浴びた。踵がすこし滲みたが、まだ腹の底がくすぐったく疼く。
 山本はシフォンケーキの包みに気づいただろうか。くすくす、ふふふ。愛梨の笑いはおさまりそうにもなかった。
 髪をドライヤーで乾かすのももどかしく、濡れた髪のまま台所へ舞い戻った。
 トレイにはよく冷えたビールとグラス、野菜スティックまで用意されていた。
 愛梨は缶ビールのプルトップを開け、グラスに注ぐと一気にあおった。「くう」思わず声が漏れる。
「それでね、カフェの店主ったら絵に描いたような呆れ顔でわたしを見るのよ」愛梨のおしゃべりは止まらない。
「ガラス工房で可愛い黒猫の置物を買ったの。ねえ、見て」
「あら、可愛らしい」
「山本にあなたどSねって言ったら、ありがとうなんて言うのよ。きっと泥だらけのわたしを見て腹では笑っていたのよ。変態だわ」
「山本さんは愛梨さまが運動不足だということがわかってらしたんですね。こんなに元気を注入してくださって、私も嬉しいですよ」
「どSの変態よ」
 愛梨がそう言うと、道子は大きな声で笑った。愛梨は道子にもシフォンケーキの包みを手渡した。

 やがて両親も帰ってきた。玄関に行くと、運転手がたくさんの袋をよろよろと運んでいた。買っても使わないものばかりなのに、母親の物欲にはきりがない。首を傾げて眺めていると、父親が言った。
「なんだにこにこして。いいことでもあったのか」
 ふふ、愛梨は肩をすくめた。寝室までついて行き、買い物袋をひとつひとつ覗いた。
「わあ、このバッグ可愛い。いいなあ、お母さま、これわたしにちょうだい」
「ええ? どれのこと?」
 愛梨がフェラガモの箱からうす桃色のバッグを出すと、ストッキングを脱ぎながら母親は顔をしかめた。
「別にいいけど、どこに持っていくのよ。引きこもってばかりいて」
「これからは外に出かけるわ」
「山本に楽しませてもらったみたいだな」父親がネクタイを外しながら言う。
「ねえ、山本っていつもああなの?」
「ああってなんだ、山本がおかしいか」
「おかしいわ、変な人。ロボットみたい」愛梨はけらけらと笑った。

 部屋に戻ると、ぼんとベッドに身を投げ出した。天井が揺れている。頬に手を当てると熱い。
体は疲れているはずなのに、まだ気が高ぶっていた。今日は一日中笑っていたような気がする。
 父親にお酌をし、一緒に日本酒を飲んだのも初めてのことだった。
 シーツに顔を押し当てるとひんやりとして気持ちいい。交わした会話が頭の中をぐるぐると回っていた。
 父親が愛梨の小さい頃の話をしていた。兄がテレビに夢中になり、手に持っていたチョコボールを床に転がしてしまい、まだ二歳だった愛梨が口に入れて喉に詰まらせたらしいのだ。
 父親が背中を叩いて吐き出させたと主張したが、母親は「あなたはその晩、韓国に行ってらしたのよ。私が話したことをご自分の記憶と思い違いなさっているのよ」と言った。
 あれは俺だよ、愛梨は死にかけたんだ、父親は言う。あなたは韓国だったわ、母親は繰り返す。たしかフリルがついた黄色いワンピースを着ていた。まるで人形のように可愛かった。父親の弁。それは愛梨が三歳のお誕生日に写真館で記念写真を撮ったときに着せていたのよ。あなた酔ってらっしゃるわ。そう言う母親だって酔っている。
その写真は二階の書斎にあるが、兄の中学入学祝いの記念写真だ。
「いい加減ね、ふたりとも」
 スマートフォンの画面が光った。入れているアプリの情報が更新されたのだろう。とくに誰からのメールも電話着信もない。
「やまもと」ベッドで身を転がし、呟いた。
シフォンケーキの袋を見つけ、何を思っただろうか。食べてくれただろうか。教えてもらった電話番号にかけてみようか。もう寝ているかもしれない。起きていたとしても電話に出るとは限らない。愛梨からだと知ると無視をするかもしれない。すこし冷たそうに見えた。あれくらいの歳のおじさんは、たいてい愛梨に対してなれなれしく振る舞う。若い娘が好きなのだろう。でも、山本は何かがちがう。
「やっぱりかけてみようかな」山本の電話番号を見つめる。やめておこうかな。どうしようかな。考えるうち、まぶたが重たくなっていった。

3.
「愛梨さま、起きてください。もうお昼ですよ」
 え、うそ。がばりと跳ね起きると、時計は九時前を差していた。道子がカーテンを開けながら笑っている。
「電気もつけっぱなしで。昨夜は相当酔っていらっしゃいましたが頭は痛みませんか」
「もう、おどかさないでよ。こんな朝っぱらから」
「そんなことおっしゃって。旦那さまがご出発されるそうですよ」
「なんで? またお仕事?」
「お早くお支度なさった方がよろしいですよ」
 急な出発などいつものことだが、そう告げられるたびに抱いていた安堵感がいまはない。
 クローゼットをかき回し、短パンとTシャツを引っ張り出して身につけ、鏡もろくに見ずに階下へ急いだ。
 父親はネクタイの首元を気にしながらテレビの天気予報を見ていた。愛梨が入っていくと、好相を崩した。
「また急に仕事が入ったのだよ。今回はもっとゆっくりできると思っていたんだがな」
 甘え方を知らない愛梨は、父親の顔をただ黙って見つめた。父親が愛梨の頭に手を置いた。
「次に帰ってきたときは三人で外食でもしよう。ホテルの鉄板焼にするか、料亭の個室にするか、お前が考えておいてくれ」
 これまで父親に頭を撫でられた記憶などない。大きくてずっしりとした手。愛梨はふと思った。離婚以来ずっと張りつめていた緊張感がいつの間にかほぐれている。父親にかけておく言葉はないか探すが、何も思いつかなかった。
「あなた、まだ準備なさってないの? もう迎えがくるわよ」
「そうか、もうそんな時間か」父親は背広を羽織った。
 迎え、と聞いた愛梨はとっさに己の身だしなみを確かめた。男の子みたいな格好にすっぴんの顔。髪にブラシも入れてない。
 飛ぶようにして洗面所へ駆け込んだ。髪をポニーテールにし、色つきのリップクリームを塗る。ロングカーディガンを羽織り、伊達眼鏡までかけた。
 玄関ホールでは母親と道子が並んでいたが、道子が愛梨の姿に二度見する。下手な変装にでも見えたか。
 玄関の扉が開いた。愛梨は前髪を指で直す。父親の鞄を受け取ろうと手が伸びた。その手に白い手袋ははめられていなかった。視線をついと上げると、会釈をしている男は、時折見る父親の社用車の運転手だった。
 どんな顔をして立っていたのだろう。
「どうした愛梨」父親に問われ、はっとした。
 いま、自分はそこに何を期待していたのだろうか。そしてなぜがっかりとした思いを抱いているのだろうか。漠然と広がる焦りを覚えた。

 父親の存在が消えてしまうと、三々五々それぞれ散った。
 愛梨はリビングでテレビを見ていた。チャンネルを変えるが、とくに面白そうな番組はなかった。道子が掃除機を手にあらわれた。
「かけてもよろしいですか」
「いいわよ、わたし部屋に戻るから」
「愛梨さま、どうかなさいましたか」
「どうかって?」
「いえ、何かお悩み事でもあるのかと」
 愛梨をずっと見てきたのだ。女の感だろうが侮れない。
「べつになにもないわ」
「そうですか、それならいいんですが」

 リビングを出ると、母親と鉢合わせた。アクセサリーをこれでもかと身につけ着飾っている。
「お出かけ? どこへ行くの?」
「どこだっていいでしょ」
 明言しないということは、おそらく愛人のところだろう。母親には愛人がいた。もう何年も続いている。中学生のときに母親のアクセサリーケースを勝手に開けて、ツーショットの写真を隠しているのを見つけた。
 父親が留守なのをいいことに、母親はこうしてこそこそするわけでもなく着飾っては出かけるのだ。今朝父親が発ったばかりだというのに、神経を疑う。
「あなたどうせ暇なんでしょ」
「だったらなに?」
「柴田が来てるから、仕事が終わる頃に挨拶しておいて」
「どうしてわたしが」
「あなたしかいないじゃない」
「それまでに帰ってくればいいじゃない」
「なんで今日は突っかかってくるのよ。虫の居所でも悪いの」
「お母さまこそ帰れない事情でもあるの」
母親の眉尻が吊り上がった。
「なんなのよ、いったい。いつからそんな生意気な口を利くようになったの? 似合わないわよその眼鏡。みっともない」
 愛梨は母親をにらんで階段を駆け上がった。部屋に駆け込み力任せにドアを閉めた。伊達眼鏡を外し、ベッドに投げつけた。それでも気がおさまらない。
「みっともないのはどっちよ。まるでけだものじゃない」
 外に車のエンジン音がした。昼夜問わず生活音がほとんど聞こえてこないこの一角では、一台の車のエンジン音さえ響く。
 窓から覗くと、黒い車が横付けされていて、黒い巨体が車を回り込み母親を後部座席におさめていた。そしてきびきびとした動作で運転席に乗り込み発車させた。
 山本は母親が誰と会い、何をして帰るのか知っているのだろうか。すべて知る上で仕事だからと割りきり送迎しているのだろうか。母親は山本に恋人との楽しい時間について話しているのかもしれない。山本はハンドルを切りながらうなずく。

 大人は汚いー。

 涙が頬を伝った。山本に裏切られたように思えた。もちろん、山本には愛梨を裏切るつもりなど毛頭ない。わかっているが、憎しみの矛先が山本に向かう。
 誰かがドアをノックした。返事をしないでいると、道子が今日はもう帰る旨を伝えてきた。沈黙を不思議に思ったのか、道子は「愛梨さま、失礼して開けますよ」とことわってドアを開けた。涙を見られたくなかったので、窓際に立ち、背中を向けていた。道子は近づき愛梨の顔を覗いた。
「どうなさったんですか」
 愛梨は答えなかった。どう答えていいかわからなかったし、話し出したらわんわんと泣いてしまいそうだったからだ。
「何か思い詰めていらっしゃるようですが、私でよかったらお聞きしますよ」
 愛梨は窓の外をにらむ。
「ひとりで悩まれるのはお体によろしくないですよ」
「おねがいだからほうっておいて」
 やっと出た言葉がそれだった。道子はしばし愛梨を見つめていたが、それきり黙って部屋を出て行った。

 残された静寂が苦しかった。なぜこんなにも静かなのかということさえ腹が立った。
 やはり道子にそばにいて欲しかった。でも、話すことは何もなかっただろう。

 山を切り拓き、沼地も埋めて造られた住宅地の、この一角には年寄りばかりが住んでいる。仕事をリタイアした夫婦に、連れに先立たれた老人の独り暮らし。こじんまりとした古い家々で、みなひっそりと生活している。
 若い人間が住むこの家は珍しい。そして、イギリス風の洋館にバラの庭園が広がるこの家は見事に浮いている。
 ホームパーティをもよおすたびに、夜中まで車が出入りすることに周囲の住人から苦情を寄せられることもあった。母親は「本当はここにマンションが建てられるはずだったのよ。反対運動が起きて計画が頓挫していたらしいわ。それを家が買い取って一軒家にしてあげたんじゃない。感謝こそすれ、文句を言われる筋合いはないわ」と逆ギレしていた。

 小さい頃、近所に友達がいなかった愛梨は、家の前でひとりで遊んでいた。車の往来も少なかったので、母親も道子もとくに注意はしなかった。
小さい愛梨はお店屋さんごっこをしていた。すると腰の曲がったお婆さんが歩み寄ってきた。
「こんにちは」老婆が言う。
「いらっしゃいませ」愛梨が返した。
 折り紙で作ったピアノやバッタなどが陳列されている。
「どれもみんな二十五円です」
 老婆は愛梨の容姿をしきりに褒め、あめ玉をひとつ握らせた。ぷん、と線香の匂いがした。
 礼も言わずにいた愛梨の頭を撫で、老婆はゆっくりと歩いて斜向かいの家へ入っていった。
 母親がご近所とうまくいっていないことを知っていた愛梨は、誰にも打ち明けることもなく、あめ玉もゴミ箱に捨てた。
 中学に上がった頃、斜向かいの老婆は家の中でひとりきりで亡くなっていたことを母親から聞いた。発見されるまでに数日は経っていたらしい。愛梨の中に苦い思いが残った。

 高台に建っているおかげで、愛梨の部屋からは夕焼けが見渡せた。幾層ものグラデーションがその色を刻々と変えていく様を眺めることは、愛梨のささやかな楽しみでもあった。だが今日は、ベッドに突っ伏したまま、とっぷりと日が暮れるまで泣いていた。

 トイレに行こうとドアを開けると、足元にラップがかかった皿がトレイに乗せて置いてあった。小さく切ったサンドイッチだ。道子に謝らなくては、と愛梨は思った。

 翌日十時過ぎまでたっぷりと眠った愛梨は、着替えて台所へ行った。いつもならそこにいて「おはようございます」と微笑みかけてくる道子がいない。リビングでソファに体を預けている母親に訊いた。
「道子さんは?」
「ああ、今日は旦那さんの命日だから、お墓参りしてから来るらしいわ」
「そう」
 道子はまだ四十代の頃に夫を癌で亡くした。子供はいない。それまでは、朝九時から夕方の四時まで勤務していたが、夫を亡くしてからは、必要に応じてこの家に泊まることもある。たいていは夕食の片付けを終えたら、ひとりの家へ帰っていく。
 昨日のことを謝りたかった。
「あなた、柴田に挨拶しなかったでしょう」
「え?」
「作業途中だからまた明日来るってメモがポストに入ってたわ。そんなことすらまともにできないなんて、何だったらまともにできるのよ」
「お母さまだって何かしてるってわけじゃないじゃない。それにバラはお母さまの趣味でしょ。柴田のことまで私に押しつけないで」
 愛梨はぴしゃりと返した。母親はわかりやすく鼻の穴を広げていた。
「ちょっと、そこ見なさい。暖炉の上。あなた宛の郵便物、いつまで溜めているつもり。ここはみんなの部屋なんですからね。だらしなくするのは自分の部屋だけにして」
 自分の部屋をだらしなくしている覚えはない。だいたい母親が愛梨の部屋まで上がってくることは滅多にない。いいがかりに反論してやりたいが、眉尻を上げた母親に口で勝ったためしがない。
 愛梨は「持っていけばいいんでしょ」と郵便物をつかみ、部屋へ上がった。
 郵便物といってもほとんどがダイレクトメールだ。ブティックにアクセサリー店、一度しか行っていないネイルサロンからはご丁寧に手書きのメッセージが添えられている。
 真っ白な封筒があった。よく知る名前が記されている。
 封を切ると、それはパーティの招待状だった。結婚式の二次会のようだ。そういえば彼女は近々結婚するとラインで言っていた。
「え、これいつ?」
 読むと二次会は今週の土曜で、出欠の締め切りはとうに過ぎていた。
 愛梨はラインを開き、友人宛にまず招待状の返事が遅れたことを詫び、出席を希望するがまだ間に合うか、と打ち送信した。
 椅子に腰かけ、窓の外を見ていた。空の色が日に日に青さを増していく。もう入道雲も力を失っていた。つくつくぼうしの声もついこないだまで聞こえていたのに、代わりにコロコロという鳴き声の虫があちらこちらで夜を賑わせていた。
 着信音が鳴った。見るとさきほど送信した友人からの返信だった。パーティはひとり増える分には問題ないということだが、そんな前置きは早々に、しばらくのろけ話に付き合わされた。
 うさぎが跳び跳ねているスタンプが送られてきたのを最後に、愛梨はスマートフォンを置いた。
 今日が水曜日だから、パーティまでは三日しかない。送迎を山本に頼まなければならないが、すこしためらう。いっそ電車で行こうか。それは帰りが面倒か。やはりあのむっつり顔の男か······。

 母親は庭にいた。柴田と話し込んでいる。バラの整え方を指図する母親に、柴田はしきりにうなずく。柴田が愛梨に気づいた。
「お嬢さま、お散歩ですか」
 愛想笑いを浮かべるが、顔がくしゃりとなっただけで気味悪い。
「お母さま」声をかける。
「なあに」と振り返る母親はさきほどのことなど忘れたかのようににこやかだ。
「今度の土曜日だけど、パーティに招待されたの」
「あら、いいじゃない。たまにはドレスアップして遊んでらっしゃい」
「それで山本なんだけど」
「山本が何よ」
「電話で予約を取るの?」
「そうよ、早めに頼みなさい。週末なんだから」
 七分丈のパンツの上で柔らかく風になびいている母親のブラウスから、愛用するクリスチャン・ディオールのフレグランスが漂ってくる。
「電話したら必ず出る?」
「当たり前じゃない」
「山本ですかって聞けばいいの?」
 何が言いたいのよ、と母親が首を傾げる。
「それまでにお母さま、山本を使う?」
 合点がいったと母親は目を細めた。母親が目を細めると、稲荷神社に祀られている白い狐を思い描く。
「私に頼めっていうの。それくらい自分で言いなさいよ、面倒な子ね」
 お茶を持ってくるわね。柴田にそう告げ、母親は家の中へ入っていった。
「いいお天気ですねえ」柴田がしゃがれた声で言った。「まだまだ暑いですからねえ」とデニムのミニスカートからむき出しになっている愛梨の足を眺め回した。
 愛梨は身をひるがえして玄関へ向かった。

 結局、愛梨は夕食の時間になるまでスマートフォンには触りもせず、たいして必要でもない雑事に手をつけていた。
 食卓に着くと、道子が味噌汁の椀を運んでくれた。そういえばまだ謝っていない。道子をちらりと見やると、いつもと変わらないふくよかな笑みを向けてくれた。
 誰がしゃべることのない静まり返った夕食だが、これがいつもの光景だ。母親が夕食までに帰ってこない日は、道子が愛梨の話し相手になるが、たいていは食器の触れる音だけが響く夕食だ。
 思い出したように母親が言った。
「そういえばあなた、山本には連絡したの」
「あ、いえ、まだ」咀嚼していた鶏の照り焼きを飲み込んで答えた。
「どうしてよ」母親は味噌汁をすする。
「友達とラインしてたら忘れてしまったの。山本には明日連絡するわ」
 とっさについた嘘だが、母親が見逃すはずがない。
「そういうところ、なんで治らないのかしら。ほんとイライラするわ」母親は箸を置いた。「いましなさい」
「いま?」愛梨は目をむいた。
 母親が自分のスマートフォンを操作し、ほら、と愛梨に差し出した。山本のフルネームが表示されていて、呼び出し音が鳴っている。三回鳴ったのち、「はい、山本でごさいます」と電話が通じた。しばらく反応できずにいると、「もしもし、奥さま、いかがされましたか」と山本の声に緊張が走った。正面の母親がにらみつけている。スマートフォンを耳に当てた。
「あの、わたしです。愛梨です」
「お嬢さまでございましたか、失礼いたしました」山本の声のトーンが軽くなった。
「ええと、今週の土曜日ですが、パーティへ行くので、四時頃迎えにきてくれるかしら」
「土曜日の夕方の十六時ですね、かしこまりました」
「では、よろしくお願いね」
「はい、承知いたしました。おやすみなさいませ、お嬢さま」
 そう言ったが、山本は通話を切らない。こちらが切るのを待っているのだ。愛梨は「おやすみなさい」と小さく言って通話を切った。画面の汚れをTシャツの裾で拭い、スマートフォンを母親に返した。母親は大きく息を吐いた。
「どこまで人見知りなのよ、いい歳して。ばかみたい」
 愛梨は黙って席を立ち、ダイニングをあとにした。

