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【俳句】蜜柑 冬の雨 木枯 小春日和 〜碧 萃生

蜜柑剥く指に傷あり世界病む

修繕のセールスマンや冬の雨

木枯も一号来たり備へよし

シネマあと語らふ小春日和かな

冬ざれや京の縄手の言ひ伝へ

京都の鴨川の東に、大和大路という市内を南北に貫く通りがある。
この大和大路だが、四条通りから三条通りの手前までの短い間は縄手通りと呼び名が変わる。
これは、昔、この通りを、罪人が縄に手を括られて引っ張られていったことに由来する。
引っ張られて行く先は三条河原。
鴨川の河原、三条から六条あたりまでが昔は京都の処刑場だった。
平将門の首も、ここに晒された。
豊臣秀吉の養子である秀次の首も晒された。
また、その妻や子供など39人もここで処刑された。
石田三成や小西行長も、ここで処刑され、その首が晒された。
石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたのも、この河原。
この石川五右衛門、歌舞伎では、南禅寺山門に上り、「絶景かな、絶景かな」と大見得を切るが、実際には、山門は当時は消失の後で、まだ再建されてはいなかった。
新撰組の近藤勇は、東京で処刑された後に、その首はわざわざ三条河原まで運んで晒された。
当時の人は、こんな晒し首を眺めながら、鴨川岸の料亭で一杯やっていたのだろうか。
今では、観光客で賑わう縄手通りから三条河原。
そこには、こんな忌まわしい過去がある。
そんなことにも少しは思いを馳せてみて欲しい。

※縄手には、土手、真っ直ぐな道という意味もあり、それが由来ともされている。
しかし、四条から三条の短い間だけが「縄手通り」と呼ばれており、その先にあるのが三条河原となると、実際にはどうなのだろうか。

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