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情報を料理する

家にテレビがない生活になって、8年が過ぎた。
全く不自由していないし、不満もない。

大きな災害があった時も、地域一帯が謎の停電に巻き込まれた時も、
台風が襲来した時も、誰かが暗殺された時も、爆撃が起きた時も、
テレビがなくても瞬時に情報を得ることができている。
むしろ、テレビの方が情報は遅い。
BBCをはじめとする世界のメディアが日本のことも世界のことも
的確にインターネットで報道してくれる。

テレビが悪いと言っているのではないし、テレビが好きな人はどんどん見て楽しめばいいだろう。テレビというものは、娯楽ももたらしてくれるし、どこにいても受信できる機材と電源があれば、スイッチ一つで誰でも等しく映像を楽しむことができる。

けれど、私個人の生活には必要がないものだった、と言う結論が出てしまった。

さらには、最近はスマホを中心としたネットの利用時間も減らしている。
通信データ量を少なくすれば月に千円ちょっとでスマホが持てるような格安SIM契約に変更してから、無駄にネットを徘徊しなくなった。
実に快適である。

これは一体、何が起きているのだろうか。
考えてみれば、私に適した情報量に絞り込まれることによって、それらの情報を処理するための余白が生まれ、的確に処理が進むようになったのかもしれない。

テレビやネットがもたらしてくれる情報が、あまりにも多岐に渡り、あまりにも膨大で、
私には扱い切れなかったのだ。

入ってくる情報を本当に必要なものだけに絞り込み、それらの材料を無駄なく調理するように心がけた。
すると、発展的な思考も生まれやすくなり、何よりも、疲労感が低減した。

参考資料は多ければ多い方が良い場合もある。
しかし、どこかで結論を出したり、まとめたりする作業が必要になってきた時に、
一旦、情報収集の区切りをつけなければならない。
資料を集める熱量と同じかそれ以上の労力が、物事をまとめて結論づける時には必要なのだ。

テレビやネットから垂れ流されてくる情報の渦に巻き込まれ、処理できないままに、新たな情報に埋もれてしまう。
過去の私は、そんな状態だったのだろう。

人によって、処理できる情報の量は異なる。
私にとっては多すぎると思える情報量でも、上手に扱える人もいるだろう。

食材だけを大量に買い込んでも、調理しなければ腐らせてしまって終わりになってしまう。そして調理方法を間違えれば、美味しい料理も完成しない。

いかに調理するか、いかに編集するかが、やはり重要なポイントなのだろう。

去年から私は慣れ親しんだ調理方法を一旦ゼロにし、自分自身の編集方法を見直したいと思って過ごしてきた。
慣れというのは恐ろしいもので、一度染み付いてしまったものを除去するのは簡単ではなかったし、今もまだその渦中にある。

資本主義社会で生きるために身につけてきた小手先の技や、親に強制されたことが傷に擦り込まれたままのこと、周りに同調することで自分を守ったつもりになっていたことなどを、一つ一つ検証する作業は、思った以上に忍耐を要した。

さらに、どちらが先で発生したことかは定かではないが、これまで比較的簡単に会うことができていた人たちの中で、どうしても会えなくなってしまった人たちが出てきた。
会いに行こうとすると、他の予定が入ったり、お互い予定が合わせられなかったり、急に体調不良で発熱したりと、会えない壁が立ちはだかる。
逆に、そんなに苦労せずともちゃんと会える人たちも一定数いるし、その中には新しく出会う人たちもいる。

情報を整理し、処理できる自分のスペックに合わせてスピードを調整し、新しい状態で編集を心がけたことと、周りの人や環境が自然と変わってしまったことは、おそらく無関係ではないだろう。

本当は、無意識下で理路整然と一本の川が流れていて、その通りに着々と川下へと進んでいるだけなのかもしれない。

2023年に断捨離したことをベースに、2024年は調理編集をもう少し進めていくことになりそうだ。

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