4.
 土曜日の朝はいつもより早く目が覚めた。
カーテンを開け、室内に陽光を取り込むと、ステレオコンポの操作をした。オルフェウス室内管弦楽団が奏でるグリーグのホルベルク組曲が流れ出す。初秋のよく晴れた朝にふさわしく、気分が軽々としてくる。愛梨はタクトを振る真似をしながらクローゼットを開けた。
 花嫁とかぶることがなさそうな色味の服を選ばねば。グレーの花柄なら良いだろう。姿見の前でワンピースを体に当てる。よし、とうなずいて風呂に湯を張った。湯がたまるまでの間、ベッドに寝転がり雑誌をめくった。秋のお洒落着で溢れている。モデルはみな、顔が小さく足が長い。顔が大きいわけではないが、愛梨は自分の身長が百六十センチもないことにコンプレックスを持っていた。
 湯船にはゆっくりと浸かり、頭から足の先まで入念に洗った。
 風呂から上がると台所へ行き、グレープフルーツジュースを飲んだ。腹がひどく空いていたので、ハムとチーズを乗せたトーストを二枚食べた。
 リビングを覗くが母親はいない。愛梨は頭にタオルを巻いたままテレビをつけた。古いハリウッド映画を流しているチャンネルに固定し、爪にマニキュアを塗った。早く乾かせるためのトップコートを上から塗って、しばらく両手をぶらぶらと振った。
 紅茶を飲もうと立ち上がり、飾り戸棚を見回した。ロイヤルドルトンのカップを取り出す。このカップが一番気に入ったと母親に言うと、母親は「割りでもしたら首をはねるわよ」とおどした。
 母親は庭で自ら植えたヴィオラの花にじょうろで水を与えていた。母親は他にもミントやレモンバーム、バジルなどのハーブも育てている。
 庭の中央に煉瓦を円形に敷いたあずまやがあり、そこに石膏細工の水入れが置いてある。雀がよく止まりにきて水をつついているが、たまにメジロがやってくることもあった。
 母親は庭にいるときは本当に幸せそうな顔をする。愛梨にはそこまでのめり込める趣味はない。ピアノからもすっかり遠ざかってしまった。もうこんなに怠けた指ではショパンもベートーベンも弾けないだろう。

 時計が二時を指していることに気づき、愛梨は慌てて紅茶のセットを洗った。化粧や髪のセットにはことさら時間がかかる。四時などあっという間だった。
 ハイヒールに足を入れながらリビングに向かって叫んだ。「行ってきます」
 母親は扉を開けて顔を覗かせるでもなく「どうぞごゆっくり」と奥から返した。
 門の前には車が着けられ、山本が立って待っていた。ひらりと右手を差し出す。手袋は新品のように真っ白だ。
 エンジンをかける山本に案内状を手渡した。会場の地図が簡単に記してある。山本はざっと目を通して、それを愛梨に返した。
「お時間よりすこし早めに着く見込みですが、このまま直行してもよろしいでしょうか」ハンドル操作をしながら山本が言った。
「そうだわ、お花屋さんに寄ってほしいの。どこかにあるかしら」
「かしこまりました」まるでそうだろうと予測していたかのような反応の速さだ。
 運転する山本を盗み見た。ウインカーを出し、ハンドルを切る。尋ねられたこと以上は話さない主義なのか、何かを話しかけてくることはない。これまでの運転手なら「今日はまた素敵なお洋服ですねえ。お似合いですよ」などとおべんちゃらを並べてくる。お菓子を渡そうものなら一ヶ月くらいは礼を繰り返す。そんな過去の運転手たちとこの山本はまるでちがう。シフォンケーキをどうしたかを気にしていた自分が急にばかばかしく思えた。
 花屋ではあれこれ悩まず、お祝い事であることを店員に告げ、小ぶりな花束を作ってもらった。車に戻ると、車内がすこしひんやりしていた。山本が花の鮮度を保たせることにまで気を遣ったのか。
 土曜日の夕方ともなると、さすがに車はすいすいとは進まなくなった。山本は大通りを折れ、裏道を細かく右左折し走らせた。
 おかげで開場の二十分前には目的地に到着した。遅刻をするよりましだが、早すぎるのも困る。車内にとどまらなくてはならないからだ。
山本は振り向きもしない。その横顔は、どうするのもお前次第だ、と語っているようで、いささか身が縮む。
 なぜこの男はこれまでの運転手のように媚びへつらわないのだろうか。この静寂が重たくは感じないのだろうか。すこしは気を利かせて何か話しかけてきてもいいじゃないか。なんだそのでかい態度は。やとわれの身だろうが。愛梨は腹で毒づく。沈黙が次第に愛梨を圧してくる。嫌な記憶がよみがえる。体を冷えと火照りが同時に襲う。自律神経が乱れはじめていた。喉が固まるようで痛い。窓を開けたい。ボタンに手をかけたその時だ。外から賑やかな笑い声が聞こえ、見ると知った顔ぶれが数人で歩いてくるのが見えた。救われた、愛梨は思った。
「お友達が来たからわたしも合流するわ」
 かしこまりました、と山本は運転席を降り、後部座席のドアを開けた。手を差し出す。
「お帰りの際は必ずお電話ください。こちらまで車をお着けいたします。では、楽しまれてください」
 愛梨は返事もせずに山本に背を向けた。あの手を引く行為に惑わされるのよね。つぶやきながら友人の中へ入っていった。
 久しぶりに会う友人たちは、案外すんなりと愛梨を受け入れてくれた。まるで高校時代に戻ったような気分だった。
 ビルの四階に会場はあった。入り口では主役たちが立ち、招待客を出迎えていた。新婦が愛梨たちを見るなり飛びついてきた。
「愛梨ちゃん久しぶり。変わってないね」
 新婦は満面の笑みだ。今が一番幸せな瞬間であることを愛梨も経験している。かつて、自分もこんな風に笑っていたのだ。その後のことなど想像もせずに。
 会場は貸し切りになったレストランで、テーブルが大きく六つに分かれていた。すでに着席している友人のテーブルに加わった。ざっと会場を見渡す。当たり前だがおよそ半分は見知らぬ男性陣だ。
 新郎がマイクを持ち、軽い挨拶をしてから乾杯の音頭を取る。一気に会場は華やいだ。
 愛梨たちのテーブルでは、さっそく新郎の値踏みがはじまった。大学はどこか、勤める会社の規模。超一流とはいえないわね、一人が言う。愛梨は自分の時もこんな会話がひそかに交わされていたのか、と思った。こんな調子では、離婚の噂話でも盛り上がっていたのだろうな、と辟易した。
 主役がすべてのテーブルを回り終えると、待っていたかのように招待客が散らばりはじめた。さっそくグラスを手にした男が数人、愛梨たちの座るテーブルに割り込んできた。両側を挟まれる。横にいたはずの友人は、見知らぬ男と乾杯している。
「名前なんていうの?」右側の男が訊いた。
「藤谷愛梨です」
「愛梨ちゃん可愛いね」なれなれしい。
 今度は左側の男が訊く。「愛梨ちゃん、彼氏はいるの?」
「いません」
「おお、チャンスじゃん」両サイドの男たちが盛り上がる。質問が矢継ぎ早に飛んでくる。愛梨のグラスがすこしでも空くと、すかさずどちらかがシャンパンを注ぐ。ポッキーを手渡す。酔いが回ると、彼らに持ち上げられていることはわかっているが、気持ちがよくなりノリに乗じた。いつの間にかもう二人の男が参加している。シャンパンを注ぐ順番を競い合う。手拍子をし、グラスを空けさせる。
 男たちの話はまるでつまらないが、それでも愛梨は笑ってみせた。これまでの鬱憤を晴らしたかった。はじめは演技をしていたが、そのうち本当に楽しく思えてきた。男たちが愛梨を持ち上げる。誰かがジョークを飛ばす。何の物真似かはわからないが、愛梨は手を叩いて笑ってやる。
 お開きの時間なのか、にわかに人が動き出した。愛梨の周りでは、なぜか男たちによるじゃんけん大会が繰り広げられている。やがて勝負がついたようで、ひとりの男が愛梨のとなりにすりより肩を抱いた。
「愛梨ちゃん、家はどこなの? 俺がタクシーで送っていくから教えて」うわあ、愛梨ちゃんいい匂い。髪の匂いを嗅ぐ。肩に置かれた手をほどこうとするが、男は離さない。「ちょっと待って、電話するから」愛梨が叫ぶと、男はやっと手を離した。
 スマートフォンをタップする。
「はい、山本でございます」
 そんなことは知っている。愛梨は腹で思う。
「今日はもう帰って」愛梨が片方の耳をふさいで叫ぶように言った。会場がとにかく騒がしいのだ。
「は」山本は短く答えた。
「あのね、送ってくださる方がいるの。だから山本は帰っていいわ」
 その時、となりのテーブルでどっと笑いが弾けた。「······でございます」「え? なあに?」愛梨は聞き返した。
「ご自宅にお送りするまでがわたくしの仕事でございます」
「だから、仕事はもう終わり。どうぞご自由にお家に帰っていいのよ」
「そういうわけにはまいりません。お嬢さま、その方にお断りを入れていただけますでしょうか」
「なんでよ」
「協会の決まりがございます。お嬢さまをお送りしなければ、わたくしはクビになりますので、どうかそのようにお願いいたします」
 出た、協会の決まり。それを言えば何でも通用すると思っているのか。そして懇願するような響きなど微塵もない。むしろ命令口調だ。虫酸が走る。
「そんなこと、わたし知らないわ」そう怒鳴って通話を切った。
「行こうぜ」男たちが愛梨をうながした。立ってみると、ぐらぐらと揺れる地面に、自分が思った以上に酔っていることを知った。出口で見送りをする新婦に挨拶をする。新婦が驚いたように愛梨を見た。
「愛梨ちゃん、歩けてないけど大丈夫?」
「大丈夫です、俺たちが送っていくから」そう言う男たちも千鳥足だ。
「もうちょっと休んでいったら?」新婦は心配顔だ。
「ぜんぜん平気。新婚旅行ドバイだっけ。楽しんできてね。またお話聞かせて。お幸せに」
 手をひらひらと振った。出口の段差のところで男が手を引いた。あれ、手袋は? ぼんやりした頭をかすめる。エアコンの利いた室内から外へ出ると、まだぬるい空気が不快だった。三歩、四歩と進み出ると、廊下の真ん中をふさぐような黒い壁があった。なに、じゃまね。壁を見上げる。上から声が降った。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
 大きな男が愛梨をじっと見下ろしていた。この仏頂面は······。
「山本、なんであなたがここにいるのよ」
「お迎えにまいりました」
「帰っていいってさっき言ったでしょ?」
「そうはまいりませんと申し上げたはずです」
「あら、車はどうしたのよ。車から離れちゃいけないんじゃなかったかしら。協会の決まりはどうしたのよ」
「お時間を過ぎますと奥さまがご心配なさいますので、差し出がましいですが入り口までお迎えにまいりました。お車へどうぞ」
「お母さまが心配なんてするわけないじゃない。適当なこと言わないで。あなたはクビよ。だって協会の決まりを破ったんですもの。クビ。ほら、帰りなさい。わたしはこの方に送ってもらうの」
 愛梨は横にいた男の腕に手を回した。男はなぜか何も言わない。他の男たちもだ。山本が愛梨の手首をつかみ、男の腕から引き離した。
「痛いわ、離して山本」
「お戯れはそろそろおしまいにしてください。お嬢さま」そう言い、冷徹な視線をくれた。冷たくて、怖い。
 愛梨の体は杭で打たれたように固まった。反抗できない。唾を飲んだ。
「まいりましょう」
 まるで糸で操られるようにしてエレベーターに乗り込んだ。抗えない自分に腹が立った。それ以上に山本が怖かった。
「ずいぶんと酔っていらっしゃるようにお見受けいたしますが、ご気分は悪くはございませんか」ハンドルを操作しながら山本が問う。
 ごきぶん? 車の走りは滑らかだが、愛梨の上半身はひどく揺れていた。しばらくすると胃の内容物がせり上がってきた。
「とめて!」
 山本はハザードランプを点滅させ、車を路肩に寄せた。愛梨は外に飛び出し、街路樹の根元にシャンパンを吐き出した。山本が駆け寄ろうとしたが、愛梨は手で制した。何度も嘔吐するが、腹に力が入らない。「失礼いたします」背中に手が当てられた。ごしごしとこすられる。愛梨は胃の中のすべてを吐き尽くした。脱力した体を山本が受け止めた。抱えられたまま車に運ばれる。足が浮いて不安定だが、山本のやたら固い肩の厚みがどういうわけかおかしかった。
「こんなみっともないところ、お母さまが見たら怒るわ。どうしよう」
 後部座席で横たわる愛梨に膝掛けを広げてかぶせ、山本は言った。
「すこしだけ車を走らせてもよろしいでしょうか。ここに停めておりますと駐車違反を取られるおそれがあります。この先にコインパーキングがございます。そちらまでですので我慢できますでしょうか」
 愛梨は手で合意を示した。
 車を移動し駐車させると山本は車を離れ、ほどなくして戻ってきた。手にペットボトルの水を持っている。
「ご自分で飲めますか」
 愛梨はうなずくが、体を起こせない。しばらく様子を見ていた山本は、後部座席に乗り込み、腿に愛梨の上半身を乗せた。ペットボトルをひねり開け、頭を持ち上げた愛梨の口に含ませる。ひりひりとした喉に冷たい水はありがたかった。身を預けている山本の胸や腹も、固くてゴムみたいだ。唸り声が漏れる。悪寒に襲われていた。脳がぐらぐらと揺れている。
「どうしよう、帰れない」
 山本がいったん前屈みになり、ポケットからガラケーを取り出した。操作し、しゃべりはじめる。
「もしもし、山本でございます。はい、もう向かっておりますが、お嬢さまがすこし夜の公園を散歩なさりたいとおっしゃっておりますので、今しばらくお時間をいただけますでしょうか。はい、了解いたしました。おやすみなさいませ、奥さま」
 パタンとガラケーを閉じ、また前屈みになった。
「奥さまは先におやすみになられるそうですので、ご気分が回復されるまで何も気になさらずごゆっくりされてください」
 山本に腕を摩擦され、体の芯がほぐれていった。震えが止まり、悪寒が治まると、次第に意識が遠ざかっていった。

 愛梨は宙に浮いていた。薄く目を開けると、見慣れた階段を浮遊している。やがて部屋のドアが開き、ふわりとベッドに着地した。目の前にしっかりとした骨格の顎がある。その首元からつんとした異質な匂いがした。間近に男の横顔がある状況が飲み込めず、息を引いた。
「申し訳ございません。何度も起こしたのですが、お目覚めにならなかったものですから。お風邪をお召しになってはならないと思ったもので、失礼ながらお部屋まで運ばせていただきました」
 愛梨に布団をかけると、ただちに数歩下がり、「おやすみなさいませ、お嬢さま」と黒い気配は消えた。背中や膝の裏に生暖かさが残っている。布団を引き上げると、ワンピースの袖にもあの異質な匂いが移っていて香る。しばらく嗅いでいると、不思議と脳がしびれてきた。

5.
 愛梨は自分の精神を支配するものの正体が何なのかを理解しはじめていた。
 異質な匂いが移ったワンピースを何度も鼻に押し当て、目を閉じた。そしてそれを小さく畳んでクローゼットの隅に隠した。
 食事が喉を通らず、しかし生気を失うどころか鏡に映る自身の瞳は潤みを増すばかりだった。
 再び部屋に閉じこもる毎日に戻っていたが、母親が出かけたり戻ったりすると、猫のように二階へ駆け上がった。
 カーテンの隙間から門を覗くと、山本が愛梨にするのと同じように、腕で母親の頭をカヴァしている。それを見ると胸がじりじりした。
 ところが、ある点に気がついた。母親には乗降を導く右手を差し出さない。愛梨をお姫様気分にさせるあの行為。なぜだろう。
 気にしだすと何もかもが気にかかる。小さなことが嬉しくて仕方がなかったり、何でもないことでくよくよして眠れなかった。
 山本を避けるいっぽうで、その姿を目で執拗に追う。窓に張りつき、門の向こう側で動いている姿に、小さく「やまもと」と呼びかけていた。
 家にあらわれない日もあの気配と匂いを求めていた。山本のことしか考えていない自分をおかしいのではないかと思った。山本の声が聞きたい。あの匂いを嗅ぎたい。もう自分では制御できなくなっていた。

「山本だけど······」
「山本が何よ」母親はここのところの愛梨の変化には気づいていないようだ。
「使っていい?」
「どうぞ。で、いつ?」
「明日」
「急ね、何かあるの?」
 答えを用意していなかった。ずっと閉じこもっているから外に出かけたくなった、と答えたがしどろもどろで、母親は目を細めた。
「山本って、なんだかとても厳しい協会に所属しているみたいね」
「そう? 聞いたことないけど。誰が言ったの?」
 山本、と答えると母親は首を傾げた。
「なんて言ったの?」
「協会の決まりを破ると、すぐクビになるんですって」
 母親が笑った。「何よそれ、あなたからかわれてるのよ」
 からかわれている? 愛梨の顔が紅潮した。
「だってこの前、お友達が送ってくれるから帰ってもいいって電話で言ったら、送り届けないとクビになるからってビルにまで入ってきて、すごい顔でにらまれて」
「ビルにまで入ってきた? 山本が? ほんとに?」母親も驚いた様子だった。「クビって大袈裟ね、どういうつもりかしら」

 部屋に戻ると、スマートフォンを手に取った。この四角い画面は唯一山本と通じる窓だ。タップさえすればいつでも繋がる。言う台詞は何度も頭で反芻した。迷いを振り払う。
 呼び出し音が鳴った。三回目で繋がった。
「はい、山本でございます」
 心臓が高鳴る。「わたしです、愛梨です」
「はい、何でございましょう」
「明日、十時に迎えにきてほしいの」
「午前の十時でございますね、かしこまりました」
「プランAでお願い」
「プランAでございますね、承知いたしました」
 その言葉で通じるかかまをかけたのだが、山本は何の疑問も挟まずに、すんなりと答えた。
 覚えていたのだ。はじめて山本の運転で出かけた日に、自らが提案した三つのプランのことを。

 ほとんど眠れなかったが、朝風呂に入り、髪をふんわりと巻いてセットした。化粧はナチュラルに。唇の艶を際立たせて。お気に入りのワンピースに袖を通す。いつだったか、これを着ているときに、母親の友人から「なんて綺麗なお嬢さんですこと」と褒められた。以来、このワンピースは愛梨の勝負服となった。
 姿見に映る自分にエールを送った。「がんばれ」

 十時に玄関を出ると、山本が門の外に立っていた。
「おはようございます、お嬢さま」山本が言う。その顔は笑みのようにも見えるし、にらんでいるようにも見える。そもそもが山本のニュートラルな表情を知らないのだ。その心理を推し量ると、かえって怖さを覚える。
 ひらり、右手を差し出した。愛梨だけに向けられる白い手。触れると手袋の生地の感覚しか伝わってこなかった。
 シートベルトを胴に巻きつけ、山本は言った。
「どちらに向かえばよろしいでしょうか」
「その前にね、軽くブランチをとりたいの。どこかお勧めのレストランはないかしら」
「少々お待ち願えますか、ご予約をお取りいたしますので」
 そう言って山本はポケットからガラケーを出した。愛梨の名で予約を通している。それから車を発車させた。
 相変わらず無駄口をたたかない。うしろに人が乗っているのを忘れたのではないだろうか。
「山本の運転で出かけるのも久しぶりね」
「そうでございますね」
「何か変わったことはあった?」
「いえ、とくにはございません」
「······」会話が続かない。愛梨は外を見た。 
 住宅地を抜け、大きな川を越えると、ビル群が見えてきた。そのひとつに潜り、地下駐車場に車は停まった。
「そちらのエレベーターで十二階へ上がりますと、左手に『ペッシュダクアーリオ』というイタリアンレストランがございます。そちらに予約をお取りしております。Dの三十六に停めておりますが、お忘れになられた場合には、わたくしの携帯を鳴らしてください」
 山本はルームミラーで愛梨を見た。ぼうっとしていて通り過ぎた山本の言葉を慌ててかき集める。十二階、ペッシュ、なんだっけ。Dの······まあいいか。

