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書くこと、読むこと、生きること

500号本塁打、ではなくて、500本安打でもなくて、もちろん500盗塁でもない。
強いて例えるなら、500打席、あるいは、500試合出場と言ったところか。
でも、別に例える必要もない。

先日、noteを始めてから500回目の投稿ですとお知らせされた。
だから何だと言うわけだけれども、個人的にはこれだけ継続できたのはすごいことだ。
日記を毎日書こうと何度も試みたが、1か月と続いたことはない。
論語を1節ずつ最後まで通読しようという目標は、何度今年の目標になったことか。
毎日貯金などは、もともとそんな余裕もないところから始めるので、金欠になるとすぐに使ってしまって続くはずもない。

この記事で504回目、いや昨晩、日本の勝利に我慢できずにつぶやいてしまったので505回目の投稿となる。
noteを始めてから1年と3ヶ月ほどのこの期間が、人生でいちばんコツコツと文章を書いた期間になるかもしれない。
学生時代にもそこそこ書くことが多かったが、二日酔いで書くどころではなかったり、バイトで疲れてバタンキュー( 死語ですね )だったりで、何も書かない日もかなりあった。
社内報の編集長だった時にも、自分で書く原稿は限られていたので、どちらかというと他人の記事を校正することの方が多かった。

もしもあの頃に、というのは、10代後半あたりにこのnoteがあれば、僕の文章力ももっと上達していたのにと思う。
だから、今、このnoteで若い人を見かけると、羨ましくて仕方がない。
軽い嫉妬さえ覚えるほどだ。
あの頃は、書いても書いても、それは誰に読まれる宛もない、でも、もしかしたらこの文章がと信じて、書くしかなかった。
そして、そんな文章のほとんどは、引き出しの奥にある、忘却の扉の向こうに消えてしまった。

今のところ、noteに年齢制限はない。
このまま何歳まで続けられるのか、何回まで投稿記録を伸ばせるのか。
できることならば、認知機能があやふやになっても書き続けたい。
その時には、それはそれで詩的な文章になっているのではないかと期待している。

とにかく、今の時代、打席はあらゆるところに用意されている。
誰でも、打席に立つことはできる。
打席に立たなければ、試合は始まらない。
時には、死球を喰らうこともあるだろう。
それでも負けずに立ち続けたい。
痛烈なヤジを飛ばされることもあるだろう。
それでも、胸を張って立ち続けたい。
老害だという奴にはこう言ってやる。
「これを老害と言うのなら、生きること、そのものが害じゃないか」

書くこと、読むこと、生きること、この3つが同じだと言える人生を歩んでいきたい。

最後に、500回の投稿を続けられたということは、少なくともそれだけ読んでいただいた方がいるということだ。
感謝しかない。
ありがとうございます。
欽ちゃんがいつか言っていた。
「人は有名になるのではなくて、有名にしてくれる人がいるのです」
全てにおいて、そういうことだと思う。

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