 山本が予約を入れてくれたレストランは、さほど格式張った店ではないが、通されたテーブルからは街が見下ろせた。そこそこ埋まってはいるが、テーブル同士の間隔が開いているおかげで、落ち着いて食事ができた。
 ジェノベーゼパスタを半分残し、白ワインを舐めていた。アルコールが愛梨の緊張をいくらか和らげた。店内をさっと見渡し、水のコップを手前に倒した。腿に水がかかる。店員を呼び、パスタの皿を下げさせた。ワンピースが水を吸う。愛梨はスマートフォンをタップした。三回目の呼び出しで山本は出る。
「はい、いかがされましたか」
「あのね、服に水をこぼしてしまったの。これではみっともないから、申し訳ないけれどうしろのシートにあるストールを持ってきてくれないかしら」
 かしこまりました、短く通話が切れた。愛梨は洗面所へ行った。口をすすいで唇にグロスを塗る。服の染みは柄のせいで目立たない。
 席へ戻ると、ちょうど山本が入り口の店員と話をしているところだった。山本がこちらに向かう。
「お洋服は大丈夫でございますか」
「お水だから。でも、ちょっと気持ち悪いから、乾くまで待ってくれる」
 座って、と席を示し店員を呼んだ。
「コーヒーをふたつ」
 すると山本は手で制し、「いえ、わたくしは外で待っておりますので」と言った。
 店員は困ったようにふたりを見比べている。愛梨はもう一度店員に「コーヒーをふたつ持ってきてください」とはっきり言った。お嬢さま、と言いかけた山本をにらんだ。
「山本、服を汚したままでひとり座っている女の子なんて恥ずかしいでしょ」
 山本が奥歯を噛み締めるのが見て取れた。「わかったなら座って」もう一度席を示した。
 山本は「承知いたしました。それでは失礼して」と潔く真向かいに座った。
 背筋をぴんと伸ばし、手は腿に置かれている。目はどこを見るでもなく、空間をにらんでいる。見事なまでの無表情だ。
「ここのパスタ、美味しいわね」
 はい。答えるが視線は上げない。愛梨は運ばれてきたコーヒーカップを持ち、ふうと湯気を吹いた。
「冷めちゃうわよ」
 山本は「はい」と答え、「ですが」と続けた。
「協会の決まり?」愛梨は先回りして言った。山本は「はい」と言って口をつぐんだ。
「コーヒー一杯飲んだくらいでクビになんかならないわよ。そんなことでいちいちクビにしていたらみんないなくなっちゃうじゃない」
「申し訳ございません。そういう決まりですので」
「わたしが言わなかったら誰にもわからないわ」
「そういう問題ではございません」
「じゃあどういう問題?」
 その時、山本は愛梨を見た。
「決まりというのは守るためにあるのです」
 愛梨はくすりと笑った。目が合ったら笑ってみせようと思っていたからだ。ところが山本は即座に視線を外した。愛梨は作った笑みを引っ込めた。
「させないわ」
「は?」
 山本はまた愛梨を見て首を傾げた。愛梨はもう一度笑みを投げる。
「あなたをクビにはさせないって言ったのよ」
 愛梨はテーブルに腕をついて身を乗り出した。
「お母さまだってあなたをとても買っているのよ。できる運転手ですって。だからコーヒーを飲んだくらいでクビになることはないの。安心して。わたしとお母さまであなたを協会から守るわ」
「ありがたいお言葉と存じますが、やはりコーヒーは遠慮いたします」
 ずっと笑みを向けているのに、山本は表情ひとつ変えない。こりゃ強者だ。
 山本は誰が見ても男前といえるタイプではなかった。決して醜いわけでもないが。目元や真一文字の口元は、知性さえうかがわせる。だが彫りが深くホームベース型の輪郭はトラかライオンを思わせた。眉毛が太い。この手の顔を人は「ソース顔」と呼ぶのかもしれないが、愛梨にとってはもはやかっこいいとも取れるのだ。いつまでもこうしていたいが、会話もコーヒーもなくなったので、潮時だった。
車に乗り込む際に、手を引く山本の顔をみつめた。鼻先がすぐそこにある。愛梨の脳はとろりと溶かされた。
「プランAでございましたね。どちらへご鑑賞にまいりますか」
 山本はルームミラーで愛梨を見た。直接見つめることは控えるが、ルームミラーでなら躊躇なくこちらを見るようだ。
「水族館に行きたいの。ジンベエザメが見たくて」
「水族館でございますね、かしこまりました」
 山本の左手がシフトレバーに置かれた。愛梨はその手が気になった。左手の薬指だ。手袋の上からではリングをはめているのかどうかはわからない。山本には生活感というものが一切感じられない。家庭を持ち、妻や子供がいてもおかしくない年齢だろうが、そういった光景が思い描けない。だが、直接訊くのもはばかれる。もしも「はい、妻と娘がおります」などと返ってきたらしばらく寝込むだろう。
 気がつくと車は高速道路に入り、遮音壁に挟まれた道を走っていた。たとえ妻子持ちであったとしても、想っているだけなら罪ではないだろう。探りだけでも入れておくか。
「わたしね、お父さまが苦手だったの」
 一拍間を置いて「はい」と山本が相槌を打った。
「気難しくて怖いって思っていたの。でもね、ちゃんとわたしのことを気にかけてくれていたんだってことがわかったの。あんなにたくさん話をしたの、はじめてのことだったの」
 話がどこへ向かっているのか読めないようで、山本はしばらく続きをまっていたが、やがて「そうですか」とだけ言った。
「山本は?」
「は」と短い返事だが、何かを察したのか身構えたようにも聞こえた。
「山本もお家に帰ったらご家族の前でもそんな顔をしているの?」
「お答えしなければならないご質問でしょうか」
 間髪を入れずにそう打ち返された。ぐうの音もでない。これは一筋縄ではいかないようだ。愛梨は黙って窓の外を眺めた。
 工業地帯を過ぎ、左手には海岸線が見え隠れしていた。九月も終わりだが、まだ威力のある陽光を受け、波立つ海面がきらめいていた。
「きれいね」
「もう水族館も見えてまいりました」

 立体駐車場から水族館の本館までは複雑な道のりであるため、チケット売り場まで山本が付き添ってくれた。
「携帯を鳴らしていただけたらお出口までお迎えに上がります。ごゆっくりどうぞ」
 愛梨はにっこりと首を傾げてみせた。改札をくぐり振り返ると、山本がまだこちらを見て立っている。愛梨はもう一度同じ仕草をした。両手でバッグを腰に回し、後ろ向きにゆっくりと歩を進めると、あとから続々と入場してくる人の陰になり、山本の姿は見えなくなった。

 最初は小さくカラフルな魚たちの小窓が廊下の左右に並び、ひとつひとつ覗いていくと、まるで動く絵画に見えた。
 次に干潟を再現した浅いプール状の場所に出た。ヒトデやナマコが砂の上に散らばり、子供達がつついたり掴みあげたりと自由に触れ合っていた。
 さらに進むと、やや大振りな魚達が珊瑚礁を模した岩の間を行き交い泳いでいた。愛梨も知る魚ばかりだ。ナポレオンフィッシュにナンヨウハギ、チョウチョウウオもいる。すべて兄に教えてもらった。
 大学生だった兄は、愛梨をいろいろな場所に連れていってくれた。水族館では魚の生態を語り、プラネタリウムの帰りにはギリシャ神話を語る。その時代の愛梨にとって、兄はヒーローだった。
すらりとスタイルが良く、軽快で溌剌としていて笑顔に屈託がない。その点、山本は対照的だ。いかつい肩に無表情。百八十センチは優にあるだろう背丈に比例して足は長いのだが、全体的に四角く弁当箱みたいだ。ヒーローというよりは、むしろヒールがよく似合う。マントでも体に巻きつけ、鳴り物入りで登場しそうだ。くすり、笑みがこぼれる。

 ホッキョクグマやカワウソの前では見物人がとどまり流れない。やり過ごして角を曲がった。全面はめ殺しの大水槽の前に出た。前方のフラットな床と、椅子が設置された後方に分かれている。そこに腰を落ち着かせ、眺め惚ける人たちもいる。
 立ち止まった愛梨の脇を巨大な灰色の影が通っていった。後ずさると、それは一頭のジンベエザメだった。巨体のわりには去っていくのが速い。中央へ進み出て水槽を見上げた。
 ジンベエザメが水の中をぐるりと一周する姿は実に悠然としている。その背や腹には小ぶりな魚が磁石みたいに身をくっつけている。マンボウやマンタなども快適そうに泳いでいる。アジかイワシか、銀色の小魚の群れがひとかたまりになり渦を巻き上げている。ジンベエザメは時計回りを守っている。愛梨もしばし時間を忘れ、眺め惚けていた。
 学生らしきカップルが自撮り棒を使い、ジンベエザメを背景に写真を撮っている。揃ってピースサインをして仲むつまじい。写真を撮り終えると腕を絡ませ歩いていった。
 そうだ、思い出した。ここでも仕掛けを練ってあるのだ。
 後方の壁に寄り、スマートフォンをバッグから取り出した。ふう、と息を吐くと、タップした。
「はい、山本でございます」
「歩けないの」
「いかがされましたか」
「中が暗くてよく見ないで歩いていたら、ベビーカーに足を轢かれてしまったの。痛くてどうしようもないの」
「今どちらにいらっしゃいますか」
「大水槽の前、ジンベエザメがいるところよ。壁に寄りかかっているわ」
「そこを動かないでください。すぐにまいります」
 スマートフォンをバッグにしまうと、またふう、と息をひとつ吐く。山本を呼び出すことには成功した。あとのことはノープランだ。鬼が住むか蛇が住むか、とにかく山本という人間がすこしでも知れたらじゅうぶんだと思った。
 ジンベエザメは旋回しては律儀にガラスを横切ることを止めなかった。人々がカメラやスマートフォンを向けている。水の青さのせいか、気持ちがとても落ち着いていた。じっくり見ていると、同じサメでも鼻が尖ったもの、拍子抜けするほど小さなもの、何種類かいる。ひときわ大きなジンベエザメがぐるりと回り、マンタがひれを優雅に上下させ、銀色の小魚の群れが煙のように揺らめいている。右に黒い気配が近づくのがわかった。すこし息を切らしている。
「お嬢さま、足は痛みますか」
 山本は片膝をつき、愛梨の足元に身を屈めた。愛梨は右手を割り込ませ、山本の視界を遮った。
「手を貸してくれる? 椅子に座りたいの」
「わたくしの肩におつかまりください。明るい場所までまいりましょう」
「もうあまり痛くなくなったの」
「しかし、腫れているかもしれません」
「大丈夫よ、腫れてはいないわ」
 しかし、と山本は釈然としない様子で愛梨を見上げていた。
「山本、椅子まで、お願い」
 愛梨は右手を伸ばした。山本がそれを左手で受け取る。手袋をはめていない。はじめて直に触れる山本の手。「歩けますか」慎重に誘導する山本の左手をさりげなく探った。薬指の付け根に細く固い金属様のものはなかった。柔らかく、肉厚な手だ。
 椅子にたどり着くと、愛梨はひとつ座席を空けて座った。
「失礼ながら足の具合を見させていただいてもよろしいでしょうか」山本はひざまずいた。
「どちらの足でございますか」
「本当はベビーカーに轢かれてなんかいないの」
 山本は顔を上げた。愛梨はジンベエザメを目で追う。むっくりと体を起こし、山本はつぶやいた。
「嘘をおつきになったのですか」
「そうよ、嘘なの」
 山本は黙っている。怒っただろうか。またあの冷徹な目をして愛梨をにらんでいるのだろうか。あるいは今度は頬をひっぱたくかもしれない。だが、介抱し部屋まで運んでくれた優しさの方を信じたい。視界の隅に入る山本の手は、だらりと脱力しているように感じられた。
「なぜ、そのような嘘を」
 その口調は強いものではなかった。むしろ素朴に投げた疑問のようだった。愛梨は水槽から山本に目を移した。
「だって、魚たちがあまりに自由で美しかったものだから、ひとりぼっちでいるのが寂しくて」
 まかり通る言い訳ではないだろうが、他に何も思いつかなかった。
「そうですか。それならようございました」
「え?」
「お怪我をなさったと聞いてとても慌てたものですから」
 口はなかば開き、目はたしかに放心したような安堵の色を浮かべている。愛梨は空けておいた席を手で叩いた。今度は固辞せず、山本はのっそりと腰を下ろした。肩が触れ、あの匂いが鼻に届く。
「ねえ見て、きれいでしょ」
「はい」返事ともため息とも取れる。館内のコントラストのせいか、本当にぼんやりとしているのか、どこか不明瞭な表情をしている。
「ずっと見ていても飽きないわね」愛梨はあらためて水槽を眺めた。「あの魚たちはなぜ水槽の中を泳いでいるのだろうなんて考えもしないでしょうね。人間はどうしてここにいるのだろうなんて考えるから、かえって真実を見失うのよ。人間は滑稽よね」
「滑稽、でございますか。それはまた手厳しい」
「そう? だってあの魚たちみたいに無心でいられるってすごいことじゃない? 真似しようと思ってもできないわ。そうやって人間は自分に制限をかけるのよ」
「時には自分に制限をかけることが必要な場合もあるのではないでしょうか」
「そうね、そういう場合もあるわよね。でも、人間はそんなに強くないわ。自分に負けちゃうのよ、結局は」
 また山本が黙った。今度は何やら思案している。ものを考える時はこんな顔をするのか、と横顔を見て思う。案外無防備にも見える。
「とても耳の痛くなる思いです」モザイク工芸のような水槽の光を受け、山本自身がゆらゆらと揺れているように見えた。「この魚たちの前でも、そしていつの場合でも、率直でいらっしゃるお嬢さまにとりましては、やはりわたくしは窮屈に見えるのでしょう」
「率直? わたしが?」
「はい。たしか龍の尾の帰りの際にも、あっさりとそう切り捨てられてしまいました」
「そうだったかしら」
「覚えてはいらっしゃらないでしょうが」
「わたし、山本を傷つけちゃったの?」
 山本はひとつ首を振った。
「いえ、お嬢さまの率直さは、わたくしには眩しいものでございます。さらに自らを正す気持ちにさせられます」
「よくわからないわ」愛梨は曖昧に笑った。
「水槽の魚を美しいとお感じになるお嬢さまの前では、小さなこだわりでございます」
 山本の横顔が、ふと消えそうに思えた愛梨は、慌てて言った。
「山本は窮屈なんかじゃないわ」
 愛梨が見つめると、山本は目線を床に落とした。
「山本は正義を守っているのよね」
「正義などという格好の良いものではございません」
「かっこいいわよ、山本は」
「おからかいになっているのですか?」
「本当よ、どうして?」
「いえ、真正面から褒められることに慣れてはおりませんので」
 触れる肩から山本の呼吸が伝わる。やや彫りの深い横顔を目でなぞると、くすぐったさを覚える。そっと肩に頭を預けるが、山本は何も言わなかった。
 魚たちが気ままに泳いでいる。そこには羨ましいほどの自由があった。
「ジンベエザメ、大きいわね」
 どこにでもいるカップルのような、どうでもいい会話をしてみたかった。ところが山本は「聞きかじりですが、野生の個体ですと十数メートルまで成長するらしいのですが、水族館で飼育されている個体はせいぜい六、七メートルまでではないかと存じます」と訊いてもいない解説をはじめた。ムードもなにもない。
 くすりと笑うと、山本が愛梨の顔を覗き込んだ。もう例の無表情に戻っている。愛梨は山本を小突いた。ぐらりと揺れる反動を利用して、その腕に手を絡ませた。
「そういえば、ずいぶんと早くあらわれたけど、チケットを買って入ってきたの?」
「はい、事情を説明したのですが取り合ってもらえず、致し方なくチケットを購入し、正規のルートで走ってまいりました」
 愛梨は噴き出したが、当の山本はまるでへのへのもへじみたいな顔をしている。
「そろそろお戻りになられますか」
 ええ、とごねてみたが、へのへのもへじは「まいりましょう」と立ち上がった。
 様々なくらげが浮遊する幻想的な水槽群を抜けると、はたしてそこにはしらけるような蛍光灯の光と人々の混雑が広がっていた。土産物コーナーで大勢の人がごった返している。
「わたし、山本とはぐれないで出口までたどり着けるかしら」
 呆然としていると、山本は意を決したように愛梨の手を握った。「さあ、まいりましょう」勇ましい出陣の合図さながらだ。愛梨はくすくすと笑った。
 人々の動きは奔放で、彼らをかき分け進むのは困難だった。絡めていた指もほどけ、愛梨はうしろに流された。頭ひとつ出ていた山本も見失った。きょろきょろと周りをよく見ると、魚のぬいぐるみをはじめ、可愛らしいグッズが並んでいる。
 大渋滞のレジに並び、ショップを出ると、山本が壁際で立って待っていた。とくに慌てた様子もないのは、愛梨がビニール袋を手にぶら下げているからか、それ以前に土産物に気を取られている姿を見ていたのか。

「ふう、疲れた。足が棒のようだわ」
「そうでござましょう。どうぞ遠慮なく横になられてください」
 かちり、シートベルトを閉めた山本の鼻先に、ジンベエザメのキーホルダーをぶら下げた。
「はい、戦利品」
 山本は目を細めた。
「お嬢さま、何度も申し上げますが、きょ」
 愛梨が指を離すと、キーホルダーはシートの隙間にチリンと落ちた。
「あら、落としちゃった。ごめんなさいね、あとで探しておいてね。見つけたら適当に処分していいわ」
 購入した鈴の色がちがうもうひとつのジンベエザメのキーホルダーを袋から出し、自分の家の鍵に取り付けた。
「······承知いたしました」
 あきれたようなため息を吐き、山本はギアを入れた。

 日が沈みかかる海岸線を右に走り、高速道路に入った。愛梨はまだキーホルダーをぶらぶらともてあそんでいた。今日一日を振り返り、上々の収穫だと満足していた。何でもないのに笑いが込み上げた。運転する山本が、つぐんでいた口を開いた。
「やはり、ひとこと申し上げておかなくてはなりません」
「なあに?」運転席を覗く。
「いかなる理由がありましても、嘘をおつきになるのは決して褒められたことではございません」
「······はい」
山本の堅い声に、愛梨はキーホルダーを両手で包み、シートに身を埋めた。
「よろしいですか、人を陥れるなどという行為は、たとえ最初は小さな企てであっても、重ねていけばいずれはその人間を歪んだ快楽に溺れさせ、ひいては」
「ごめんなさい、陥れるなんて、そんなつもりじゃなくて、ただ、ちょっと話したかっただけなの」
 慌てて弁解したが、山本はぴんと白い人差し指を立てた。
「今後はこのようなことが無きよう、くれぐれもよろしくお願いいたします」
「はい、わかりました」
 くっきりとした顎のラインと分厚い肩を見やり、運転中ずっとそれを言うタイミングをはかっていたのだろうか、と愛梨は思った。

6.
 ビアグラスを電灯にかざすと、琥珀色の液体に細かな泡が上っている。揺らすと、表面がトパーズのように複雑に光った。
道子がチーズの盛り合わせの小皿をすっと置いた。
「よろしかったらどうぞ」
「ありがとう、道子さん」
 そう言って体を傾ける愛梨を、道子は作業の手を止め、しげしげと見ている。
「なに、どうしたの」
 愛梨が問うが、道子はただ黙って首を振っている。
「道子さん?」
 呼ぶと、道子は丸く突き出た腹の前で手を組んだ。
「いえ、最近の愛梨さま、ずいぶんお変わりになられたように思えるものですから」
「そう? どこが?」
「とても充実されているように感じますし、何よりますますお美しくなられて、私も時々どきっとさせられます」
「やだ、真面目な顔して何よ」愛梨は笑った。「それより、お母さま遅いわね。美容院に何でこんなにかかっているのかしら」
 道子は聞いていない。なぜかニットの袖口を握りしめる愛梨の指先を眺めている。
「ちょっと見てくる」愛梨はビアグラスを置いた。
 門を開け、左右の道を確認する。人ひとり歩いていない。庭をぶらぶらと歩き、白い鋳物のテーブルセットに腰を下ろした。バラは満開で、何色もの大きな花冠が重たそうに枝をしならせている。母親にことわって何本か部屋に飾ろうか。カーテンがクリーム色でベッドカバーがピンクだから、やはり赤が映えるだろうか。でも黄色も可愛らしい。エンジン音が耳に届いた。愛梨は飛び上がった。門からひょっこりと顔を出すと、山本が後部座席を開けているところだった。
「おかえりなさい、お母さま」
 母親は愛梨を見て「あら」と言った。「何してるの、こんなところで」
「バラを眺めていたの」
 山本がこちらに向けて一礼した。愛梨が笑みを投げるが、山本は涼しい顔で「おやすみなさいませ、奥さま、お嬢さま」と言った。
「あとでね」母親の目を盗んで口パクで伝えると、山本はちらりと目をくれたが無反応だ。

夕食と入浴を済ませ、ベッドに入る前に山本に電話をかけた。ここのところでは日課となっていた。何か用事があるわけでもないが、愛梨に付き合わされる山本は、電話口に呼び出されても決して文句は言わない。
「明日は十時よ、忘れてない?」
「もちろんでございます、忘れてなどおりません」
「朝から雨になるみたいね」
「そのようでございますね。どうやら冷え込むらしいので、暖かい服装でお出になられてください」
 愛梨がふいに笑うと、山本は「いかがされましたか」と問う。
「山本のそういうところ、男らしくてすごく素敵よ」すこし挑発してみる。
「買いかぶりと存じます」山本は至ってクールだ。
「褒めてるのよ、素直に喜びなさいよ」
「当たり前のことを申したまでですので」
「ふうん、真面目なのね」たっぷりと皮肉を込めた。
「ありがとうございます」とぼけた口調だ。
「そこは受け止めるのね」
「素直に喜びをあらわしたまでです」
「ああ言えばこう言う、なんなのよ」
「おかげさまで、わたくしもお嬢さまのご冗談には免疫がついてまいりました」
あらそう。上手く転がされているような悔しさを覚える。
「それではおやすみなさいませ、お嬢さま」
 通話の切れたスマートフォンにキスをする。

 生で観るエル・グレコの絵画は、キャンバスの形の不揃いさが興味深く、強烈な色使いには圧倒された。
 スペイン絵画の巨匠とあって来日がニュースになっていたが、長い開催期間のなか日でもあり、天候もたたってか、たいした賑わいではなかった。
 美術館の建物を出ると、敷地内の遊歩道を歩いた。普段はもっと人が集まっているはずの木のベンチは雨に打たれ、水をたっぷりと含んでいる。傘を打つ雨音に消され、うしろから自転車が近づいてきたことに気がつかなかった。すれ違いざまに傘同士がぶつかり、愛梨の傘はフェンスを越えてとなりの敷地に落ちた。自転車の少年はあやまりもせず、そのまま走り去った。
 フェンスには扉も切れ目もなく、手を入れて引っ張り出すしかなかった。愛梨は側溝を跨いで腕を伸ばした。指で挟もうとした時、突風が吹き、傘はころころと奥へ転がってしまった。愛梨はあきらめて体制を戻した。
 遊歩道はまだ続く。山本が待つ駐車場までは距離がある。敷地を出たら歩道橋を渡り、立体駐車場の外階段を上らないとならない。小走りで行っても十五分はかかる。雨足はどんどん強くなっている。愛梨は迷った。山本に迎えにきてほしいが、水族館の帰りにさんざん叱られたのだ。ことのいきさつを話したところで信じる保証はない。また嘘をついているのか、と今度は来てくれないかもわからない。しばらく歩いて空を見上げた。このまま駐車場に向かおうか。ずぶ濡れになった愛梨を見て、それはそれで叱るかもしれない。なぜ呼ばなかったのか、と。こうしている間にも髪から雫がしたたり落ちる。寒い。
 愛梨はスマートフォンをタップした。呼び出し音が三回鳴る。山本が出る。
「あの、あのね、自転車の人と軽く接触しちゃって、傘をとなりの敷地に飛ばしてしまったの。フェンスがあって取れなかったの。それでね、まだ遊歩道のところでね、駐車場には向かっているんだけど、それで······」
 数秒の沈黙があり、山本は言った。
「お嬢さま」
 子供を咎めるような言い方だ。やはり疑っているのだ。
「本当なの、今度は嘘じゃないわ。信じて、山本」
「わかりました。すぐにまいります。なるべく雨が避けられる場所でお待ちください」
 ベンチのところへ戻り、大木の下に身を寄せた。雨は横殴りに降っている。大木ももはや役に立たなかった。靴の中まで濡れていて気持ちが悪い。爪先も冷えきってじんじんとした。
 今さら嘘をついたことを悔やんでも遅かった。もう山本にとり、愛梨は「嘘つき」なのだろう。ぴしゃぴしゃと音が聞こえた。顔を上げると山本が走ってくるのが見えた。片手にはもう一本ビニール傘を持っている。愛梨を見つけ、止まった。
「大丈夫で、ございますか」
 ひどく息を切らしている。ビニール傘を開き、愛梨の頭上にかかげた。
「コートをお脱ぎください」
 愛梨はうなずいてコートを脱いだ。山本もスーツのジャケットを脱いでいる。雨を含んでずっしりと重たいコートを受け取り、山本は自らのジャケットを愛梨の体に巻いた。
 車に戻ると、山本はトランクから膝掛けとバスタオルを出してきた。膝掛けで愛梨をくるみ、タオルで髪を拭いた。
「お戻りになられたら熱いお風呂に入られた方がよろしいかと思います」
「そうね、そうするわ」
 山本は高速道路をいつもよりスピードを出し、何度も車線を変えて走らせた。
「大丈夫でございますか」何度も呼びかける。
 次第に悪寒が襲う。「寒い、山本」
 エアコンは稼働しているが、愛梨の悪寒はひどくなるいっぽうだ。歯ががたがた鳴る。門の前に着いた頃には、体中の関節が軋み、動けなくなっていた。山本が手袋を外し、愛梨の喉に手の甲を当てた。「いけない」山本は小さく叫んだ。
 インターホンを鳴らし、道子を玄関先に呼び出した山本は、「お嬢さまをすぐに着替えさせ、解熱剤を飲ませてください。頭だけでなく脇も冷やしてください。スポーツドリンクをこまめに。咳が出るようでしたら医療機関へ。よろしくお願いいたします」と一気にしゃべり立てた。愛梨を道子に渡すと、山本は真剣な眼差しで愛梨を目で追っていた。
「なあに、どうしたの」母親がリビングから顔を出した。
「お嬢さまが雨に濡れてしまい熱を出されたものですから」端的ではあるが、もろもろが抜け落ちている。
「あらやだ。山本、あなたがついていながらどうしてこんなことになったのよ」案の定、非難の矛先は山本に向けられた。
「申し訳ございません」山本が深々と頭を下げている。
「ちがうの、山本は走って迎えにきてくれたの。傘を落としたわたしが悪いの」
 母親は愛梨の言葉を無視し、ジャケットを愛梨からはぎ取ると山本に突き返した。
「誠に申し訳ございませんでした。わたくしの不注意です」
 そうじゃない。喉が痛くて声にならない。道子に促されながら階段を上る。母親はまだ強い口調で山本を責め立てている。
 おねがい、山本を責めないで。

 三日目にしてようやく容態も落ち着いた。ホットミルクしか受けつけなかった愛梨の食欲も戻り、道子が運んでくれた月見うどんも完食した。
 道子は安堵した様子でベッドの端に腰かけた。
「愛梨さまは恋をなさっていたんですね」
「え?」
 道子が観音菩薩のような笑みをたたえている。
「愛梨さまがどんどんお綺麗になられていくので、もしかしたらそうではないかとは思っておりましたが」愛梨の腿をぽんぽんと叩く。「お相手は山本さんだったのですね」
「どうして······」愛梨の顔はみるみる紅潮した。
「山本さんをクビにしないでほしい、とうなされておりましたよ。何度も何度も山本さんの名前をお呼びになって」
「ほんとに?」
 ええ、道子は好相を崩した。
「わたし、どうしようもないわね。かなうはずなんてないのに」
 そうつぶやくと、道子は愛梨の手に自らの手を重ねた。
「たとえそうだとしても、恋をすることは必ず人を成長させるものです。とても素晴らしいことですよ」
 涙がにじみ、頬を伝った。
「苦しいですか?」
「苦しいの、とても」
「でもね、愛梨さま。今を大切にされてください。一生のうちに誰かを深く愛することはそう何度もないものです。かなうかかなわないかを憂うより、それほど深く人を愛せるご自分をどうか愛してください」

 道子の言葉を頭の中で反芻していた。救われていくような清々しさを覚えたり、また締めつけられるような胸の痛みに襲われたりしていた。正解のない問題を延々と解かされている気分だった。
 母親はまだ大人しくしていなさいと言うが、愛梨は山本の進退を気にしていた。あれから山本はこの家に姿をあらわさない。母親が出かけないから来ないのか、もう来ることはない、ということなのか。
 ドアがノックされた。「入るわよ」声は母親のものだった。今日はずいぶんとめかし込んでいる。
「ねえ、私のエメラルドの指輪、知らない?」
「指輪? 知らないわ」
「おかしいわね、真珠のセットの箱も見当たらないのよ」
「出かけるの?」
「あ、ええ。そう、柴田が来てるから、お昼にお茶を出してくれる? こないだ頂いたフィナンシェもつけて出してあげて」
 愛梨が反応しないでいると、母親は眉をひそめた。
「何よ、また面倒なことうじうじ言わないでよ」
「迎え、誰が来るの?」
 母親は一瞬ぽかんとした。「山本に決まってるじゃない。熱で記憶喪失にでもなったの?」
 愛梨はけらけらと笑った。母親は怪訝な顔をした。

 窓に立っていると、やがて黒い車が門の前に停まり、黒い大男が外に出てきた。数日のことなのに懐かしくも思える。
 母親を乗せ、運転席に回り込みながら、山本は愛梨のいる窓の方に目を走らせた。急いでカーテンを開けるが、山本は車を発車させていった。

 母親に命じられた通り、正午に紅茶を淹れ、フィナンシェを添えた。
 庭のテーブルに置くと、脚立に腰かけていた柴田が振り向いた。
「あとで下げにきますので、そのままにされていて結構です」
「ああ、はい申し訳ありませんねえ。ありがとうございます、お嬢さま」柴田は脚立から下り、腰をひねった。
「ワタシの髪に葉がついてないですか」
「え?」振り返ると、すこし身を屈めた柴田が自分の頭を指差した。
「髪です。葉っぱ、ついてませんか」
 生え際が後退した柴田の縮れ毛には細かな葉の断片が引っかかっている。
「え、ええ、ついてますけど」
「取ってもらえますか」
「は?」
「葉っぱ、取ってもらえませんかね」
 胸に嫌悪感が広がった。何て図々しい。母親がいないことをわかっていて。そうは思うが、愛梨は抵抗できなかった。そっと手を伸ばし、小さな葉を取り除いた。
「取れました」
 告げると、柴田は不完全な笑みを浮かべた。
「どうもすいませんねえ、弁当に入るんで助かりました」
「もういいですか、どうぞごゆっくり」
 愛梨は踵を返した。屈辱感で鼓動が高鳴る。ハンドソープでしつこく手を洗った。
 部屋へ戻ると、西向きの出窓から外を眺めた。住宅が密集するその向こうには小学校と個人商店が並ぶ。その先には駅があり、繁華街が広がる。電車で小一時間も揺られたら、サーファーが集う海岸まで出られる。右手にはふたつの低い山が見える。それをひとつ越えたところには、龍の尾が登山者を迎えているのだ。
 離婚の傷が癒えず、悶々と過ごしていた愛梨に、スパルタながらも素敵な時間を仕立ててくれた。思えばあの日から、山本は愛梨の心に揺さぶりをかけていたのだ。山本はどうなのだろうか。愛梨をすこしでも意識してくれはしないだろうか。
 今頃山本はどこで何をしているのだろうか。母親を送り届けてしばらくは自由の身なはずだ。昼間に電話をかけたことがないから、かけても出ないかもしれないが。
 愛梨は椅子を引き寄せ、スマートフォンを操作した。呼び出し音を三回数える。
「はい、山本でございます」
 胸が躍る。何を言おうか考えあぐねていた。耳に入る周囲の音がいやにうるさい。街の雑踏のようだ。
「お嬢さま、お加減はいかがでございますか」珍しく山本の方が口火を切った。
「ええ、もうすっかり大丈夫よ」
「それはようございました」
「心配してくれた?」
「もちろんでございます。心配いたしておりました」
 背後で車の走行音がひっきりなしに続いている。山本もいつもより声が高い。
「わたしはね、山本がクビにされちゃっていないか、すごく心配してたのよ」
「ありがたいことにそれはございませんでした」
「よかった。来週には外に出られると思うから、どこかに連れていってね」
「かしこまりました」
「何をしていたの? ずいぶん騒がしいところにいるみたいだけど」
「店で昼食をとっておりました」
「ごめんなさい、邪魔しちゃったわね」
「いえ、もう済みまして車へ戻るところでございます」
 電話の向こうで消防車が通りかかり、サイレンが遠ざかるまで待った。歩行者信号のメロディが聞こえてきた。ここから近い駅の前にも同じメロディが流れる交差点がある。いったいどこの街にいるのだろうか。
「どこのお店? いったいどこにいるの?」
「どこでございましょうか、当ててみてください」
「クイズ?」愛梨は笑った。「ならヒント教えて」
「ヒントでございますか」山本はしばし考えた。「では、猫のひげも抜け落ちるような場所とはどこでございましょう」
 猫のひげ? 鼻の脇のふくらんだところからぴんと生えているあのひげのことか? あれは抜け落ちるものなのか? どんな時? けんか? 狩り? 唸ってみるが思いつかない。きっと山本はほくそ笑んでいるのだろう。参ったは口にしたくない。
「食べたものはなに? お蕎麦? ラーメン?」
「それもお当てください」
「ねえ、教える気ないでしょ」
 こちらの近くでも消防車のサイレンが響き、遠ざかっていった。
「山本にラーメンは似合わないわ。山本はね、カウンター席で板前さんが握った小さなお寿司をつまんでいるのが似合うわ。わかった、行きつけのお寿司屋さん。猫もお魚好きだもの。当たった?」
「当たりかもしれませんし、外れかもしれません」
「やっぱり、教えるつもりなんかないんじゃない」
 頑なにヴェールを外そうとしない山本の一徹ぶりにはもはや感服する。しかし、包装が厳重な箱ほど開けてみたくなるものだ。
「じゃあ、お酒は? 山本もお酒を飲むことがあるの?」
 その時、階下で物音が響いた。何かが倒れるような音だ。
「やだ、いま下の部屋で変な音がしたわ。何かしら。外に柴田がいるはずなんだけど」
「鍵はかけてありますか」
「鍵? わからないわ」
「お嬢さま、通話は切らないで、部屋から出ずにお待ちください。すぐにまいります」
 愛梨はドアを開けて耳を澄ませた。ゴトリ、とまた音がした。愛梨の部屋の真下は和室だ。
吹き抜けの玄関ホールを東側に行くと、客室と両親の寝室がある。
 階段をそろりそろりと下りてみた。ゴトゴトという物音は両親の寝室の方から聞こえる。部屋から出るなと山本に言われたのを思い出し、忍び足であとずさった。ところが、勢いよく前から突進してきた男と鉢合わせをした。男は柴田だった。手には巾着袋を抱え込んでいる。そういえば、母親が最近アクセサリーがなくなると言っていた。もしかすると······。
「あなただったのね」
 愛梨がそう言うと、柴田はにらみを利かせた。そして右手に持っていた剪定鋏の先をこちらに向け、じりじりと詰め寄った。
「山本がすぐそこに来てるのよ。あなたがしていたことは全部暴かれるわ」
「わかりやすい嘘だな」
「嘘じゃないわ、観念しなさい」
 突然、柴田が愛梨に飛びかかった。剪定鋏で脇腹をすこし切られた。痛みが走る。柴田に倒され、喉に鋏の刃を突きつけられた。愛梨は抵抗できない。
「悪いな、お嬢さま。さようなら」
 言い終わらないうちに、柴田は横に吹っ飛んだ。山本が立ちはだかっている。階段の手すりで頭をしたたかに打ったようで悶絶している。山本が柴田を押さえ込んだ。

 警察官が山本に質問をしていた。愛梨も同じことを何度も話さなくてはならなかった。急遽家に帰ってきた母親が、誰よりも興奮していて騒々しかった。
 現場検証を終え、柴田はパトカーで連れられて行った。愛梨はとにかく疲れていた。
 脇腹を切られたと通報時に言ったので、物々しく救急車までやってきた。かすり傷だと伝えると、消毒だけ施してもらい、救急隊には帰ってもらった。耳鳴りが鳴り止まない。横になりたい。気がつくと、山本が愛梨の背中をさすっていた。山本はたまたま近くにいたことを警察に言っていた。本当にたまたまなのか、愛梨はあとで聞こうと思った。
 柴田は盗みを繰り返していたことを吐き、それはこの家だけではないと語ったらしい。それがわかったとしても、とうに換金された宝石は返ってこないことに、母親はひどく腹を立てた。

 愛梨は小さな物音にも悲鳴を上げ、食事のナイフとフォークにまで怯える始末だった。過剰に怖がる愛梨を見かね、母親は山本を呼んだ。今後は愛梨のボディーガードも兼務してくれないかと頼んだのだ。愛梨が外出する時と、母親が外出する時にだ。家に上がる山本と入れ替わりに母親はタクシーで出かけた。
 道子は午後の三時には紅茶とお菓子を出した。山本は紅茶はすするがお菓子には手を出さない。なぜかを訊くと、ダイエット中だからだ、と答えた。愛梨は笑った。やはり自分には山本が必要なのだと思った。
 愛梨の部屋でクラシック音楽を聴いた。山本はラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が気に入ったと言った。どんなところが気に入ったのかを訊くと、オーケストラの音が雪の降る極寒の冬のようだ、と答えた。愛梨は驚いた。なぜなら、愛梨は雪が降ると必ずこの曲を聴くからだ。思いがけない共感に、愛梨は嬉しくて山本に飛びついた。その拍子に椅子の背にかけていたスーツのジャケットが床に落ちた。その時、チリンと何かが転がった。愛梨がつまみ上げたそれは、いつかのジンベエザメのキーホルダーだった。
「どうしてこれがジャケットに入っているの?」
 山本は気まずそうな顔をした。
「どうして?」
 愛梨はもう一度訊いた。山本は答えない。目が心なしか泳いでいる。
「もしかして、大切に持ってくれていたの?」
「それは······」
「それは?」
「それは、お嬢さまのお心遣いを無下にはできなかったものですから」
「むげってなあに?」
「無下とは、ご厚意をぞんざいに扱うことでございます」
「ぞんざいって?」
 山本のしゃべる日本語がわからないことと、キーホルダーへの思いがわからないことで、愛梨はもどかしかった。
「ぞんざいとは······」山本は考える。
 この人は不器用なのだろうか、愛梨は思う。とにかく、山本はお揃いのキーホルダーを身につけていた。それは素直に喜ぶべきことだ、と不器用な男の頭を抱いた。
「ありがとう。これからも大切に持っていてね」
 山本はしばしの間を置いて、「はい」と小さく答えた。

 愛梨に落ち着きが見え出した頃、山本は電話口で久しぶりに出かけないか、と提案した。
「どこ? 人混みはまだ嫌だわ」
「お嬢さまをお連れしたい場所がございます。安全な場所ですので、ご心配なさらず」
「どこなの?」
「それは、楽しみにされてください」
 山本の"お楽しみ"なら折り紙つきだ。愛梨は笑った。

7.
 アラームをかけ、早朝に起きた。山本が「すこし混雑が予想されますので」と言うからだ。
 門を出ると、エンジンを吹かした車の横で山本は一礼した。
「おはようございます、お嬢さま」
「おはよう山本」
 手を引かれて乗り込むと、車内の匂いを嗅いだ。山本の匂いがした。
 ハンドルを操作する山本を見つめた。当たり前だがこちらを振り向きもしない。スマートフォンのカレンダーに『山本とデート』と打ち込んだのだ。何かデートらしい会話をしたかった。
「山本、外へ出かけるのも久しぶりね」
「そうでございますね」
「山本の"お楽しみ"わくわくして昨日の夜はあまりあまり眠れなかったのよ」
「それでしたら眠っていただいても構いません。着きましたら起こしますので」
 なんかちがう、愛梨は口を尖らせた。
「ねえ、ちょっとは会話を楽しもうという気はないの」
「会話でございますか、かしこまりました。では、お嬢さまからどうぞ」
「そういうものじゃないでしょ、自然に交わすものでしょ」
「承知いたしました。では、何について語り合いましょうか」
「もういいわ。あなたに振ったわたしが悪かったのよ」愛梨はむくれた。
 いつもは絶望的に混雑している国道も、この時間帯はすいすいと進めた。高速道路に入り、こちらもストレスなく快適に走った。
 混雑なんかしていないじゃない。愛梨は腹で思った。もしかして、自分と過ごす時間を多く取るために早朝から引っ張り出されたのか。勝手な妄想を抱き、ひとりにやついた。
「ねえ、朝ご飯は済ませた?」
「はい。わたくしのことは心配には及びません」
「えっと、じゃあお腹は空いてないのね」
「はい」
「お昼ご飯はどうするの?」
「パーキングエリアで休憩を取りますので、その際にお済ませください」
 愛梨は持ってきた包みに触れた。サンドイッチを作ってきたのだ。しかし、それを言う勇気がなかった。上手くできたか自信がなかった。いざとなると山本の口に合うか心配になった。結局、言い出せないまま車は高速道路を下りた。

 モノレールが通る住宅街を抜け、単線の線路沿いを走った。目的地に近づいてきたのか、山本の言う通り、渋滞に引っかかった。
 車も多いが、歩道を歩く団体も多い。線路脇で長いレンズのついたカメラを構えて立っている人たちがいる。ほとんどが少年だ。遠くから緩やかにカーブし向かってきた電車はレトロな車体で、少年たちは夢中でシャッターを切っていた。
 左手には海が広がっている。愛梨は窓を開け、深呼吸して潮の匂いを取り込んだ。
 ようやく目的地に着いたのか、砂利敷きの駐車場に車を停めた。見上げると長い階段があり、その上には大きな総門があった。山本が愛梨を連れて行きたい場所とは、寺のようだ。なぜ寺なのか、愛梨は首を捻った。
 長い階段を上る。半分も上っていないのに息があがった。
「ねえ、山本がお勧めする場所って、どうしてこうも歩かなくちゃならないのよ。それが目的なの?」
「それも目的ではあります。自分の足で歩いたらこその景観が、ありがたく感じるのでございます」
 そうだった、この男はどSなのだった。愛梨は荒い息を吐きながら背後を歩く男を呪った。

 総門をくぐると、広々とした境内を歩いた。そこで道が二手に分かれていた。愛梨はどちらを行くか迷った。すぐうしろをついて歩く山本に意見を求めると、「先に仏殿をお参りされてから脇道を散策されるというのはいかがでしょう」と提案した。その方がよいことは愛梨もうなずけた。寺を取り囲む山林はもうすでに色づきはじめている。
 まず水屋で手と口を清めた。山本も手袋を外し同様にしていた。
 靴を脱いで本堂に上がり、きらびやかな天井画の下に佇む大きな仏像の前で膝を折った。手を合わせて目を閉じる。ちらりとうしろを見ると、山本も短く手を合わせ、仏像を見上げていた。
 まばらに人が座っているが、あちらこちらで外国の言葉が交わされている。
 仏像を四角く一周するように廊下が折れ曲がり、壁に色褪せた掛け軸がずらりと垂れ下がっていた。それらはすべて墨絵で、僧侶に囲まれた小さな鬼を描いたものや、光を下界に落とす龍が描かれているものもある。
 仏像を背にした裏手には、池のある日本庭園が広がり、縁側に座り眺め惚けている観光客が大勢いた。観光客は美しい庭園を様々な角度からカメラにおさめていた。
 庭園の右手には戸が開け放たれた方丈があり、黒い袈裟を着た僧侶たちが静かに往来していた。
 
 本堂を出ると再び総門の前に戻り、分かれ道を進んだ。山の斜面は粗く削られた石の階段になっており、パンプスのヒールでは足首がぐらついて景色を眺めるどころではなかった。
「ねえ、龍の尾のときもそうだったけど、足場が悪いなら悪いって言って。そうしたらわたしだって靴を考えたわ」
「申し訳ございません。では、わたくしの腕におつかまりください」
 山本が肘を差し出した。むくれていた愛梨はたちまち好相を崩した。「ありがとう」そう言って山本の腕にしがみつく。
 あらためて見渡すと、赤く色づいたもみじが風に揺れ、葉擦れの音を立てていた。
「わたし、秋って好きだわ。賑やかな夏が終わってちょっと物悲しい気持ちになってしまうところとか、冬に向けて空気が澄んでくる感じとか、終わりと始まりの中間的な位置にあるのが秋って気がするの」
「終わりと始まりの中間、でございますか。とても素敵な表現ですね」
 思いがけなく山本に褒めてもらえたことが、かえって愛梨の胸を締めつけた。感傷的になるのは、寺の静寂と久しく遠ざかっていた自然に触れているせいでもあるのだろう。となりの山本も顎を上げ、空を覆う紅葉に目を細めていた。葉の隙間から降る木漏れ日をその顔に受けている。
「日本人はこうして四季の移ろいを目や肌で知ることができる。その自然の恩恵に感謝をいたさないとならないですね」
「本当、そうよね」
 感慨深げに木々に目をやる山本の横顔を見つめた。「今を大切にされてください」道子の言葉が浮かんだ。愛梨は「今が永遠に続きますように」と心の中で祈りながら、一歩一歩を踏みしめていた。
 しばらく歩いていると、茅葺き屋根の建物があった。休憩のできる茶所のようだ。
「ちょうど喉が渇いていたの。足も疲れたしここで休みましょうか」
「そうですね、そういたしましょう」
 すだれをくぐると土間があり、小さな盆の上に一輪挿しと鈴が伏せて置いてあった。
「これを鳴らすのかしら」
 愛梨が言うと、入れ替わりに出て行く三人の年配女性が「そうですよ、それを鳴らすんですよ」と教えてくれた。
 銅でできた鈴は軽やかで心地のよい音を廊下に響き渡らせた。奥から「はい」と声がして、エプロン姿の女性があらわれ「いらっしゃいませ、どうぞお上がりくださいませ」とにこやかに言った。
 通されたのは窓際のカウンター席で、窓の外をよく見渡せた。メニューなどなく、まずぬるいほうじ茶が出され、喉が潤った頃に和菓子と抹茶が運ばれてきた。
 それぞれの器は異なる焼き物で、盆の白い和紙の上には秋の彩りをイメージした生菓子ともみじの葉が載せられていた。
 SNSなどやらない愛梨だが、さすがに声を上げ、手をつける前にスマートフォンで写真におさめていた。
「お茶のお作法、山本は知ってる?」
愛梨が問うと、山本はうやうやしく頭を下げた。
「お教え願えますでしょうか」
 本当に知らないのかは怪しいところだが、愛梨は姿勢を正した。
「まず、お菓子を食べるのよ」
「かしこまりました」山本は竹の楊枝を手に取り、生菓子を切った。
「お菓子を食べてから、お茶碗をこうして持つのよ」
 愛梨の言うことを忠実に守っている山本の姿がおかしくてしかたがない。
「お茶を飲んだら、器のふちをこうして指で拭うの」
 教えた通りの所作で茶を飲む山本の喉仏が上下している。

 エプロン姿の女性が盆を下げ、熱いほうじ茶が入った急須を置いていった。
 窓から見渡せる小庭は、丸い石の道が埋め込まれていて、その奥にすっかり色を変えたもみじやかえでが植わっている。他にも様々な植木があるが、おそらく四季により咲く花などが入れ替わり、眺めも変化するのだろう。
 しばし二人は黙ってほうじ茶をすすり、庭を眺めていた。黄色いトンボが気まぐれに飛び回っている。愛梨は口を開いた。
「ひとつ訊いてもいいかしら」
「なんでございましょう」
「協会の決まりなんて、本当はないんでしょう」
 長い間を置いて、山本は答えた。
「はい、ございません」
「やっぱりね」愛梨は小さく笑った。「どうしてそんな嘘っぱちな決まりを作ったの?」
「情が湧いてしまうからでございます」山本が薄いヴェールを一枚外した。
「情が湧いたらなぜいけないの?」
「仕事に支障をきたします」
「情が湧くと仕事の邪魔になるの?」
「邪魔と申しますか、心に決まりを課し、常に己を律しておりませんと、わたくしも人間でございますので」
 ゆっくりと言葉を選びながら、山本はそう言った。
「そうだったわね。あなたが人間だってこと、はじめは気づかなかったわ」
「よく言われます」
 もう一匹トンボがついとあらわれたが、まるで誘うように二匹のトンボは庭の奥へと飛び去っていった。
「それで、その心の決まりは守られてる?」
 首を傾げその顔を覗くと、山本は穏やかな眼差しを愛梨に向けた。
「ご想像にお任せいたします」
「そう言われると嬉しい想像しか浮かばないわ」
 愛梨が笑うと、山本はもう一度言った。
「ご想像にお任せいたします」

 寺務所で愛梨は恋愛成就のお守りと交通安全のお守りを買った。交通安全のお守りは、言うまでもなく、山本の胸ポケットに押し込まれた。叩くと、小さくチリンとジンベエザメのキーホルダーの鈴が鳴った。
「いまにこのポケットをわたしからのお土産でいっぱいにしてあげるわ」

 愛梨にしてみればかなりの運動量であったせいか、空腹を覚えていた。車にサンドイッチがある。そのひとことが言えなかった。
 空腹を訴えると、駐車場の近くに古いが蕎麦屋がある、と山本が教えてくれた。
「かなり古い店でございますが」
 山本は心配そうに言ったが、愛梨にとっては何の問題もなかった。
 互いの膝がつきそうな小さなテーブルで、向かい合って温かい蕎麦を食べた。
 山本の食事をするところははじめてだが、蕎麦をすする勢いのよさと咀嚼する時に浮かび上がる首の筋に、男の力強さを感じた。
 愛梨はあんなに腹が減っていたのにも関わらず、蕎麦がほとんど喉を通らなかった。
 食事となると山本も譲らず、支払いは割り勘となった。駐車場までの道のりを、ちゃっかり山本の腕に手を回して歩いた。
「そうだ、今度は山本イチオシのお寿司屋さんに連れて行って」
「かしこまりました」
 次の約束を取り交わすと、本当に付き合っているカップルのようで、愛梨は心踊らせずにはいられなかった。

 すっかり定着した日課の電話で、山本が寿司屋の予約が取れたと言った。
「ほんとに? 何を着て行けばいいかしら」
 また険しい道を歩かされないか、前もって服装を訊いておく。
「どちらかといえば普段着に近いものでお出になられてください。下町のそう格式張った店ではございませんので」
 山本はそう言ったが、愛梨はタイトな黒のワンピースを選んだ。前に金の飾りボタンがついている。きっと洗練された大人たちが出入りする店にちがいない。すこしでも山本に並びたい。口紅も濃いワイン色を引いた。
 11時に山本は迎えに来た。愛梨が門から出てると、山本の動きが一瞬止まったように思えた。手を引いて誘導する。愛梨は脳がとろけるのではないか、と思うほどうっとりとしていた。
 コインパーキングに駐車して降りると、山本が言った。
「申し訳ありませんが、すこしここから歩いていただくことになります」
 やはりか。そう高いヒールの靴を選ばなくて正解だった。
「じゃあ、腕を組んでもいい?」
「どうぞ」山本は快く肘を差し出した。
 鉄道の高架下をくぐり、ビルの裏手へと入ると、ポリバケツや一斗缶が乱雑に置かれ、配管もむき出しの路地を歩いた。
 この男を信じると、ろくでもない道ばかり歩かされる。学習したと思えたが、まだまだ侮れなかった。 
 カラスが何かをくちばしでつついている。昼間なのに酔いつぶれた男が壁に寄りかかるようにして倒れ込んでいる。山本が愛梨の肩を抱いて通りすぎると、背中に口笛が降った。
 ごみごみとした路地を抜けると、一本のまっすぐな小路が伸び、柳の木がぽつぽつと立っていた。小路には間口の狭いスナックや赤提灯の店などがびっしりと並んでいる。営業時間外が多いが、大音量のカラオケが漏れ出ている店もある。「手相占い」と貼り紙があるガラス戸の前で、長い髪をうしろで束ねたひげ面の男がパイプ椅子に腰掛け煙草を吸っている。
 山本が立ち止まり、日に焼けた暖簾が下がる木の引き戸に手をかけた。
「いらっしゃいませえ」
 店内に威勢の良い声が響いた。テーブル席はなく、六、七人がようやく座れるカウンター席のみの狭い店だ。年季は入っているが、こざっぱりとしている。
 正午なのに客は一人もいない。板前の背後には日本酒の瓶が並べられている。愛梨が上着を脱ぐと、山本がハンガーにかけ、吊り下げてくれた。板前が台に手をついて、含み笑いを山本に向けている。
「山本さん、こりゃまたどこの女優さんかと思うようなべっぴんさん連れて。見かけによらずやりますねえ」
 山本は申し訳なさそうに顔の前で手刀を切った。
「板さん、勘弁してください。今日は大切なお客さまをご招待した次第なので」
「そうかい、山本さんの大切なお嬢さん、なんなりとご注文をどうぞ」
 愛梨は板前と山本のやりとりを見聞きし、口に手を当てて笑っていた。
「本当に山本の行きつけのお店なの?」
「はい、そうでございます」
「わあ、うれしい」愛梨は山本の腕にしがみついた。
「おやおや、さっそく見せつけてくれますねえ。山本さん、鼻の下伸びていますよ」
 板前が「山本さん」と言うと、「やまもっさん」に聞こえる。
「何か飲まれますか」山本が訊いてきた。
「せっかくだから日本酒をいただこうかしら。熱燗を一合お願いするわ」
 愛梨が言うと、山本は板前といくつか言葉を交わし、「では神亀で」と言った。
「軽いおつまみでも召し上がりますか」
「山本のお勧めはなあに」
 山本は顎を手で包み考えた。そして「貝類は苦手ではないですか」そう愛梨に訊いた。
「嫌いなものはとくにないわ」
 愛梨が答えると、また板前と話していた。
 やはり自分のホームグラウンドだからか、山本はカウンターに腕を乗せ、リラックスしているように見えた。表情も柔らかい。
 やがて、「どうぞ」と板前が腕を伸ばし、カウンターに料理の皿を置いた。貝の刺身の盛り合わせと蒸し物だ。醤油皿まで繊細な陶器で、板前のこだわりがわかる。
「一緒に食べましょ」愛梨が皿をずらすと、山本は「はい」と答え箸を上げた。
「板さん、山本はいつもひとりでくるの?」
 板前はちらりと山本に目をくれた。
「そうですねえ、たいていおひとりですねえ。一度だけ同僚の方といらしたぐらいで」
「女の人と来たりはしてない?」
 愛梨が尋ねると、板前は上目遣いで愛梨と山本を見比べ、にやりとした。
「ご安心くださいお嬢さん。だんなには今のところそんな影はないと思いますよ。大切なご婦人同伴は今日がはじめてですから。ねえ山本さん」
 となりを見やると、山本は苦そうな笑みで日本茶をすすっていた。
「お酒を飲むことはあるの?」
 ええ、と板前はうなずいた。またちらりと山本を見る。「お強いですよ。顔にはまったく出ませんから」
「ええ? まったく変わらないの? このまんまなの?」
 板前はしばし山本を眺めた。そして「まあ、このまんまと言えばこのまんまですねえ」と答えた。
「おしゃべりもしないの?」
「いや、しゃべりますよ。プロ野球の話はよくされますねえ」
「プロ野球?」
 愛梨は目をむいた。プロ野球観戦を好む存在がこれまで近くにいなかったからだ。
「ひいきのチームがAクラスに入ると、今年は長く楽しめるって嬉しそうにしてらっしゃいますよ」
「Aクラス?」
「リーグ戦を三位以内で終えることです」山本が答える。
「どこのチームのファンなの?」
「阪神タイガースです。ご存知ですか」
「聞いたことがあるわ。たしか道頓堀のある大阪のチームよね」
「そこはお間違えになる方が多いのですが、正確には兵庫県西宮市のチームです」
「あらそうなの。強いの?」
「浮き沈みの激しいチームですので、もちろん優勝は願いますが、Aクラスに残れただけでも応援の価値があります」
「山本も声を出して応援したりするの?」
「それはないですが、大きなホームランには、やはり手に汗を握ります」
 きっと少年のような顔をみせるのだろうな、と愛梨は思った。
「いつか、野球場に連れていってね」
「はい、かしこまりました」
 会話が途切れると、板前がカウンターに寿司を置いた。子供の口にもたやすくおさまりそうな、小さな寿司だ。
「他には? どんなおしゃべりをするの?」
 板前は腰に手を当て、しばしうなった。
「そうだ」と言って、また山本の顔をうかがった。「同僚の方の話なんですがね、山本さんはかつて甲子園球児だったらしいとか、いや柔道のオリンピック候補だったらしいとか。この通りご自分のことは何も話さない方だから、社内では噂話だけが独り歩きしているみたいで。ただ、ゲームセンターにあるボクシングのマシンで競争したら、とんでもない数字を叩き出したらしくて、もしも喧嘩なんかしたら一発で殺されるだろうって、みなさんおっしゃっていましたねえ。まあこのガタイですからねえ、うなずけますよ」
「山本、ゲームセンターなんか行くの?」
愛梨は身をのけぞらせたが、山本は「はい、付き合う程度ですが」とこともなげに微笑した。
 ヴェールがはがされるほど実体がつかめなくなっていく。愛梨はとなりで日本茶を口に運ぶ大男をしげしげと見た。

 洗面所で化粧を直して戻ると、板前が「毎度ありがとうございました」と山本にクレジットカードを手渡していた。
「だめよ、山本」
 愛梨が慌てて言うが、山本はクレジットカードをジャケットの内ポケットにしまいながらひとつ首を振った。
「今日は特別に貸しきりにしてもらったもので。ここだけはそうさせていただけませんでしょうか」
「そう」愛梨は言葉に甘え、山本と板前に丁寧に礼を言った。
 来た道を帰る。むき出しの配管の上を小動物が走り抜け、愛梨は山本に飛びついて笑った。
 行きにはこわごわと歩いた路地も、酔いのせいか遊園地のアトラクションのようにも思えた。何より山本の生活圏にいるのだ、ということが愛梨を高揚させていた。
後部座席に誘導する山本の腕をつかんで強く引いた。前のめりになった山本にしがみつき、首にキスをした。しばらくされるがままの山本だったが、愛梨がいっこうに離そうとしないので、「その辺でご容赦願えますか」とゆっくりと体を起こした。

8.
 たまのことではあるが、母親は恋人と旅行に出かけることがあった。愛梨もいちいち詮索しない。すこしは後ろめたさを感じるのか、母親は必ず土産を買ってくる。キラキラした小物入れに香りの強いハンドクリーム。耳に穴など開けていないのに、ピアスを買ってきたこともある。愛梨は形だけ受け取り、あとでこっそり捨てる。
 この日、ボディーガードの山本は、夕食を済ませてから軽く立ち寄る、と言っていた。
 愛梨は道子の作ったビーフシチューを食べ、道子が皿を洗うまでしゃべりかけていた。
「山本さんがいらっしゃるまで私がついておりましょうか」道子が心配そうに言った。
「大丈夫よ、山本はすぐ来てくれるから」と答え、道子を家へ帰した。

 愛梨は赤ワインのグラスを手にリビングへ移った。音楽を流し、棚から本を選んでソファに座った。父親が揃えた外国の雑誌。文字は読めないが写真はどれも綺麗なものばかりだ。カラフルなイタリアの街並みに南国のロマンチックな夕焼け。いつか自分の目で見て回りたいものだが、その時となりには誰がいるのだろうか。山本と一緒なら、きっと豆知識を織り交ぜながら楽しく観光ができるのだろう。
 山本と旅行。考えはじめると妄想が膨らみ、やはり生々しい場面ばかりが浮かぶ。自ずと頬も熱くなる。山本の到着が待ち遠しい。時刻は十九時を回っていた。
「もう、どこで何をやってるのかしら」
 電話をかけてみる。だが山本は出ない。山本が電話に出ないのは、トイレと風呂に入っている時くらいだ。そして用を済ますと必ず折り返し電話がかかってくる。待っている時間がじれったい。このままでは夜が明けてしまうではないか。愛梨はじりじりとした思いでグラスのワインをあおった。
 スマートフォンの着信が鳴った。
「もしもし、山本? いったい何をしているのよ」
「申し訳ございません。古い友人と会っておりまして。これから着替えて向かいますので、今しばらくお待ち願えますでしょうか」
「着替えなんかいいから早く来て」
「しかし······」
「もう夜が終わっちゃうわ」
 しばし沈黙があり、「かしこまりました」と山本は言った。

 結局、山本が愛梨の家に来たのは二十時になろうとする頃だった。
 玄関から上がる山本をまじまじと見た。いつもの黒いスーツではなく、ブルーのセーターにジーンズ姿だ。うしろに撫でつけられていた髪もふわりと下ろしていた。三十代といっても通りそうだ。愛梨は思わず山本の腹に抱きついた。
「やだ、山本の普段着、初めてね。素敵よ、とても若く見えるわ」
「お待たせして申し訳ございません。古い友人がこちらに来ていたもので」
「お友達?」
「はい、小中学校が同じだった友人です」
 山本の少年時代を想像する。活発な少年だったのだろうか。それとも寡黙で大人しい少年だったのだろうか。どうせ訊いてもまともに答えてくれないだろうから、想像力だけをたくましくする。
 
 いつも通り、愛梨が座るソファの向かい側に腰を下ろしたので、愛梨は癇癪を起こした。山本は愛梨がなぜ怒っているのかわからない様子だ。
 山本のとぼけた顔を見ると怒りも馬鹿らしく思えてくるが。あるいはそれもすべて計算済みでとぼけ顔をしているのかもしれない。忘れてはならない、山本はどSなのだ。
「晩ご飯、まだならビーフシチューがあるけど」
「いえ、友人と済ませてまいりましたのでお気遣いなく」
 愛梨は台所に行き、コーヒーを淹れた。コーヒーカップとクッキーをトレイに乗せて戻ってくると、山本は愛梨が出しっぱなしにしていた雑誌をぱらぱらとめくっていた。
 コーヒーを置くのに乗じて山本のとなりに座った。
「山本は海外旅行なんて行くの?」
「はい、仕事柄ごく稀にですが」
「どこの国が一番よかった?」
「そうですね、わりと若い頃に訪れたシンガポールなどは印象に残っています」
「シンガポール? どんなところ?」
「わたくしがまだ二十代の前半でしたので、今は様変わりしている部分もあるかと思いますが。当時のシンガポールは、近代的で清潔な街並みと、すこし電車で外れたところの民族色の色濃い雑然とした街が混在し、肌の色も信仰する宗教も異なる種々雑多な人々が相集い、それぞれを尊重しながら暮らしているとても良い国に見えました」
 そう、と相槌を打つと、山本は続けた。
「世界には様々な宗教があり、文化があります。日本人はわたくしをはじめ信仰する宗教を持たない者も多いですが、いっぽうで自然界のあらゆるものに神が宿ると考える独特な精神を持っています」
 どこを見るわけでもない山本の横顔に男を感じる。愛梨は胸を締めつけられた。
「そのような意識のもとで礼儀を重んじ、秩序正しく生きようとしている人間が住むこの日本が、やはりわたくしは好きでございます」
「そうなのね」
 愛梨は山本の指に自らの指をくぐらせた。このまま放っておいたら、どんどん遠くへ行ってしまうような気がして、こちらにたぐりよせたかった。
「今、わたしと山本が住んでいるこの国ね」
「日本も広いので、すべて観て回ったわけではありませんが」
「その広い日本の、ほんの一点に今、わたしたちはこうして出会っているのよね」
「はい」山本はうなずいた。
「山本と出会えてよかった」
 頑丈そうな肩に頬をつけて見上げると、山本は愛梨に目を流して微笑した。みぞおちをペンチでつねられたような感覚に襲われた。
「山本も? わたしと出会えてよかった?」
「はい」
 黒いスーツをまとっていない今夜の山本は、どうやらヴェールもまとっていないようだ。
「最近ね、またピアノを弾くのが楽しいって思えるようになったのよ」
 愛梨が得意としているバッハのゴルドベルク変奏曲やショパンの夜想曲の話をすると、山本は興味深そうにうなずいて聞いていた。
 話すことがなくなると、静寂が愛梨の上に降りた。喉がつまるように痛む。山本は静寂が気にならないだろうが、愛梨は苦しい。話の種をあれこれと考える。
「最近観た映画は何?」
「先週ツタヤで借りてきました『冬の華』という映画です」
「それは知らないわ」
「高倉健はご存知ですか」
「たかくらけん? 聞いたことがあるような気がするけど、ちょっとわからないわ。どんな話?」「葛藤の中で義理に生きる一人のヤクザの話です」
「え、ヤクザ······」
 愛梨は目を瞬かせ、二の句が継げないでいた。
「ねえ山本、あなた本当は何歳なの?」
「見たままでございます」
 いつものとぼけ顔だが、愛梨は混乱する。高倉健も知らなければヤクザの世界になど興味を向けたこともない。やはり世代間のギャップが大きく横たわる。
 ネル生地のシャツワンピースに靴下を履き、パンダのスリッパに足を突っ込んでいる自分など、山本から見たら色気もなにもない中高生と変わらないのかもしれない。愛梨は軽いめまいを覚えた。
 話題を変えよう。話題、話題。
「今年の阪神タイガースは何位だったの?」わからないのを承知で訊いてみた。
「二位でしたが、クライマックスシリーズで敗退してしまいました」
「クライマックスシリーズ?」
 山本はなるべく専門用語を織りまぜないように配慮しながら語った。
 山本の声のトーンとゆったりとした空気感に包まれているうち、愛梨はうとうとしはじめていた。
「お嬢さま、もうおやすみになられた方がよろしいかと存じます」 
「まだ眠くないわ」
「今、うとうととなされておりましたよ」
「いやよ、今夜は寝ないの。だって寝るなら山本は帰っちゃうんでしょ」
「お体に無理をかけるのはお止めください」
「無理してないわ」
 そう言う愛梨の瞼は重く瞬いている。あくびが出そうになり、必死でかみ殺した。それを見て山本はため息をついた。
「どうか横になるだけでも」
「じゃあ眠るまで傍にいてくれる?」
 山本はあからさまに困った顔をしていた。
「かしこまりました」放るように言い、立ち上がった。
「どこ行くの? 帰っちゃうの?」
「お嬢さまのお部屋です。それとも帰った方がよろしいですか」
「わかったわ、ちゃんと眠るから、まだ帰らないでね」
 二階に上がりベッドにもぐると、愛梨は手を伸ばした。椅子を引き寄せて腰かけた山本がそれを両手で握った。
 やまもと、愛梨はささやいた。山本は「はい」と答える。「なんでもない、おやすみなさい」山本は目を細めた。 
 きっと山本が父親になったら、こんな風に優しげな眼差しを向け、子供を寝かしつけるのだろう。まだ居もしない子供に嫉妬を覚える。
「おやすみのキスをして」
 山本は目を見開いた。驚いたというよりは、自分の耳を疑ったという顔をしている。パチパチと目を瞬かせる。
「それは、申し訳ありませんが」
 愛梨は寂しげに布団を引き上げた。黙って天井を見つめていると、やおら山本が椅子から腰を浮かせた。そして、愛梨の額に唇を軽くつけた。
「はい、これでご満足でしょうか。大人しくおやすみください」
「次はここ」愛梨は唇を指で差した。目を閉じて待つ。
「そこは、お許し願えますか」
 山本の声が優しくて狂おしい。愛梨は堪えきらずに涙を流した。やがて衣擦れの音がして、柔らかい唇が重ねられた。全身にしびれが回り、頬に血が昇る。唇を離す山本にしがみつき愛梨は叫んだ。
「あなたのことが好きで好きでもうどうしようもないの、苦しいの」
 ごくり、唾を飲む音がした。
「苦しくて、助けてほしいの。お願い、助けて」
 山本は黙っている。涙でかすみ、山本の瞳の奥が覗けない。愛梨はしゃくりあげて泣いていた。やがて、鼻と鼻が触れた。吸いつくように唇が重ねられた。全身がしびれる。まるで磁石のように吸いついて離れない。山本にしがみつく力を強めると、応えるように唇が押しつけられる。唇は耳に移り、首筋へと下りた。愛梨も髪に指をくぐらせ導いた。掛け布団を上げると、山本がゆるりと入ってきた。唇は喉を吸い、鎖骨をなぞる。愛梨を抱き締める力と体の熱が本気であることを語っていた。シャツのボタンがひとつずつ外されていく。下着の肩紐が指で下げられ、ピンク色の先が空気に触れ疼いた。それを山本の唇がとらえた。その途端、愛梨は弾かれたように身を震わせ声を上げた。
 その後は、とても静かになっていた。山本の動きも止まっている。
「どうしたの」
 山本は答えない。前髪が目を覆い、表情も読み取れない。
「ねえ、やまもと」
 山本の前髪がかすかに震えている。項垂れる獅子のように見えた。
「申し訳ございません」絞り出すように山本は言った。
「どうして?」
「わたくしは······」声も震えていた。「わたくしは······やはり寝室までのこのこと入るべきではなかったのです」
「どうしてそんなことを言うの? わたしは山本だから許せるの。かまわないのよ」
「いえ、大変な無礼を働きましたこと、お許しください」
「やめて、あやまらないで」
 山本は愛梨の下着を整え、シャツのボタンを丁寧にはめていった。
「申し訳ございませんでした」
 ベッドから抜け出た山本は、両手を脇に揃え、深く頭を下げた。
 胸骨のあたりが石のように固くて痛い。重く圧してくるようだった。
「わたしたちは、そうなってはいけないのね」
「はい」山本が空をにらむ。
「どんなに願ってもかなわないのね」
「はい」低くくっきりとした声が、愛梨には強く刺さった。
 愛梨は顔を手で覆い、静かに泣いた。山本は愛梨が泣き止むまで椅子に座っていた。黙って傍にいてくれる優しさが苦しくて愛しかった。

 涙が涸れる頃には、愛梨も激しく乱れた心を落ち着かせていた。椅子に座る山本を眺めれば眺めるほど、やはり自分はこの人が好きでたまらないのだ、と思った。
「わたしがこのまま山本を好きでいることは許してくれる?」
「はい」
「永遠に想っていてもいい?」
「永遠など、ございません」
「なぜ?」
「人は前へ進んでいかなかくてはなりません。そうすれば置かれる環境も変わりますし、心にもやがて変化が訪れるものです」
「わたしは山本を忘れたりなんかしないわ。絶対に」
 山本は微笑した。大人が子供を見るような笑みだった。
「山本はいつから厳しい心の決まりを自分に課すようになったの?」
 すこしためらって、山本は答えた。
「正直に申しますと、お嬢さまにひとめお目にかかった時からでございます」
「わたしと会った時?」
「はい、あまりにお美しい方だと思ってしまったもので、それ以上余計な感情が生まれないように、と自分に課しました」
「ほんとに? 気づかなかったわ。でも、わたしがあなたを好きになっていたことは気づいていたんでしょ?」
「どうでしょうか。わたくしはそれほど自分に自信は持っておりませんので」
「嘘よ、知ってたくせに。またとぼけて」愛梨は笑った。「嬉しかった? それとも迷惑だった?

 山本は白い歯を見せて、どちらとも答えずに微笑んでいる。いつからこんな風に自分に向けて笑うようになったのだろうか。
「ねえ、お願いだからわたしの前から消えてしまわないで。約束して、お願い」
「約束、でございますか」
 山本はしばらく壁を見つめていた。それから目線を愛梨に戻し、こう言った。
「では、わたくしの願いも聞いていただけますでしょうか」
「山本の願い? 何かしら」
 胸の上に置かれていた愛梨の手に、山本は両手をかぶせた。まるで魂をも包むような大きさと温もりだ。それからゆっくりと言葉を置くように言った。
「お嬢さまに降ろうとする幸せを、見逃さず、この手で必ずつかんでいただけますでしょうか」
「降ろうとする幸せ?」
 山本が大きくうなずいた。愛梨の手を温める。
「見逃さず、この手で必ずつかめばいいのね」
「はい、そうでございます」
「わかったわ、きっとそうする。だって他でもないあなたの願いだもの。そうでしょ?」
「はい、わたくしの願いでございます」
「約束するから、山本も約束してね」
「かしこまりました」
 山本の茶色い瞳にサイドテーブルのランプの灯りが反射し、輝きを散らしていた。
「お嬢さま」山本は静かに言った。
「なあに」
「そろそろおやすみになられてください。お体に無理がかかります」
 こんな愛しい時間を手放して、そう簡単には眠れるわけがないと思っていた愛梨だが、ずいぶんと泣いたせいか、穏やかな眼差しに見守られているうち、深い眠りに落ちていた。
 目が覚めた朝には、傍らの椅子にその影はもういなかった。

 母親が昼過ぎにタクシーで気怠そうに帰宅した。リビングですれちがった愛梨を凝視する。
「愛梨? あなた」
 鋭い視線が愛梨の首もとに向けられている。やがて母親は苛立ったようなため息を吐いて、部屋へ消えた。

 夜、洗面所に立った愛梨は鏡を見てぎくりとした。喉に赤い痕がいくつかあるのだ。それは紛れもなく山本の唇が残していったものだった。

 何か用事をこじつけては山本を伴い出かけた。山本の腕に手を回し、静かに歩いた。身を寄せ、見つめ合い、囁き合う。
 周りに人がいなくなるとキスをせがんだ。山本は小さく首を振るが、愛梨がしょんぼりすると、何度かに一度は仕方なさそうに、しかし優しくキスをしてくれた。
 愛梨が送り届けられる時間帯には、何故か母親はいつも庭にいて、水を撒いていた。そのせいか、別れ際の言葉をゆっくりと交わしたいのに、山本は憎らしいほど機敏な動作で車を降り、右手を差し出すのだった。

 その日は山本に二度キスをしてもらった。すこし寒かったが、歩いた海岸にはほとんど人がいなかった。どこから来たのか人が跨がった馬が三頭、砂浜を駆けていった。二度目のキスはいつもより長かった。
 門に着いた時、エンジンを切ってシートベルトを外す山本の手首を握って、もうすこし話がしたいとぐずった。身を乗り出す愛梨の背後に目を止め、山本は「お嬢さま」と小さく叫んだ。
 うしろを振り向くと、母親が門の前に立ち、こちらをじっと見ていた。手には剪定鋏を持っている。
 山本は素早く降り、車をぐるりと回った。手を引かれて出ると、母親はまるで値踏みをするかのような視線で愛梨と山本を見比べた。
「そろそろ愛梨もひとりで行動できるようになってきたわよね。もうボディーガードはいいわ。山本、愛梨をひとりで行動させなさい」
 山本は姿勢を正し、目を伏せた。
「かしこまりました、奥さま」

 その日を境に、山本の態度は出会った頃を思わせる淡々としたものになった。
 腕に手を回そうとすると数歩下がり、唇はおろか、視線すら合わせようとしない。冷ややかな空気を放ち、眠る前の電話でも「はい」か「いいえ」としか言わなくなった。次第に愛梨が話しかける言葉数も減っていった。

9.
 母親の実家で集まりがあるとの連絡が入った。愛梨の母親は五人兄弟の末っ子で、長男とは十五歳離れている。その叔父も癌で亡くなっており、三回忌の法事ということだった。
 母親は兄弟たちとも衝突が多く、集まりがあっても何か理由をつけて出席をこばむ。そしていつも代理で愛梨が行かされるのだ。愛梨は親戚の受けがいいこともあるが。特に叔父たちが喜ぶ。
 乗り換え案内のアプリを頼らずとも、母親の実家まではひとりで難なく行ける。ワイドビュー列車とローカル線を乗り継いで最寄り駅に着いた。
 駅舎は古く駅員などもいない。踏み切りを渡ると、泥のついた白いミニバンが停まっていて、助手席の叔母がこちらに向かって手を振っていた。
 黒い衣装や靴、化粧道具などぱんぱんに詰めたキャリーバッグの持ち手を畳み、うしろのシートに乗り込んだ。
 いっそ気持ちがいいほど何もない畑だらけのあぜ道を進む。
「二年経つと愛梨ちゃんも立派な大人になっちゃうんだねえ。離婚したって聞いてたから心配してたんだよ。でも、前より綺麗になったんじゃない。響子に似てきたわねえ。響子はどうしてる? あの子は本当にわがままだわ。あの子が十二歳の時、タレントオーディションを受けるって言い出してねえ······」
 何度も聞いた話だ。
 小さな町へ入る。役場や学校以外さして高い建物はない。もちろん電気やガスなどのライフラインは通っているが、実家の風呂場はいつも寒く、ヘアドライヤーのひとつもない。自ずと荷物もかさむ。
 キャリーバッグを叔父が運び込んだ。すでに揃っていた従姉妹たちが愛梨を迎える。身につけている洋服やバッグにまずは食いつく。
 半島をひとつ越えたところではあるが、彼らにひどい訛りなどはない。
 誰の子供だったか、小さな女の子が愛梨の手を引く。畳に上がってさっそく子供たちがヒーローごっこをはじめ、付き合わされる。放っておくと延々付き合わされるので、やられたふりをして部屋から退散した。
 縁側には幼い頃から知る近所の住人が訪れていて、畑でとれた野菜や手作りのおはぎなどを愛梨に手渡す。
 従姉妹たちはみな、同じ県内に住んでいるので、愛梨はしばらくお客様のようにもてなされる。夜には台所に立たされるが。
 二間続きの和室に布団を並べ、従姉妹やその子供たちと夜を過ごした。携帯ゲームを止めない子供が怒られ続けていた。従姉妹たちのおしゃべりも静まる気配がないが、叔父たちへのお酌回りで疲労困憊していた愛梨は、布団に入るなり眠りについた。
 法事も無事に終え、愛梨は畳の隅に積み上がる土産の山を見て、困り果てていた。今回は山本に頼るまいと思っていた。会話らしいものもなくなっていたし、むっすりとした無表情を向けられると気が滅入った。
 しかし······。迷った末にスマートフォンで電話をかけた。

 翌朝、ぴかぴかに光る黒塗りの車が家の前に横付けされ、黒いスーツ姿の大男が愛梨の指示通りに従順に動く様子を、従姉妹や子供たちが物珍しそうに見ていた。
「また来てな、愛梨ちゃん」叔父が言った。
 乱れた白髪頭もそのままの寝間着姿で、見送りに出る親戚たちに囲まれているのが恥ずかしかった愛梨は、挨拶も早々に車に乗り込んだ。どこかに何かを置き忘れてきたような気持ちが愛梨にまとわりつく。
「お疲れのご様子ですが、どうぞ遠慮なくおやすみになられてください」ハンドルを握る山本が淡白に言った。
「じゃあそうさせてもらうわ」
 目を閉じたが眠れない。まどろんでいるふりをしていたが、それもかえって疲れた。ひとつため息を吐いた。
「何か音楽を流してくれる」
「かしこまりました」
 山本はオーディオをいじった。流れてきたのは沖縄調のヒーリングミュージックだった。景色にも季節にもまるで似つかわしくないが、三線の単調なリズムに不思議と神経が和らいだ。
「これ、なんていうCD?」
「一般に売られているCDではございません」
「どういうこと?」
「わたくしがパソコンで編集したものでございます」
 へえ······。意外な一面を今になり知る。

 途中、海岸沿いの道を走行していた。三叉路の交差点で赤信号にかかり止まっていると、『一栄(いちえ)岬 この先一・五キロメートル』という看板が目についた。
「岬ですって、観光名所なのかしら」
「ある意味では有名な観光スポットのようでございます」
「ある意味?」
 珍しく含んだ言い回しに首をひねった。
「はい。ですが、お嬢さまがおひとりで観光されるにはあまりお勧めできる場所ではございません」
「どうして?」
「おひとりで楽しめる場所ではないからです」
「そんなの行ってみなくちゃわからないじゃない」
「そうですが、お嬢さまにとりましてはたいして意味を持たない場所であることは申し上げておきます」
 いつになく煮えきらず歯痒い。ここのところの山本の態度への苛立ちも積もっていた愛梨は運転席をにらんだ。
「意味があるかないかは、観てわたしが判断するわ。寄ってちょうだい」
「······かしこまりました」
 信号が青に変わり、山本はウィンカーを出しハンドルを切った。

 岬の入り口の無料駐車場に車を停めた。屋根のビニールは破れ、看板も錆びた薄暗い売店を過ぎ、『順路→』と示された一方通行の道を進んだ。左右には見たことのない個性的な植物が自生し、まるで南国のようだ。順路を歩くほとんどがカップルだった。
 ロープが巡らされた崖の際に立つと、遥か下に望む波しぶきがごうごうと唸りを上げている。
 しばらく進むと、人々が留まり順番を待っていた。あるポイントに立つと、彼らは中腰になる。それから手を合わせ何やら祈るのだ。いったい何が見えるのだろうか。愛梨の順番がくると、真似をして中腰になった。
 突き出た岬の絶壁が波でえぐられたのか、丸く穴が開いている。上半身を微妙にずらしながら穴を覗くと、そこから沖合いに隆起しもたれかかる格好の二つの大きな岩が見えた。
 カップルたちはあの岩を眺めながら手を合わせていたのだ。「ひとりで訪れるような場所ではない」山本の言葉の意味がようやくわかった。あのもたれかかる岩は、おそらく象徴としての夫婦岩なのだろう。そして穴から覗きながら恋人同士が一緒に手を合わせると、未来永劫結ばれるといった類いの願掛けになるのだろう。
 愛梨はひとりきりで中腰になっている自分が急に恥ずかしく思えた。そうなのだ。だから山本は煮え切らない態度をとったのだ。
 走り去るようにして順路を出口まで向かうと、岬を半周し、元の売店の前へ戻った。
 羞恥心で顔を真っ赤にしている自分の姿を山本に見られたくなかった。何事もなかったかのように振る舞う自信もなかった。
 車へ向かう足を止めていると、視界の隅に黒い塊があった。売店の前で山本がしゃがんでいる。地面を見ているようだ。何をしているのだろうか。背後へ近づいた。
「ここの看板猫のようでこざいます」山本が言った。
「猫?」
 覗くと、まだ小さく細い白猫が地面に体をこすりつけていた。山本は手袋を外した手で子猫をいじっていた。子猫も警戒心などないようで、山本の指に小さな顎をすりよせている。
 山本は愛梨を見るでもなく子猫と戯れている。愛梨はその背中に、山本の精神の襞の細やかさを見た。
 愛梨が想像する以上に山本という人間は大人であり、他者の心理を洞察する能力に長けているのだろう。愛梨の心の内など手に取るようにわかるのだ。そのことに愛梨は畏怖さえ覚えた。
「猫はお嫌いでいらっしゃいますか」
「え? いえ、嫌いじゃないけど」
「では、お嬢さまも撫でられてみてはいかがですか。人懐こい猫のようでございます」
 愛梨は山本のとなりにしゃがんだ。それとなく顔をうかがうが、山本は子猫に物静かな眼差しを向けている。
「ふわふわで小さくて、何だか頼りないのね」
「母猫は車にはねられてしまったとのことで、今は店の方が餌を与えているそうです」
「それはかわいそうね」
「動物というのはたくましいものです。どんな環境でも生き抜いていける力を持っております」
「そうなのね」
 山本が人差し指を振ると、前足で必死に食らいつく。指の動きに合わせて真剣に首を振る子猫の仕草が可愛らしく、愛梨は思わず声を上げて笑った。山本が言った。
「手を洗ってまいりますので、すこしお待ち願えますでしょうか」
「じゃあわたしも洗ってくるわ」
 至るところに虫が這う、タイル張りのトイレで手を洗った。鏡を見る。唇を結んでこちらを見ているその顔は、不出来で何ともお粗末なものだった。

 愛梨は山本の言葉に耳を貸さず、恥をかくはめになった自分をいたずらに責め、やり場のない感情をいつまでも胸に転がしていた。
 窓の外に海岸線を紅色に染めるサンセットビューが広がっているが、顔を上げる気力などなかった。
 こんな状態をも山本は見透かしているのだろう。消えてなくなってしまいたかった。「だからあらかじめ忠告したではないか」とでも口にしてもらった方がずっと救われるのに、と思った。山本の運転する姿を盗み見るが、この男はいったい誰なのだろうか、という思いすら抱いた。
 帰り着く頃には愛梨の精神はひどく消耗していた。車を降りる際に差し出された右手の、その手袋の先に染みが付着していた。出血でもしたのか、薬指の腹が赤く染まっている。
「どうしたの、それ」
 山本は手袋を外した指を見た。
「岬にいた子猫にひっかかれた傷のようでございます」
「大丈夫? 救急箱を持ってくるから待ってて」
「それには及びません。一晩で治るものでございます」
「でも痛むでしょ。猫の爪って案外鋭いもの」
「傷を恐れていたら寝と戯れることなどできません。何事においても、です」
 愛梨は顔を上げた。山本はまっすぐに愛梨を見ている。その時、愛梨はそこに静かに透き通る湖面のような心の在処を見つけた気がした。
「山本······」
「はい」
 あなたっていったい······。口に出すと山本が消えてしまいそうで、何も言えずに目をそらした。
 「おやすみなさいませ、お嬢さま」
 山本が去った門の中で、愛梨は立ち惚けていた。胸がつかまれたように痛んでいた。

 いつものように朝とはいえない時間に起き、リビングの扉に手をかけた時だ。母親が誰かと電話で話していた。
「そうね、そうしてらっしゃい。あなたの為にも愛梨の為にも、それが賢明な判断ね。ええ、いいのよ。すこしはそんな時間も必要だわ。今はなおさらね」
 愛梨が扉を開けると、母親は慌てた様子で通話を切った。
「わたしがどうかして? 電話、誰?」
「何でもないのよ、あなたには関係ないわ」
「関係ないって、だってわたしの名前を」
「関係ないのよ!」
 眉尻が吊り上げっている。愛梨はそれきり黙って台所へ行った。賢明な判断、という言葉がひっかかっていた。わたしの為とは? なんだろう。

 それでも愛梨は何か出かける用事を探して山本を使う理由を設けた。何でもいい。会話をしないと、会話をせずとも、会って顔を見ないと、もう山本が手の及ばないところへ行ってしまいそうに思えた。
 ある日の午後、門を出ると、停められた車の脇には見知らぬ男が立っていた。車種もスーツの色も同じように見えるが、どこかがちがう。ひょっこりと頭を下げたのは、山本よりも若く調子の良さそうな男だ。彼は快活に言った。
「おはようございます、お嬢さま」
 ぽかんと突っ立っている愛梨に若い運転手は慌ててこう言った。
「あ、失礼いたしました。ワタシは小宮と申します。本日はよろしくお願いします」
 そして後部座席のドアを開け、右手を差し出すこともなく、愛梨が乗り込むのを待った。
 シートベルトを絞め、小宮は振り返った。
「本日はホテルでのご昼食とガラスアートの展覧会のご鑑賞でよろしかったでしょうか」
 まだ反応できない。状況がつかめなかった。小宮は続けた。「出発してもよろしいですか」
「あ、あの······山本、は?」
「はい、本日は山本の代わりにワタシがお嬢さまの送迎をさせていただきます」
「なぜ?」
「はい?」
「だから、なぜ山本はこないの?」
「はい、ですから本日はワタシが代わりを勤めさせていただきます」
 調子はいいが、小宮は愛梨の質問をさらりとかわした。胸に不快な塊が込み上げる。それを吐き出すように言った。
「どうして山本じゃないの? 山本はどうしたのよ? なぜ代わりの人なのよ?」
「はい、申し訳ありません。ワタシで力足らずではございましょうが、ご容赦ください」
「そんなこと聞いてるんじゃないのよ。山本は何しているのよ」愛梨ははっとした。「まさか、辞めてしまったわけじゃないわよね。そうなの? 山本は辞めてしまったの?」
「いえ······」小宮は唾を飲んだ。「辞めたというわけではありません。詳しいことはプライバシーに関わるので、規約上申し上げられないのですが、本日はワタシが代理ということでご勘弁願います。それ以上は、申し訳ありません」
 ぺこぺこと恐縮している若い運転手に、愛梨は憎悪に近い感情を覚えた。
「辞めたわけではないなら、山本が来ないのは職務放棄じゃない」
「はあ、そこは会の規約でお話しできないもので······。あの、出発しても」
「もういいわ!」
 愛梨は自らドアを開け、車を降りた。リビングへ直行すると、ソファでくつろぐ母親に飛びかからんばかりに言った。
「山本をクビにしたの?」
 母親はわざとらしくゆっくりとした動作で紅茶のカップをソーサーに置いた。
「何の言いがかり」
「ねえ答えて、クビにしたの?」
「別にクビになんかしていないわよ。何よ血相変えて」
「ならどうして知らない人が来るのよ。どうして山本じゃないのよ。代理なんて聞いてないわ。クビにしていないなら、どうして山本はー」
 愛梨はあの"賢明な判断"という言葉を思い出した。
「山本はどこに行ったの? 転勤か何かでどこかへ行ってしまったの?」
「もう、きゃんきゃんとうるさいわね。たかが運転手が代わったくらいで何をそんなに騒いでるのよ。展覧会に出かけるんじゃなかったの」
 愛梨はバッグを床に投げつけた。
「なぜ運転手が代わったのかを訊いてるの。教えて、山本はどうしたの?」
 天井を仰ぎ、母親は大きくため息を吐いた。
「しばらくお休みをくれって言ってきたのよ」
「お休み? 山本がそう言ったの?」
「ええ、そうよ」
「どうして?」
「さあ、休みたいからじゃないの」
「いつまで? 一週間くらい?」
「ばかね、そんな程度で休暇なんて願い出るわけないじゃない」
「じゃあいつまで? 本当に休暇なの?」
「知らないわよ!」母親は叫んだ。「そこまで知るわけないでしょ。鬱陶しいわね。わかったら代理の運転手で出かけなさい」
 愛梨は母親をにらんだが、母親はぷいと横を向いた。踵を返して部屋に駆け上がった。
 山本が休暇を願い出たー。
 昨夜予約を入れた電話では何も言っていなかった。愛梨はスマートフォンで山本に電話をかけた。だが、出ない。なぜ、突然休暇を取ったのか。果たして本当に休暇なのか。休まなければならない理由でも生じたのか。あるいは休まざるを得ないほど体調を崩しているのだろうか。そんな片鱗はうかがわれなかった。体調でなければ······。
いや、ちがう。わたしを避けた? なぜ? そうか、山本を追い込んだのは自分だ。山本をくたびれさせたのだ。想いを押しつけ、言うことをきかせ、挙げ句、言葉に耳も貸さずに我を通す。山本は疲れきってしまったのだろう。おそらく山本は、もう······。
 視界が狭まり、胸がえぐられるような感覚に襲われた。手のひらに冷たい汗がにじむ。呼吸も浅く、天井が回る。ぺたんと床に尻をつけ、放心していた。
 真っ暗な中、体を揺さぶられていた。誰かが名前を呼んでいる。部屋の灯りがともされた。道子が顔を覗き込み、肩を揺すっていた。
「大丈夫ですか、愛梨さま」
 道子の声がいつもとちがい、耳に障る。皮膚感が遠く、頭の中に何かがびっしりと詰め込まれているようだ。
「山本が······」
「はい、私も先ほど聞きました」
「どこかへ行ってしまったの。もう帰ってこないの」
「しっかりなさってください」道子が背をさする。
「わたし、嫌われてしまったんだわ。山本をうんざりさせてしまったんだわ。だから去って行ったのよ」
「お食事の時間ですよ、立てますか」
 腰に回された道子の手を払った。
「山本に見放されたのよ、わたしがばかな人間だから」
「愛梨さまはばかな人間などではないですよ。とても純粋に山本さんを想っていらっしゃっただけです。そんな愛梨さまを山本さんも見ていらしたはずです。ご自分を責めるのはおやめください。そうして何かが変わりますか」
 道子の言う通りだ。何も変わらない。そうだった。そもそも愛梨と山本の間には越えることのできない大きな隔たりがあったのだ。そして、山本はその隔たりを自らの足で跨いで越えてこようとする人間でもなかった。ふたりの先には未来も自由も与えられることなどないのだ。山本は先んじてそれを悟り、愛梨を得る手前で身を制した。その強さを讃えねばならないのに、いつまでもしがみついていたのは愛梨だけだった。

10.
 忘れる。忘れなければ。一日一刻がその思いとの闘いだった。忘れるには、まず憎むという感情を持つ必要があった。憎しみを抱けば自分自身を責めずに済んだ。そして憎しみは蔑みに変わった。山本という人間をくだらない存在だと思った。これまで過ごした記憶も、カーテンの隙間から隠し撮りした山本の写真も、すべて削除した。
 ただ肺に酸素を送り込み、二酸化炭素を排出する行為のみに神経を集中させた。
 眠っている時だけが楽になれた。様々な夢を見たが、目を覚ますとそれらは指ですくい上げた砂のように、意識からこぼれ落ちていった。
 友人とも積極的に会い、ミシュランの星のついた店やハイブランドの店を巡っては思い切り金を使った。至るところでクリスマスソングが流れ、色とりどりのイルミネーションが街を華やかに飾っていた。

 送迎の運転手も、見るたびに黒いスーツの中身が入れ替わっていることにも慣れてきたある日、日帰りの温泉でも行こうと予定を立て、門を出た。
「おはようございます、お嬢さま」
 低くゆったりと耳に馴染んだ声が愛梨に届いた。おもむろに顔を上げると、果たしてそこに直立していたのは山本だった。心が動くことを封じてきた愛梨は、それが山本であると認識するまでに時間がかかった。
 山本は後部座席のドアを開け、スマートな動作で右手を差し出した。身じろぎもせずににらみつけているように見えたのだろうか。山本は目を伏せた。
「ご無沙汰いたしておりました、お嬢さま。本日より復帰いたしましたので、またよろしくお願い申し上げます」
 そして白い右手を愛梨の垂れ下がった左手に近づけた。
「お乗りくださいませ」
 何かに操られるかのようにそこに左手を置くと、山本は肩を傾け、もう片方の腕で乗り込む愛梨の頭をカヴァした。静かにドアが閉められ、ゆるやかに車は動き出した。
 真っ先に何を言うべきなのか、言葉を探した。このひと月などなかったかのように、山本はハンドルを操作している。そして、相変わらず自分から話しかけてくる気安さも持っていなかった。

 そこは会員制の温泉宿のため、平日はたいてい混み合うこともなく静かに温泉に入り、マッサージや食事処なども利用することができた。
 幼い頃は父親の運転で家族揃って訪れていたが、今では母親とふたりか、こうして愛梨ひとりで気晴らしをしに来ることの方が多かった。
 露天風呂で湯を肩に回しかけながら考えていた。なぜ山本は戻って来たのだろうか。愛梨の前から去る決意でいたのではないのか。本当に休みたいだけだったとでもいうのか。それならそうと
なぜ愛梨に言わなかったのか。なぜひと月も必要だったのか。なぜ······。
 湯から上がると、愛梨はフロントに向かった。
「予約はしていないのですが、空いているお部屋はありますか」
 フロント係はパソコンを操った。
「あいにく川側のお部屋は埋まっておりまして、山側のお部屋しかお取りできませんが」
「構いません」
「では、こちら三〇五号室でお取りしました。ごゆっくりどうぞ」
 エントランスの中央には大きな生け花が飾ってあり、それを取り囲むように椅子が並べられている。その奥にエレベーターがある。ボタンを押し、三階へ上がる。小さくクラシック音楽が流れる絨毯敷きの廊下を歩く。旧式の鍵でがちゃりと扉を開け、部屋へ入った。
 襖をスライドさせると、窓に迫る竹林の景色があった。畳の匂いが鼻孔をつく。座椅子に座った。
 さて、どうするか。考える前に風呂上がりのせいか、ひどく喉が渇いていることに気がついた。
 備え付けの冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出した。伏せて置いてあるグラスとともに座卓に持ってきた。プルトップを開け、グラスに注ぐ。味など気にすることもなく、ひと缶一気に飲み干した。もうひと缶持ってこようかと思ったが、酔いつぶれるわけにもいかないので、踏みとどまる。軽い眠気が襲ってきた。おかげであれこれと考えを巡らせることもなくなった。スマートフォンで山本に電話をかける。
「はい、山本でございます」
「お風呂場で転んで腰を強打してしまったの」
 愛梨が適当にそう言うと、気怠い無音があった。 
「なんて嘘はとっくに通用しないわよね。なぜ電話したかわかる?」
「どちらにお迎えに上がればよろしいでしょうか」鉄のような冷ややかさだ。
「三〇五号室」とだけ伝えた。
「かしこまりました」ぷつりと通話が切れた。

 何を考えるでもなく、竹林を眺めた。風が吹くとざわざわと音を立てて揺れる。本当に眠くなってきた。
 チャイムが鳴った。出ると、先ほどのフロント係が顔を覗かせた。
「ご気分は大丈夫ですか? 運転手の方が心配だと様子を見に来られましたが、お通ししてもよろしいでしょうか」
「ええ、ごめんなさいね。構わないわ」
 黒く光沢のある革靴を脱いで上がると、山本は後ろ手で襖を閉じた。愛梨が黙って腰を下ろす。山本は向かい側に回り込み、「失礼いたします」と座椅子を横にずらして畳に正座した。
 山本を眺めた。背筋を伸ばし、目は空を見つめている。そうだ、こんな顔をした男だった。
 違和感を覚えるのはなぜだろうか。頬が痩せた? そのせいか、どことなく疲れているようにも見える。
「とても長い休暇だったのね」
「長期の休暇をお許しいただけたことに感謝申し上げます」
 空々しい。愛梨は腹で思った。
「わたし、あなたはもう辞めたものだと思っていたのよ」
「辞めるつもりはございません。ただ、休みをいただきたかっただけでございます」
 ふうん、愛梨は鼻を鳴らした。
「いい休暇になったかしら」
「おかげさまでとてもいいリフレッシュ休暇となりました」
「そう、よかったわ。それで? 休暇中はどんなことをして過ごしていたの?」自分でも怖くなるほどの低く重たい声だ。
「旅行などし、過ごしておりました」
「それは自由な時間が持てたのね、結構なことだわ。どこへ旅行してきたのか訊いてもいいのかしら」
「中央ヨーロッパの方でございます」
「中央ヨーロッパというと、どこの国?」
 執拗に尋ねたくないからさらりと答えて欲しかった。
「ハンガリーやチェコ、オーストリアを回ってまいりました」
 シンガポールについて熱く語っていた山本を思い出した。あんな風に遠くを眺めるような眼差しで世界を観てきたのだろう。あの時の横顔は、ひとりの男のものだった。
「どんな旅だったのか、お話を聞かせていただける? もちろんあなたが嫌でなかったらだけど」
「いえ、構いません。では、観て回りました風景などをお話しさせていただきます」
「その前に足を崩してちょうだい。わたしまでくつろげなくなるから」
 では失礼して、と山本は正座を崩しあぐらをかいた。わずかに前屈みになった姿勢で苦しいのか、ジャケットの前ボタンを外した。それから、訪れたすべての国がとても寒かったことから話をしはじめた。
 ハンガリーの首都であるブダペストの夜は静かで、オレンジ色の街頭に浮かび上がる建物が壮麗だったこと、チェコのプラハはどこか陰鬱で、モルダウ川にかかる橋にたむろする子供らの動向が怪しく物騒だったこと、水より缶ビールの方が安い物価に驚いたこと、オーストリアは華やかで、ザルツブルクではミュージカルで有名なスポットを観光できたことなどを、淡々と語った。
「そこなら昔、わたしも行ったことがあるわ」
「そうでございましたか」
「たしかザルツブルク音楽祭の期間だったから、夏だわ。お母さまに連れていってもらったの。勉強になるからって。まだ中学生だったからどこを観て回ったのかは忘れちゃったけど、音楽祭の期間中は大小様々な演奏会がどこかしらで行われていて、みんな着飾って夜の街を歩いているの。時差のせいでオペラも寝ちゃったし、今思えばもったいなかったわ。何となく覚えているのは、小さな宮殿での演奏会で、四重奏だったかしら、ピアノも入っていた気がするから五重奏だったのかしら。とにかく窓が開け放たれていたから、外から聞こえてくるパトカーのサイレンなんかがうるさくて、まったく音楽に集中できなかったの。けど、天井画とシャンデリアがすごく綺麗だったことだけははっきり覚えているわ。あと、お皿にいつも盛って出てくるザワークラウトが苦手だったこともね」
 気づいたら、愛梨は薄い笑みを浮かべていた。話に聞き入っていた山本もつられたのか、同様に目を細めている。互いの視線が交錯した。
 目の力を緩めている山本は、やはり疲れているように見て取れた。保っていた平静が乱れはじめた。
「とても疲れているように見えるわ。すこし痩せた?」
「気のせいでございましょう。柔道に打ち込む時間も取れましたので、体を絞りましたことがそのように映るのだと存じます」
 愛梨にはまるで強がりにしか聞こえない。無表情もいつもの冷淡なものではなく、表情を作る筋力に強さが感じられないのだ。
「ねえ、何を意地張っているの?」
「なぜわたくしが意地など張る必要がございましょう」
「だったらどうしてそんなにやつれきっているのよ。まるで精気がないわ」
「鍛練が足りなかったのでしょうか。出直してまいります」
 山本は開き直っているのだろうか。それともやけにでもなっているのだろうか。
「お願いだからはぐらかさないでちゃんと答えて。わたしも真剣に訊いてるの」愛梨は声を荒らげた。「わかったならわかったって言って」
「わかりました」山本は肘を曲げ、手を腿に置いた。
「わたしのせいなのね」
 山本は返事をしない。空を見つめ、待てと命じられた犬のようにじっとしている。
「返事をしないのは肯定と捉えていいのね。本当はわたしの前から去ろうとしたのね。辞めて別の家と契約するつもりだったんじゃないの」
「わたくしに仕事を選ぶ権限などございません」
「権限があったら行使したかったんじゃないの」
 しばらく愛梨を見つめ、山本は言った。
「わたくし自身が、お嬢さまからすこし離れた場所に身を置く期間を設けるべきなのではないかと考えました」
「どういうこと?」
「お嬢さまにとりましてはわたくしなど一介の運転手でございましょう。そして、わたくしもそうでなければならないと自らを見つめ直し、原点に立ち返る必要がありました。その為の期間でございます」
「誰があなたなど一介の運転手だなんて言ったの」
「言ったかどうかではなく、現実の立場の問題でございます」
"現実の立場"それを突きつけられたら、もはや何も言い返せない。つまるところそうなのだろう。それは愛梨にもわかっている。それが自分を焚きつける大きな要因であることも。
 いっぽうで、だから何なのだ、という反抗心も湧いてくる。そして山本にはそれがないのだろうか、という疑念を抱く。
「立場ってそんなに大事なこと」
「わきまえない人間は、社会に生きる者として失格であると存じます」
 結局、山本は怖いのだ。保身が最優先なのだろう。その為には人としての自然な感情も切り捨てる。要するに臆病なのだ。ひとつ前へ踏み出すこともできない小心者なのだ。取り澄ました顔をして、その仮面の下で本当は神経をびくつかせているのだろう。あるいは笑っているのかもしれない。一方的に想いを募らせている愛梨を眺めて。
 こんな男に心酔していたのか。そしてあんなに憎んだのに、なぜ今もなおその気配に心をかき乱され、狂わされているのだろうか。
「もういいかげんにして······」みぞおちが震えはじめた。「消えたりあらわれたり、わたしをどうしたいのよ。面白い? 人をもてあそんで楽しい?」
「お嬢さま」山本が口を挟んだ。
「賢明な判断ってそういうことだったのね、今わかったわ。お母さまに泣きついたのね、わたしがしつこくて鬱陶しいからなんとかならないかって。わたし、いい笑い者よね。協会とやらの同僚ともお酒の席で話のネタにでもしていたの? 単純で馬鹿な娘がいるんだ、なんて笑い飛ばしていたの?」
「お止めください」
「だってそうじゃない。自分に勝手に夢中になっている女の子がいるけど、自分は相手にするつもりなんか毛頭なくて、何か言ってくれば適当に受け流して、あとは協会の決まりだとか立場だとかって逃げればその場は済む。でもわたしがあなたに執着している限りは自分は絶対にクビにはならない。かえって都合がいい。だから言わせておけ。そうなんでしょ」
 声は上ずり、最後の方は叫びにも近かった。山本は何も言わない。何の感情も表にあらわすことなく愛梨を見ている。それが愛梨を逆上させた。
「そんな涼しい顔がいつまでも通ると思わないでよ。そんな上っ面の顔、わたしが剥ぎ取ってやるわよ」
 愛梨はテーブルを叩き、身を乗り出した。
「どうぞ」
 山本はまるで皿に乗せた料理でも差し出すかのように言った。
「なに?」
「お気の済むまでお剥がしください」
 愛梨の顔は紅潮し、目のふちに熱い痛みすら覚えた。気がつくと立ち上がり、山本につかみかかっていた。倍はちがうだろう体重差では、山本は畳に手をついただけで倒れることもなかった。胸を叩こうが、肩を押そうが、髪をつかもうが、頬をつまもうが、太い首をぐらつかせるほどのダメージしか与えられない。ジャケットはなかば脱げ、ネクタイもほどけ、うしろに撫でつけられた髪も乱れ、ワイシャツもおおかた裾が出ていた。だがそれだけだ。ただ、愛梨の息だけが激しく上がっていた。
 力尽き、にらみつけながら荒い呼吸をしている愛梨を、山本は終始目をそらさずに見つめていた。
「どうしたら······」愛梨はかくりと山本の肩にひたいをつけた。「どうしたら、この苦しみから解放されるの」
 山本は愛梨の背に手を添え、引き寄せるようにゆっくりと畳に背中をつけた。そして自らを解き放つように大きく息を吐いた。山本の胸が上下する。
「お嬢さまの苦しみは、わたくしの苦しみでもあります」
 山本の上に乗り、瞳の中を覗いた。茶色がかったその瞳は、愛梨がまだ見たこともない様々なものを写してきたのだろう。見たくないものもあったはずだ。しかしすべてを直視し吸収して生きてきたのだ。
 愛梨は底のない井戸を想像していた。
「お嬢さまがお笑いになられると、わたくしも嬉しくなります。お嬢さまが悲しみを抱かれますと、わたくしも悲しくなります。お嬢さまのお心が動かれますと、わたくしの心も伴うように動くのです」
 愛梨はしばし山本の言葉を咀嚼した。
「なぜ?」
 その問いに山本は答えなかった。しかし、見下ろす愛梨の髪を指で耳にかけ、頬に手を当てた。
「ねえ、なぜそう感じるの? 教えて」
 その答えは互いがじゅうぶん過ぎるほどわかっていた。ただ、愛梨はそのひとことを口にして欲しかった。山本が自ら言葉にし、愛梨にぶつけることなどないとわかっていたが。
 もどかしく、いつまでもその胸を揺さぶりつづけていた。山本はその振動が心地良さそうな目をしていた。愛梨は唇を山本の唇に近づけた。
「お嬢さま」山本が小さく首を振った。
「最後にもう一度だけ。だめ?」
 小首を傾げる愛梨の背中に腕を回し、山本は勢いをつけてくるりと体を反転させた。今度は山本が愛梨の上に乗る形になった。愛梨を見つめる山本の涙袋が膨らんでいる。愛梨は目を閉じた。

 宿をあとにした車の中で、クリスマスの話題で盛り上がった。愛梨がサンタクロースからもらったプレゼントを見せびらかしている友達をやっかみ、ばかにして笑い飛ばした子供の頃の話をすると、山本は意外にも小学生の頃までサンタクロースの存在を信じていた事実を打ち明けた。
「可愛らしい子供だったのね」愛梨は笑った。
「単純なだけでございます」
「きっと素敵なご両親だったんだわ」
「わたくしの母親の誘導尋問はじつに巧みなものでございました。わたくしがサンタクロースに願うものなど簡単に引き出していたようです」
「何をサンタクロースにお願いしていたの?」
「たいしたものではなかったように記憶しております。プラモデルですとか、プロ野球選手のサイン入りボールですとか、そんなものでしたのでしょう」
「へえ、案外ふつうの少年だったのね」
「今はふつうではございませんか」
 山本は冗談を言っているつもりなのだろう。
「山本はふつうじゃないわ」愛梨は堅い声で言った。
「そうでございましたか、失礼いたしました」
 笑っているのか、ハンドルを握る山本の肩が揺れている。
「山本はふつうじゃないの」愛梨の声色を察したのか、山本の肩の揺れが止まった。「山本は、とくべつなの」
 たっぷりとした間を置いて、山本は吹っ切れたような明るい調子で言った。
「お嬢さまもとくべつでございます」
「だったら、山本の人生で一番に残るわたしとのとくべつなクリスマスの時間を作ってよ」
「わたくしの人生で、でございますか」
「そう、あなたの人生とわたしの人生で、一番に残るとくべつなクリスマスを作って欲しいの」
「かしこまりました」
「約束よ」
 愛梨が小指を立てて前へ出すと、山本はそれに自分の小指をからめた。

 温泉宿で過ごした時間が長かった分、帰りついたのは日付けが変わるぎりぎりになっていた。
 山本がヘッドライトを消し、シートベルトを外している隙に、愛梨は自らドアを開け助手席に乗り込んだ。
 山本の首に両腕を回すと、山本は「日付けが変わってしまいますので、お家に入られた方がよろしいかと存じます」と愛梨の両脇に手を入れ押し返した。
「降りないって言ったら?」
「わたくしが力ずくで引きずり降ろすことになります」そう言う山本の目尻にはしわが刻まれている。
 まだ首にぶら下がる愛梨の腕を手でほどき、「お嬢さま、そろそろ」と山本がたしなめた時だ。窓がノックされた。
 見ると、母親が車の外に立っていた。山本に手を引かれ車から降りると、母親はひどく難しい顔をしていた。
「早く中へ入りなさい。山本、あなたもよ」
 山本は「はい」と答え、車のエンジンを止めた。

 母親は愛梨と山本を並んでソファに座らせた。二人をねっとりとした視線で見比べている。
 凝縮された空気と、ちかちかと点滅するクリスマスツリーの光が釣り合いを欠いている。愛梨がとなりを見ると、山本は床に目を落として神妙な面持ちをしている。腿の上で固く握られた拳が何を語っているのか、愛梨には推し量ることができない。
「あなたたち、とうに一線は越えているのよね。いつからなの?」
「一線?」
「しらばっくれても無駄よ。あなたたちが今さっき車の中でしていたことは何? 動かぬ証拠じゃない」
「わたしたちは何もしてないわ。話をしていただけよ」
母親は鼻を鳴らした。「なら訊くけど、あの日あなたの首に残っていた痕は何? ここでよろしくしていたんでしょう」
「あれは······」愛梨は口ごもった。
「ほら見なさい、弁解できないじゃない」母親は山本に目をくれた。「山本、何の為の休暇願いだったの。私はあなたにチャンスを与えたのよ」
「ただのリフレッシュ休暇なのよ。そう言っていたわ」
「あなたは黙ってなさい。私は山本に訊いてるの」
「そうよね、山本。旅行を楽しんだり柔道のお稽古したり、充実した休暇だったのよね。さっき宿でそう話してくれたじゃない」
「宿?」
母親は目をむいた。愛梨はとっさに口を押さえるが遅かった。
「あなたたち、宿で二人で過ごしていたの? 呆れたわ」
 ちがう、首を振ったが、母親は山本をにらみつけた。
「山本、これが通ると思ってはいないわよね。このままで済まされないことはわかっているわよね」
「どうしてそうなるの?」
「どうして? わからないの? 山本はこの家からお給料をもらって働いてるの。いい、私たちが雇っているの。それだけ言えばあなたもわかるでしょ、子供じゃないんだから」
「でも、わたしたち法を犯しているわけじゃないわ。山本の何がいけないのよ、ちゃんと仕事に徹してるじゃない」
「まだわからないの? それともとぼけているの?」
「お母さまは人のことを言えた立場かしら」
「なんですって?」母親の形相が変わった。
「お母さまだって、外で誰とも知らない男の人と」
「申し訳ございません」
 やおら山本が立ち上がり、腰を折り曲げた。
「山本?」
 見ると、山本は苦そうに目をつぶっている。
「誠に申し訳ございませんでした。処分なら如何様にも受ける覚悟でございます」
「なぜ謝るの? あなたが謝る必要なんてないのよ」
「山本、認めるのね」
「はい、返す言葉もございません。すべてはわたくしの認識の甘さにあると存じます」
「どうして!」
 愛梨は叫んで山本を揺すった。母親は大きなため息を吐いた。
「まったく、柴田といいあなたといい、まともに働いてくれる人はいないのかしら」
「柴田なんかと一緒にしないで! 山本はわたしを大切にしてくれたわ!」
「そう、大切にねえ」母親は口を曲げ、身を屈している山本を舐めるように見た。
「そういう意味じゃなくてー」
「もういいわ。山本、出て行きなさい」
「お母さまお願い! 山本、ちゃんと話し合って! 本当のことを言って!」
 泣き叫ぶ愛梨を残し、山本は素早くリビングから出ていった。あとを追おうとする愛梨の腕を母親がつかんだが、それを力ずくで振りほどいた。門に手をかけている山本の手首を捕まえた。
「約束したじゃない、わたしの前から消えてしまわないって。二人のとくべつなクリスマスを作ってくれるって」
 山本は背中越しに言った。
「わたくしとの約束も覚えておいでですか」
「あなたとの約束?」
「覚えていらっしゃらないのでしたら結構です。手を離していただけませんでしょうか」
 そう言って振り向いた山本の目は、いつか見た背筋が凍るほどの冷徹なものになっていた。
「どうして······」
 どうしてそんな目で自分を見ることができるのか、愛梨には信じがたい思いだった。力を奪われた愛梨の手から手首を引き抜くと、門を閉じ、山本は車で走り去った。いつから降り始めていたのか、白い粉雪が無音の中を舞い降りていた。立ち尽くす裸足の裏がひどく痛かった。

涙も渇れ果て、布団を頭からかぶり、愛梨は山本が最後に口にした「わたくしとの約束」という言葉をぶつぶつと繰り返していた。
 様々な山本との会話を呼び起こし、たくさんの場面をよみがえらせていた。去り行く時の山本の目は、愛梨の身を切るほどに鋭いものであったが、思い浮かぶ山本の眼差しは、いつも穏やかで愛梨を包むようなものばかりだった。
 いつ何時も、山本は愛梨のすべてを守り、許容してくれた。そんな山本が、一度だけ何かを要求してきたことを思い出した。山本はそれを「わたくしの願い」と言っていた気がする。愛梨ははっと顔を上げた。
「降ろうとする幸せを、見逃さず、この手で必ずつかんでいただけますでしょうか」
”わたくしの願いでございます“
 山本の瞳にサイドランプの灯りが映り込み、きらめいていた。


 粉雪が降ると、あの日を思い出す。愛梨はそんな日をまるで記念日のように手帳に書き記す。
今朝も静かに雪が降っていた。

 娘を保育園まで送り届けなければならない。いつまでも感傷に浸っている暇はなかった。開業医の夫は休診日なのでまだ寝ている。娘を起こし、朝食をとらせた。
 リュックを手に取り、走り回る娘を捕まえ背負わせた。靴を履かせ玄関を出る。扉に鍵をかけた。その鍵にはジンベエザメのキーホルダーがぶら下がっている。古い、思い出のキーホルダー。化粧ポーチに入れて保管していたが、一度見当たらなくなり大騒ぎをして探し回ったことがあったので、家の鍵につけることにした。
 さむいね、ママ。娘が言う。寒いわね、愛梨が返す。手をつないで歩く。娘が空に向かって大きく口を開けている。
「真奈ちゃん、何をしているの?」愛梨が訊いた。
「雪たべてるの」娘は答えた。
「おいしい?」
「おいしくなあい」
 ふたりは声を上げて笑った。娘だけは守らないと。愛梨は思った。
 
 夫はよく働き、愚痴をこぼすこともない。結婚してすぐに、授かるであろう子供と愛梨の為に、決して豪奢ではないが、小さな庭がついた戸建ての家を購入した。真奈が生まれると、風呂と寝かしつけの役割を担ってくれた。そんな夫に離婚届を突きつけようというのだ。誰が見たって愛梨がおかしい。間違っている。
 
 わたしはおかしい。間違っている。

 遠い思い出だからこそ、美しく感じるのか。きちんと別れを言えなかったから、吹っ切れず、いつまでも引きずっているのか。

 愛梨は灰色の空を仰いだ。
「ママ、おいしい?」娘が問う。
「おいしくなあい」娘の口調を真似た。娘がけらけらと笑う。

 竹林の角を曲がると、地主の大邸宅がある。門から玄関まで見えないくらいに遠い。
 今朝はその門が一台の車でふさがれていた。愛梨の心臓は大きく脈打った。黒いくじらのような車。愛梨はナンバープレートを見た。間違いない、彼の、山本の乗っていた車だ。運転席には誰も乗っていない。エンジンは止められている。車の中をしげしげと見る。いや、あれから六年も経っているのだ。もしかしたら別の運転手が使っているのかもしれない。
「ママ、いこうよ」娘が手を引っ張る。再び歩きだしたが、愛梨は何度も振り返り車を見る。
 
 上に高速道路が通るトンネルを抜けると保育園に着く。そこここで朝の挨拶が交わされる。靴を脱がせると、真奈は一瞬にして奥に消えた。それを見た保育士が笑う。「ではよろしくお願いします」

 あの車はもう行ってしまったかしら。足早に歩き、トンネルをくぐった。
 黒い車はまだそこにあった。車にも門にも人はいない。ところがエンジンはかかっていた。車の中を覗く。エンジンキーにはジンベエザメのキーホルダーがぶら下がっている。胸が高鳴る。
 いつの間にか雪は止んでいた。次第に雲が割れ、陽光が雲間から降り注がれた。

「降ろうとする幸せを、見逃さず、この手で必ずつかんでいただけますでしょうか」
 忘れはしない。それだけでも伝えたい。伝えられたら。

 しばらく竹林に隠れるようにして見ていた。山本はなかなか出てこない。愛梨も仕事に行く時間が迫る。五分待ち、そこを離れようと背を向けた時だ。
「お嬢さま、ご容赦願えますか」
 はしゃぐ小さな女の子をたしなめる山本の声が聞こえた。愛梨ははっと振り返った。

                 完



 



 






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